第14話


 シマ・フォーティタウゼント指揮官の言葉が気になり、結局アサギリはパーティー会場に戻った。ヘアセットを崩し、化粧を落とし、服装も日常の外着とそう変わらない。若い護衛と並ぶと遜色がある。しかしドレスコード違反だからといって入場拒否をされることはなかった。それは彼女の立場のせいだろうか。

 イセノサキは部屋の隅のラウンジスペースにいた。巨大なクマのぬいぐるみが隣に座っている。

「素敵なダンスパートナーですね」

 彼はストローでウーロン茶を吸っていた。シマ・フォーティタウゼント指揮官の話からして、彼もそれに関わっていたのかもしれない。ソファーに座っている姿に疲労を透かしてしまう。

「シオザワフカザワが置いていった」

「どうでした。元気でしたか」

「そうだな。元気だった。勘弁してくれ」

 アサギリはイセノサキの頬に付いたリップカラーに気付く。

「すみません、イセノサキさん。ちょっと触ります」

 指でピンク色を拭う。するとレーゲンが近付いてきて胸元のハンカチで彼女の手を取って拭き取った。

「ありがとう。―ノワキちゃんですか」

 イセノサキは沈んだ様子で黙っている。

「じゃなきゃセクハラですよ」

 たとえノワキ・シオザワフカザワであろうとハラスメントであろう。しかしエースパイロットに対して誰も頭の上がる者はいないのだから、テンセイ・イセノサキは人柱である。人柱にセクシャルハラスメントを訴えられる人権はない。

「いいや」

 神妙な間に、アサギリは固まる。

「求婚された」

 彼は平然と、しかしやはり沈んだ様子である。

「は?」

 アサギリは目が点になった。咳が出そうな驚きを示す。

「シオザワフカザワではなくて」

 本人の声は落ち着いている。ノワキ・シオザワフカザワからでないことは、アサギリも直感で分かっていた。ノワキ・シオザワフカザワが彼に執着するのは色恋ではない。情を向けるとすれば、それは愛玩と、実の父親からだけでは満たされない承認欲求のためである。

「え、誰ですか。職場の人?ここにいる人ですか?」

「モーリンジ株式会社の専務の令嬢だ」

 彼はストローを吸った。モーリンジ株式会社はエンブリオ製造に出資している一流企業だ。基地にあるサーキットにも大きな看板があり、レースマシンにもステッカーが貼ってある。

「どうするんですか」

「断るさ」

 アサギリは照明の届く範囲で男女ペアになって踊る集団を見ていた。誰が誰だかは分からない。

「断るんですか」

「結婚には興味がない。それに今日が初対面だ」

「あらら。それは仕方がないですね」

 アサギリは巨大なクマのぬいぐるみの足を開いて、余った座面に浅く腰を下ろす。

「それで、何か忘れ物でもあったのか」

「さっきフォーティタウゼント指揮官から聞いたんですけど、わたしを探している人がいるとか、いないとか……」

 イセノサキは少し眠そうだったが、持ち直したらしい。ふと項垂れていたのから顔を上げる。

「整備部のマヤバシくんだ」

「えっ、なんでですか」

「いるのかどうかと訊かれたが、あとのことは知らない」

 イセノサキはまたウーロン茶を吸った。配膳ロボットが傍までやってくる。彼は注文画面を開いた。

「何か飲むか。ツキヨノくんも座るといい」

 テンセイ・イセノサキを上官と見做みなしているのだろう。レーゲンは4人が向かい合って座るように配置されたシングルソファーに腰を下ろす。

「すぐに出ます。こんな服装かっこうですし。誰なのかな、って気になっただけですから。ツキヨノくんはどうする?わたしは部屋にいるし、ここに残る?」

「俺も行く」

「夜に会食ですよね。モーリエ・アムールグランドホテルでしたっけ」

「そうだ。ツキヨノくん、その時は俺が代わるから、それまではミナカミを頼む。堅苦しければ着替えてくれて構わない」

「はい」

 アサギリが立ち上がるとレーゲンも座ったばかりだというのに立ち上がった。





 レーゲンはスーツを着替え、フード付きのスウェットシャツにカーゴパンツを履き、アサギリと2人揃って、場所に相応しくない服装をしていた。彼は部屋のソファーに座っている。2人部屋を2人で使うことになっているが、あまりにも相方が静かなため、一人でいる気分だった。彼女はベッドに寝転がっていた。すでに飽きている。

「ミナカミ先生は、弟とは暮らさないのか」

 アサギリはごろ、と転がり、俯せになって顔を上げる。足がぱたぱたと水泳のようである。

「うん。霹靂神はたたがみ統治ノ地は、ヴェネーシア水源郷の同盟関係国とは名ばかりの属国だからさ。ああ、わたしのお母さん、ヴェネーシア水源郷のお偉いさんなの。だから、まぁ、娘がいれば、いくらお偉いさんでもよっぽどのことが無ければ悪いようにしないでしょ」

「弟ではなく、ミナカミ先生がやるのか、それを」

「だって霹靂神統治ノ地は戦争ないんだよ。ヴェネーシア水源郷は、戦争大国なワケで。わたしが軍人になって、弟がこっちに来るの?」

 二言目には性の分断を口にするレーゲンの価値観に合わせる口振りだったが、果たしてこの嫌味は彼に伝わったのか。

「確かに」

「でしょ」

「ここは平和な国だと思う。だから、ミナカミ先生の孤独が際立って見える」

 金色の双眸の力が強く、アサギリは直視できなかった。故郷と家族を失い、一部名を変えて、文化の違いから長く伸ばした髪まで切ったこの少年に言われるとむず痒い。

「孤独かな、わたしは」

「他の人たちには家族がいる。仕事も嫌なら、辞められないこともない。街に出て、好き勝手やっている」

「それは、ランドロックトくんの偏見だな。わたしは恵まれているほうよ。ちょっとは寂しいけど、わたしがパイロットであるうちは、好きにさせてくれるし、お母さんが宗主国の偉い人だから、戦地にも飛ばされなくて……お父さんはわたしもいないし、二親揃ってるのがいいことだとは思わないけど、本当に身寄りがなくて困ってる人もいて、仕事にも就けなくて住むところもない人もいるわけで…………」

「そういう輩の話はしていない。あんた基準ではどうなんだ」

 レーゲン・ランドロックト・ツキヨノ、或いはレーゲン・ツキヨノ・ランドロックトという少年はなかなかに理不尽である。アサギリは微苦笑した。

「孤独じゃないよ。少なくとも今は」

「それならいい」

「意外と優しいのね」

「俺の故郷なら、よくあることだ。家族を失うのも、自分の腕や脚を失うこともあるくらいだ。俺はスクールが吹き飛んだが、家がなくなることもある。何も失わず、傷付きもしていない奴を探すほうが難しい。ただ、この国の基準ふつうは違うから」

 アサギリは微苦笑を浮かべたまま、目を伏せていた。

「平和ボケって言われたらそれまでだけど、日常の中にほんとに小さな戦争があってさ。生き死に関わらないかも知れないし、精神擦り切れていっぱいいっぱいな人もいるわけで。それが平和の証って言われたらそれまでだけど……人には人の抗争があるのよね。ランドロックトくんに言うのは、情けなくて恥ずかしいことだけど」

「人には人の許容量がある。見てきた世界も違うなら仕方がない。情けないのは、俺の故郷のほうなのかもな」

 彼女はレーゲン少年の様子を窺う。

「どっちが正しくて間違ってるかは分からない。俺は戦いを選んだ自分の故郷が正しいと信じたいが、もしかしたら、今になって思うと、降伏させしておけば、殺戮も乱妨奪らんぼうどりも粛正もなくて、この国みたいな平和が訪れたんじゃないか、とたまに思う。たまに……な。ただ戦争という事実は間違っていて、どっちの国民がかなんか関係なく、人にあんなことさせちゃいけなかった。一般人どもを軍人になるよう仕向けるんじゃなくて、やりたいやつだけ会場作って、勝手にやっててくれればよかった。もしかしたら妹も、さっきのダンスパーティーで見た女たちみたい、ああやって……」

 膝を掴み、レーゲンは項垂れた。

「ランドロックトくん……」

「甘えたな」

 彼はすぐに顔を上げる。あまりにも早い立ち直りが、却ってアサギリを不穏な心地にした。

「全然。甘えだったんだ、今の」

 彼女はやっと少年を真っ直ぐ見ることができた。レーゲン少年はばつが悪そうだった。

「ちなみに、つまらないことを訊くが、父親は……?いないという話だったが……」

「別につまらなくないよ。顔も知らないし。産まれたときにはいなかったんだ。だから悲しくないし、最初から居なかったってわけ。死んでるか生きてるかも分からない」

「……そうか」

「お父さんがいたら、どういう人だか知らないけど、たまにはこっち来てよって言ってたかもね。お母さんと一緒で忙しい人だったのかも知れないけど」

 アサギリは父親を、写真ですらも見たことがない。遺品を手に取ったこともない。母と弟と暮らしていたときも父親の形跡がまったくなかった。アサギリは生殖に男は不要だとすら思い込んでいたくらいだった。

「あーあ。お風呂入ろ。そしたら美容院行って、ホテル行って……」

「ディナーパーティーがあるな」

 指折り予定を追っているとレーゲンが容喙ようかいする。

「そうだ。ってことは会食のあとに着替えなきゃか……」

 アサギリはバスタオルを取って浴室へ消える。






 モーリエ・アムールグランドホテルまではヴェネーシア水源郷の軍人が運転する軍用車輌に乗っていった。この車種は軍のもので戦地に投入されているが、この車輌自体は戦地だはないところで披露するためのものらしく、展示品的な趣がないこともなかった。

 アサギリは生成金色の地に桃色の花柄と鶴の舞う絵が描かれた寛衣型の衣類に分厚く幅広い帯を巻いて留めた服装をしていた。裾で広がらないマーメイドドレスを思わせる。脚が広がらないため、補助のために急遽レーゲンも付き添うことになったが、ホテルに着くと彼はフォーティタウゼント指揮官と別のホールへ案内された。アサギリは先に着いていたイセノサキと数時間ぶりに再会した。

「ダンスパーティーは昼間にやるものじゃあないですね」

 イセノサキは昼間はいくらか遊んだ身形をしていたが、今はかっちりとしている。基地で見る上司と雰囲気がよく似ていた。ゆえに疲れが滲んでいる。これも仕事のひとつだが、職場ほどの堅さはない洒落気のあるヘアセットと相俟って、退廃的な色気を醸している。

「似合っているな」

 揶揄半分、本音半分に口から出かかった言葉を先に言われてアサギリはぎょっとした。

「やっぱ疲れてますね、イセノサキさん」

「普段動かないからな」

 とはいうものの、彼は日頃から人材育成に無頓着なのか部下に頼むのも厄介と言った調子で広い基地を行ったり来たりしている。動かないということはないだろう。しかし今日は使う筋肉が違い、張り巡らせる精神力も比べものにならないほどだったのだろう。

「っていうか普通はこういう系のパーティーって夜やりません?子供のお誕生日会じゃないんだから」

「予定が押していたらしい」

 アサギリは憂鬱げな上司を観察していた。

「で、踊ったんですか」

「いいや」

「え!パートナーかわいそ」

「いない」

 彼女は化粧が崩れるほどおかしな顔をした。イセノサキの眉根が寄る。

「なんでですか。人のパートナーについては口煩かったのに」

「フォーティタウゼント指揮官とパイロットのミナカミ、おまえが出席していればあとは添え物とそう変わらん」

「で、わたしは出なかったと」

「そうだな」

 彼は不慣れなものを着て歩行に制限のかかっているアサギリに歩幅を合わせ、ときには腕に掴まらせた。案内されたのは天井の高い大きな広間で、真ん中に円卓が置かれていた。会食相手はすでに席についている。

 イセノサキはうやうやしく彼等あるいは彼女等に霹靂神はたたがみ統治ノ地式の礼をする。アサギリはぼさ、と突っ立っていた。テーブルを囲んでいるのは、弟と、弟と同年代くらいの小娘、そして見覚えのある中年の婦人だ。アサギリは驚きのあまり、そこで思考停止してしまった。

「姉さん」

 ユウナギが椅子を立ち、姉のほうへとやってくる。

「ナギちゃん」

「母さんと、僕の紹介したい人です」

「お母さん?お母さん……来てくれたんだ」

 この地に来ているとは彼女も想像していたが、しかし会えるように計らっていたことは考えてもいなかった。母は忙しいのだ。

 アサギリは遠目に座っている母親を捉えた。中年の婦人が手を振っているように見える。

「姉には僕が付き添います。先に行っていてください」

 ユウナギは可憐に微笑んでイセノサキに言った。イセノサキは霹靂神統治ノ地式の最敬礼をして円卓へと向かった。

「姉さん。おキモノ、素敵ですね。よく似合っています」

「ありがとう。わたしがキモノドレスだから、イセノサキさんもキモノスーツにすればよかったのに」

 アサギリは昔と変わらず品行方正で清楚な弟に照れてしまった。

「それだと夫婦みたいです。母さんが心配してしまいますよ」

 そこには揶揄の色があった。紺青の帯巻き長着と羽織姿のイセノサキが脳裏から雲散霧消する。

「えっ、」

「テンセイ・イセノサキなら悪くないと思います、僕は」

 アサギリは顔を真っ赤にする。

「ない、ないない。ないよ、それは」

「うっふっふ」

 ユウナギは悪戯っぽく笑った。姉に少し踏み込むところは、いくらか昔と変わったかもしれない。アサギリからみて、彼は姉であっても一線引いた内気で寡黙な子供であった。

「お手をどうぞ」

 彼はハンカチを取り出して両の掌を拭いてから手を差し伸べる。

「よろしくね」

 弟の手に手を重ね、円卓へと案内される。イセノサキは起立したままアサギリを待っている。ユウナギは着席させる前に、彼女の対面になる見知らない少女に目交ぜで合図した。16、17といった頃合いの娘が立ち上がる。

「紹介しますね。あちらは、僕の婚約者のスズカ・フロレスタ=パレス・カープバナーです。で、こちらが僕の姉のアサギリです」

 スズカという少女は艶やかな黒髪を左右に縛り、毛先を巻いて、赤と桃のドレスを着ている。ウサギだのモルモットだのモモンガだのの小動物に似た庇護欲を煽る可愛らしさの弟と、系統が同じ可憐な娘である。

「よろしくお願いいたします」

 声の質感も細く高い。

「よろしくお願いします」

 アサギリも弟の婚約者の登場に少々の驚きがあった。それから穏やかな表情で娘と息子、その婚約者の交流を眺めている母親へ身体ごと向ける。

「お久しぶりです、お母さん」

 母親のコントレイナ・ミナカミ=コガラシ・ラヴィンフルスは微笑みを返す。

「お久しぶりですね、アサギリ。お元気にしていましたか」

「はい!とっても」

「それはよかった。今日は家族会です。イセノサキ、貴方もそのおつもりで、少しは興に乗じることです」

 イセノサキは了承の辞儀をする。

「さぁ、ではお料理を運んでくださいな」

 コントレイナは手叩きをする。ホールにこだました。そしてワゴンが押されてくる。

「ところでアサギリ。ダンスパーティーの間はどうしていたの」

「少し……船酔いをしてしまったんです」

 アサギリはまさか母が来ているとは知らなかった。そしてダンスパーティーについて言及されるとも思っていなかった。嘘を吐いたが、平然とはしていられない。

「あら……まぁ。今夜の会食をホテルにしてよかった。また体調が悪くなったら遠慮なく言いなさい」

「え、お母さん、あのときにいたんですか、会場に……」

「配膳ロボットのカメラを借りていたのよ。わたくしも船酔いをしてしまいましたからね。でもあなたは、たびたび会場に顔を出してくれていたようでよかった」

 コントレイナは柔和な眼差しをくれた。

「あなたと一緒にいた男の子は、あなたのダンスパートナーだったの?」

「違います!イセノサキさんに代わって、わたしのボディーガードをしてくれた子です」

「あら、年下?」

「そうです、そうです。ナギちゃんの2コ上ですよ」

 コントレイナは目元を眇め、その視線はアサギリの隣のイセノサキを捉えている。しかし話しかけはしなかった。

「そう。しっかりしていたから、あなたと同い年くらいかと思った」

「わたしも最初そう思ったんですけどね」

「シマ・フォーティタウゼントと隣のホールにおります。呼びますか」

 イセノサキが訊ねた。コントレイナは悪戯っぽく、意地の悪そうに笑ったのを口元を拭いて誤魔化した。

「娘を守ってくれてありがとうと礼を言ったらいいのかしら。それならばイセノサキ、ありがとう」

 そのときイセノサキは一瞬で顔を赤くして俯いてしまった。アサギリはその様子を見て、母とイセノサキの関係について、脳へと静電気が走る体験をした。しかし歳が離れている。否、直感的な部分に年齢は関係ないのかもしれない。アサギリの頬が緩む。

「うふふ、アサギリ」

 笑う様が母と弟はよく似ていた。

「好い人はできた?」

「あ……い、いえ。自分のことばかりで」

「あら、そう。残念半分、安心半分ね」

 豪華な料理を食いながら、家族と義妹になるかもしれない娘、それからイセノサキと団欒を過ごす。

 母たちとは一旦解散になった。これからディナーパーティーがある。ディナーといっても軽食やアルコール飲料が少し出るくらいで、腹を満たせるものではない。

 アサギリはモーリエ・アムールグランドホテルの弟の借りた部屋へ来ていた。彼女の部屋は巡航船アスマデモニヲにあるため、休むならパーティー会場か、ホテルのラウンジを使うか、アスマデモニヲまで戻らなくてはならない。

 アサギリはユウナギの部屋のソファーに座っていた。弟はドレッサー前で髪を気にしてから、いくらかそわそわしているように見えた。何か探し物をしている。

「ナギちゃん、何か探してるの?」

 訊ねると、ユウナギが振り返った。

「いいえ」

 彼は莞爾かんじとしながら否定する。それからアサギリはここに来る前に、ホテルの従業員から落とし物について訊ねられたことを思い出す。それはリップスティックであった。黒に近い濃紺にゴールドの映えたハイブランドのものだった。もしかすると婚約者への贈物だったのかも知れない。会食をした部屋で拾ったというから、母か義妹となるかもしれない少女か、それかアサギリ自身である。ところがアサギリの使っているものはシルバーのスティックであったし、高級ブランドの品ではない。箱も無かったが、男というものはブランド品の箱の価値も知らないのだろう。三途ワタラセに貢いだときにたびたび思うことであった。否、アサギリもまた箱に価値など見出す気質ではなかったが、聞いたことがあるのだ。何よりユウナギはまだ若く、軽率な色恋など許されない軍人である。

 弟の幼いながらも淡くいじらしい計らいが、途端にアサギリをやきもきさせた。だがしかし、彼女はそのリップスティックをすでに弟の婚約者の前に晒してしまったのだ。義妹になるかもしれない娘の身に覚えがないのは当然である。それはもしかすると、これから彼女の物になるかも知れなかったのだ。

「ナギちゃん、もしかしてリップスティック探してる?シルクアンドコクーンの……」

 鏡台の前に立つ弟と、鏡越しに目が合った。そこに柔らかな表情はない。睥睨へいげいするような眼差しが姉を向いていた。

「いやだな、姉さん。どうして僕がそんなものを探すんですか?」

「え……?あの婚約者の子にプレゼントするのかな……って」

「まさか……ですが、それがどうしたんというんです。何故、リップスティックだなんて、そんなものが出てきたんですか」

 アサギリの知っている弟の声ではなかった。同じ喉ではある。だが、久々に聞いたものとはいえ、姉の知っている喋り方ではなかったのだ。それはピアノ線を一本貫いたような緊張感を帯びている。

「落とし物だって……さっきみんなでごはん食べたところ」

「なるほど」

「やっぱりナギちゃんの?」

 そういうことであるば、受け取っておけばよかったのである。だがその時は、このようなことを考えるよしもなかった。

「そんなわけないでしょう」

「ああ、よかった。スズカさんだっけ。スズカさんのかって、訊いちゃったから。そうしたら、プレゼント失敗だもんね」

「姉さん」

 ユウナギはぐりんと身体を姉のほうへ向けた。

「姉さんは暢気で、やりたいことがやれて、自由でいいですね」

 俯き気味で、垂れた前髪の奥に怒りに燃えた双眸があった。

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