第18話 ※一部規制


 ノワキ・シオザワフカザワはその腕に抱く四肢のない男の肉人形も然ることながら、目付きに正気の翳りひとつもなかった。片手に携帯電話機、片手に人形を抱いている。彼女は画面に手を伸ばし、タブレットから小さくその音声が聞こえた。

『パパ、怪我したの?パパは平気なの?』

 ノワキ・シオザワフカザワの腕にあるのも"パパ"であったが、ここでいう"パパ" はおそらくテンセイ・イセノサキのことであろう。アサギリも何度か彼女がイセノサキをそう呼んでいるのを聞いたことがある。

「パパ?」

「イセノサキさんのことです」

 アサギリは横から口を挟む。

「平気です」

『パパは無事なのね?パパに会わせて!』

「今はまだ会えません。お願いがあります。エンブリオに乗ってくれますね」

 ノワキ・シオザワフカザワは意思表示をしなかった。コントレイナの性急な要求についていけていない様子である。

『パパは、どんな怪我してるの?血、出てるの?骨は折れてる?パパの包帯見たいなぁ。パパ……』

 彼女は肉人形を力任せに抱き締めた。

「すべて終わったら見せましょう。エンブリオに乗ってくれますね」

『うん。包帯のパパ……うふふ』

 ノワキ・シオザワフカザワは画面外へ手を伸ばして何か取った。ペールオレンジの筒状のもので、素材は柔らかいようである。

『パパ、パパ!』

 彼女は気に入りの肉人形の服を脱がせはじめた。四肢のない形状に沿うように作られている。おそらくオーダーメイドなのだろう。人間でいえば式典用の正装である。ベルトを外し、父親の性器を丸出しにした。人形は嫌がるようにばたばたと動いた。

『だめよ、パパ!』

 彼女のこの人を人とも思わぬこの行いはどこからか漏れ、基地に良からぬ感情を抱く者たちから極めて差別的であると非難されている。いいや、漏れたのではない。ノワキ・シオザワフカザワは四肢をぎ取った父親を抱き締めて市街地を闊歩するのだ。そして基地に帰るのだから、その正体を噂されるのも無理はない。またこの父親ソウライ・シオザワフカザワの勤めていた会社でも今の有様は有名である。

「早くしゅつげ……発進の支度をなさい」

『うん……じゃあパパと遊んであげてね。パパが白おねしょしちゃうから。ねぇ!』

 部屋に誰かいるらしい。ノワキ・シオザワフカザワは振り返った。軍服が見える。

『これね、ママの【規制】なの。パパと遊んであげてね』

 ノワキ・シオザワフカザワは無邪気にペールオレンジの筒の説明をする。

「早くなさって」

『行ってきまーす』

 エンブリオ・アスマのパイロットは肉人形と柔らかそうな筒を置いて画面外に消えた。

 コントレイナは深く息を吐いて画面を消そうとした。それと同時にノワキ・シオザワフカザワは戻ってきて父親だった人形を軽々と持っていってしまった。胴体だけでも重いはずである。

 画面を消したコントレイナがアサギリを向いた。

「あの子はイセノサキが好きなのですか?」

「懐いているという意味では、そうだと思います……」

 母親の口調に、親子のような話し方はできなかった。

「イセノサキがおかしな変態趣味を起こしているというお話ですが、それはあの子の影響なの?」

「影響というか、ノワキちゃんがそうしないとアスマには乗らないって……お父さんにコンプレックスがあるようですから」

 母親の目付きが鋭くなる。

「あなたはどうなのですか。父親に、会いたいですか」

 それは圧のように思えてならなかった。ただの問いかけであったのだろうか。しかし生きているのかも語られない。父親の話題は常にこの親子に陰を落とす。気拙くなるのだ。

「……いいえ」

 すると娘の答えに安堵したのか、コントレイナは真っ直ぐ前を見ていた。運転席のヘッドレストと運転手の後頭部を見ているのか、さらにその奥を望んでいるのか。

「私はユウナギにつきましたが、あの人はアサギリ。あなたにつきました。この地にいるでしょう。訃音ふいんも届いておりません。少なくとも今日のこの時点までは」

 アサギリは目を見開いたまま固まってしまった。

「機体に乗ることに躊躇いがあるようですね。イセノサキからよく報告を受けています。あなたがこの地を守ることは、父親を守ることでもあるのですからね」

「はい……でも、イセノサキさんって、何者なんですか……」

 厳母の機嫌を窺うようにアサギリは訊ねた。語尾が消え入っていく。

「昔孤児を拾いました。あなたには遊び相手とボディーガードに、ユウナギには競争相手にしようと育てたのです。それがイセノサキです。根が真面目すぎるのでしょうね。あなたは忘れていたようですけれど、カイセイ=サワ・ケイリンって子は覚えていないかしら」

 その響きが過去の記憶を辿らせる。頭の中がわずかばかり曇り、鈍る。身体の厚みに関係しない奥底から何か引っ張り出そうとしていて上手く出てこない。

「名前はどこかで……」

「それがイセノサキの本名です。イセノサキでいるほうが長いようですが」

「年上の男の子がいたのは、何となく……」

 しかしいつの間にか居なくなっていた。ゆえに忘れていた。

「あなたをこの地に遣ると決めていましたから先にこの地に遣ったのですが上司として久々に会ったあなたは自分の顔を覚えていなかったと言っていました。いつからか知りませんがあなたに惚れていたのでしょうね。命を賭して守るからその時は妻にしてほしいと言われました。無欲な子供だったので驚きましたが、夫がボディーガードというのも悪くないでしょう」

 アサギリはどきりとした。こわい上司は分かりにくい。今まで彼から色恋を嗅ぎ取ったことはない。

「けれどあなたは若くて優しい整備士に惚れているのでしょう。イセノサキは身を引くと言っていました。本当に無欲な子供です。ただ、あなたの身が基地から離れようと離れなかろうと、傍に置かせてほしいと言っていました」

 アサギリは次々と胸を殴られている心地がした。上司とのやり取りを反芻する。その時の彼の心境を考えてしまう。否、彼は仕事は仕事として、癇癪持ちの我儘な部下を相手にしていたに違いない。

 彼女は拘束の解かれないまま助手席に座っているレーゲンの後姿をみた。彼は揶揄のつもりがなくとも、散々フブキ・マヤバシとのことを善意によって冷やかしたのだ。このことを知れたのはいくらかばつが悪い。



 車が港に停まる。交通整理で道は混み、予定時間よりも大幅に遅れていた。船は夜間の小規模な船旅に出ていたが、周辺には人集りができていた。

 巡航客船アスマデモニヲはまだそう海から離れていないところで黒煙を上げて停まっていた。そして形状こそ同じだが、サザンアマテラス基地とは違うカラーリングの白を基調としてグリーンを入れた巨大な機体が夜の色を帯びていた船の高さに合わせ、低空飛行している。腹部のシェルターから梯子を下ろし、乗客たちを避難させている。軍人たちがクルーに代わり指揮を取っていた。

 エンブリオ・ライトニングは足の裏の噴射機とジェットパックを器用に調節している。そしてそれを内部で行っているのがノワキ・シオザワフカザワだ。

 コントレイナはタブレットを開いた。画面にはコックピットの映像が表示されていた。ノワキ・シオザワフカザワはパイロットスーツも着ていなかった。シートベルトもせず、座席の上にうずくまり、四肢のない父親を抱き締めている。彼は白目を剥いて口から泡を吹いていた。

『パパ……パパが………』

 彼女は涙ぐんで人形に頬擦りした。

「イセノサキの運ばれた病院と繋げられる?」

 コントレイナはタブレットに話しかけた。通話相手はオペレーターらしい。厳しい問答が続いたが、やがてコックピットに空中ディスプレイが増えた。映像の中の映像は粗く見えた。話の流れからいうと、瀕死のイセノサキに繋げたらしい。

 アサギリは母親の非情さに固まっていた。

「イセノサキさん、入院したのか」

 レーゲンは相変わらず両腕を後ろにやったまま眉を顰めた。

「テロに巻き込まれて……一番爆弾の近くにいたから……」

「あんたは大丈夫なのか」

「うん……」

 レーゲンはずいと前に出てアサギリの顔を覗き込み、彼女の返事を受けると今度はコントレイナに半歩踏み出る。

「戦線離脱した人間にさせることじゃない」

 映像には手術室が映っている。時折見える血はイセノサキのものだろう。心電図が規則正しく流れていくのを映像越しの映像として見ていた。

「やめて、ランド―ツキヨノくん」

 アサギリが呼びかけ、コントレイナは一瞬ディスプレイから目を離した。レーゲンを一度睨む。

「戦線離脱した人間が望むことは、戦線の状況の善処であるべきです。イセノサキは我が国の軍人。彼もそれを深く理解しているでしょう。その身を惜しむのは恥です」

「そんなわけあるか!1人の人間だぞ。この国に住まうならそうであるはずだ。この国の人間は戦争大国の消耗品じゃない」

「イセノサキの帰属意識はこの国ではないでしょう。おそらくヴェネーシア水源郷です。この国で腑抜けていなければ。自意識の所在もまた」

 アサギリは意外そうにレーゲン少年を見ていた。イセノサキとの間にそれなりの情が芽生えているらしい。いいや、元軍人として目上の人間に対する忠義であろうか。

「それからイセノサキのこれからについてですが、彼の務めはあなたにその身分を知られるまでのことです。すでにあなたたちの上官ではありません。アサギリ、あなたはとにかく、そちらの貴方は、イセノサキのことなどはすべて忘れてしまいなさい」

「いやだ」

 レーゲンは顔ごと逸らしてしまった。

「ツキヨノくん」

 アサギリは叱りつけるような云為うんいをくれたが、彼は強い目でそれを跳ね退ける。

「いいのか、あんたは。こんなときまであの人を休ませてやれないくせに忘れろ、はいそうですか、なんて。そのパイロットだって……神経症なんじゃないのか。この国の奴等でもそんななら……俺もパイロットに志願する」

「悪くない提案です。イセノサキもそれを望んでいました。あの機体に乗るということがどういうことだか理解していたようですから口にはしなかったようですが。あなたは体力だけでなく精神力もあるようで」

 コントレイナはレーゲンのほうを見もせずに言った。それは嫌味も含まれていたのかもしれない。しかし確かにアサギリからみても、レーゲンには体力も精神力もある。

「ミナカミ先生……あんたがイセノサキさんを選ぶのか分からないが、選ばないなら、俺もあんたの居場所になる」

 アサギリは何を言われているのかよく分からなかったが、ただ彼が義憤に燃えていることは分かった。

「それなら、未来のパイロットにその縄は不要です」

 コントレイナは近くの軍人に合図する。

「気遣いは無用だ」

「いいえ。貴方が私のせがれを撃った張本人だとしてでもですね」

 そのうちにレーゲンのいましめは断ち切られた。

「娘を頼みます」

「それは、」

「今この場に於いてという意味です。誰を選ぼうが好きにすればよろしい。ジゴロになるのは決まっているのですから」

 コントレイナはそう言い放って、2人を基地へ送るよう、近くの軍人に命じた。



 帰宅後、アサギリはシャワーを浴びるのが限界で、その後のことはよく覚えていなかった。髪にタオルを巻いて、下着姿のまま寝てしまった。マージャリナにも帰宅を告げることしかできなかった。一日で様々なことが起こり過ぎた。弟とのこと、レーゲンとのこと、三途ワタラセのこと、極めつけはイセノサキのことだ。汚泥めいた眠気に呑まれ、頭にジンギスカン鍋でも被せられたような鈍い痛みがわずかに起こる。

 深い深い眠りに就いて、目が覚めたのは翌々日の早朝であった。途切れ途切れに起きて用を足した覚えはある。ベッドサイドチェストには簡易食の箱が散らばり、食いかけのショートブレッドが破片を散乱させて置かれていた。それを食べた記憶もないことはなかった。視界情報としては残っているが夢だったかと思い直せばそうも信じられる。

 腹が食欲を訴え、一口分欠けたショートブレッドを平らげた。2袋入りで1袋に2個入っている。すでに1個完全に欠けていたから寝呆けながら食ったらしい。アサギリはもう1袋を開け2個とも食った。妙な雰囲気の朝だった。この世は終焉の間近で、今食ってしまったこのわずかな食糧が最後だったのではあるまいか……などと空想の捗る、妖しい朝だった。

 アサギリは隣に同居人がいないのを見て空想に対する現実味を強めたが、彼女の空想は結局のところ空想で虚構であった。マージャリナはソファーで寝ている。彼女は薄い毛布を彼に被せ、適当に服を着ると基地ジャンパーを羽織って寄宿舎を出た。

_彼女は不思議なほど、一昨日のことを考えなかった。薄い灰色の曇天の下に出て、寝静まっている基地構内屋外を練り歩く。まだ寝静まってはいるような雰囲気ではあるけれど、実際のところそうではない。監視カメラの奥ではこの時間でもモニタールームで仕事をしている人間がいる。夜勤労働者のために本センターのほうの購買部も早朝まで開く。社員食堂も縮小して開いている。

 この基地は閑散としているが、寝静まってなどいない。

_アサギリは社員食堂に行く途中、ランニングをしているレーゲンの姿を認めた。黒いシャツの袖を捲り上げ、隆々とした肩を晒している。姿勢が美しい。

 彼はアサギリに気付いていない様子だった。彼女もまたレーゲンを見なかったふりで、足を止めることもなかった。あの少年とあったことを浅く思い出して、それ以上は考えなかった。

 社員食堂で焼きベーコンとベイステッドエッグを温くなった白飯で食うと、彼女は格納庫に向かった。まだ整備士たちも始業時間ではなく、もしかすると騒動で基地の一部の部署は休みかも知れなかった。

 アサギリはエンブリオ・アクギの前に立って、その鮮やかなオレンジ色の機体を見上げていた。身体が仰け反りそうになる。

「おはようございます」

 低い男の声が響き、アサギリは肩を跳ねさせた。彼女は振り向いた。基地の制服に身を包んだ、がっちりした体格の色具の男が立っている。40代に入った頃合いの落ち着きで、イセノサキがそのまま年をとればこうなるだろうというような、研ぎ澄まされた堅さがと、あの上司の若さでは醸しきれない厳格さも備わっている。

「お……はようございます……」

 彼女の知る整備士の人間の手ではなかった。

「アサギリ・ミナカミさんですね」

 男性の中でも低い声は質感も心地良い。

「はい……」

「新しくサザンアマテラス基地で副基地長を務めます。カザバナ・カミヅケミヤマです」

 眉間に皺を寄せるのが癖になっているせいで眉は常に困惑しているようで、さらに神経質な印象を与える。しかし威厳もある。髭を生やし、しかし不潔でだらしないところはなく、却って髭を生やすのが礼装でさえあるような身嗜みである。

 アサギリはその自己紹介を聞いたとき、内心で衝撃を受けていた。イセノサキは、基地に戻って来ないことを意味しているのではないか。

「よ、よろしくお願いします……」

 テンセイ・イセノサキという上司は怕くなかったのだと知る。カミヅケミヤマという男を前にしてやっと分かった。

「前任とは懇意だったと聞いています。急な人事異動で戸惑うでしょうが、どうか何卒」

 差し出された手に応じる。アサギリは握手を凝らしていた。動揺している。混乱している。エンブリオに乗る際には、彼が通信担当になるのだろうか。イセノサキという上司に甘えていたことを知る。彼女は彼女なりに、時折パイロットをしている己を省みることがあるのだった。そして恥じ入る。だが醜態を晒す相手がイセノサキであるから、恥について一夜で忘れる。そしてまた繰り返す。

 では通信相手が、この何事にも容赦の無さそうな峻厳な人物であったら?我儘も甘えも赦さないといった気迫は一目でアサギリを揺さぶってしまった。

「ところで、ここで何を」

「機体を……見ていただけです」

「今日は整備部が半日遅れで会議のみです。待ち合わせでも?」

「いいえ。していません」

 新しい副基地長は嘲るつもりはないのだろうが蔑むような圧のある目で彼女を見下ろす。

「そうですか」

「でも、エンブリオを見にきただけですから」

「エンブリオを」

 綺麗に整えられた顎髭を彼は撫でた。片眉を上げる様がさらに厳然とした感じを強める。アサギリは何かまずいことを言ったかと戸惑う。

「前任者からはエンブリオ嫌いだと聞いていたものですから」

 新しい副基地長はその厳粛な出立ちの自覚があるのか、態度を改めた。

「急に気になっただけです……それではこれで失礼します」

 アサギリは適当な挨拶をすると格納庫を出た。イセノサキのことが頭の中にちらつく。思い浮かぶのは基地でのやりとりばかりだった。今振り返ってみれば小さな諍いが、その時は大きなことのように感じていた。

 整備部が会議のみならば、今日はサーキットも開かないであろう。外を逍遥しょうようとしていると、まだ走り込みをしているレーゲンを再度認めた。今度は彼もアサギリに気付いた。その地点で速度を落とし、彼女の元に来る頃には歩いていた。

「ミナカミ先生」

 彼は明るいグリーンのタオルで顔を拭きながら口を開いた。

「おはよう、ランドロックトくん」

「おはよう」

「元気だね」

「体力が要るんだろ。体力テストがあるらしいな」

 金色の瞳は真っ直ぐにアサギリを射抜く。

「何が?」

「パイロット公募」

 つん、とした頭痛が軽く短く彼女を襲った。一昨日のことがふと甦る。

「あれ、本気だったんだ」

「冗談なわけないだろ。昨日のうちに書類も届いた」

「早……」

「ミナカミ先生は?」

 黄金の双眸に追われていることに気付く。彼らしくない少年のあどけない眼差しにアサギリはどきりとした。

「わたしが、何?」

「元気?昨日はずっとダウンしてたって?」

「うん……ちょっと。でももう平気。心配かけた?ごめんね」

 彼は素気無く視線を逸らす。

「色々あったから」

 その呟くような一言で、アサギリはまたひとつ、あることを思い出した。一晩で様々なことが起きすぎた。そしてどれが最も懸案事項で懸念事項で重要視すべきか、整理もつかなかった。

「ランドロックトくんは、あれから……何か連絡はなかった?軍のほうから……」

「あった。でもパイロットに応募するならすべて瞑るって。ナントカとかいう軍人も無罪放免らしい。イセノサキさんの代理人からそう来たよ」

「イセノサキさんの、代理人……」

 寝ている間に、忙しくあの者周辺のことも動いていたらしい。レーゲンは彼女の一翳いちえいを見逃さない。

「イセノサキさんはとりあえず、一命を取り留めたらしい」

 手術中の姿を見たのが最後だったのだ。鮮血の中、開腹されていたのがモニターで見えていた。彼は生きている。レーゲンは軽やかに言ったが、アサギリは立ち眩みを起こした。

「そうなんだ……」

 頭を押さえたとき、身体は汗で湿る少年の腕に抱き留められていた。

「大丈夫か?」

「ああ……うん……ごめんなさい。安心しちゃって」

 飯を長いこと食わなかった時のような空虚とそのために起こる気持ちの悪さに似ていた。

「目の前でだったんだろ。まだ休んでいろよ」

「平気……じゃ、ないね」

 視界はモザイクがかっている。レーゲンの腕を手摺りみたいにして、彼女は立つ。そして徐ろに屈んだ。レーゲン少年も顔色を窺うように屈む。

「誰か呼んで来るか?」

「平気、平気。1日中ずっと寝てたから、貧血かしらね」

「やっぱ誰か呼んでくるから待ってて」

 彼は走りかけた。しかしすぐに止まった。なんだとばかりに顔を見遣るアサギリをひょいと抱き上げてしまう。

「平気なんだけど。ホントに!」

「メンタルケア受けろって、あんたも散々俺に言っただろ。今がそれなんじゃないのか」

 レーゲンは軽そうに人ひとりを運んでしまった。アサギリは大柄というほど大柄ではないが、この地の成人女性の平均身長よりは少しあったし、小柄ではない。極めて痩身というわけでもないから体重もそれなりにある。だが彼は平然と医局に連れていってしまった。

「明日は筋肉痛じゃない?」

「軍にいた時 相方バディを運ぶ訓練があったから、別に」

「でもお姫様抱っこじゃないでしょう?」

「なんだ、お姫様抱っこって」

 レーゲンは気難しそうに眉を顰めた。

「王子様がお姫様を運ぶときに、さっきみたいに運ぶの」

「王子が直々に姫を運ぶのか?側近はどうした」

 アサギリはこの話をこの中途半端なところでやめてしまった。

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