第2話 雪国へ

 トンネルを抜けるとそこは雪国であった。

 とても長い間バスに揺られているので、頭がボーっとしてくる。そんなボーっとしている頭で思い出しているのは、ここに僕が来た経緯である。

 大学生の身分である僕、出雲薫は小鳥居弥生という僕の彼女に、長野県にある吉野スキー場の旅館でお手伝いをしてきなさいと言われた。というのも、僕は今まで不幸な身分だったので、世間を広く見るという経験をしてこなかった。そのためこうやって時たま、弥生……通称よいちゃんに言われてこうやっていろいろなことをすることがある。

 滞在期間は約二週間。よいちゃん曰く「あなたにしかできないことがあるはず。だから、旅館を隅々まで見て、あなたを必要としている子を探しなさい」と意味ありげに言われたので、恐らく何かしらただの手伝いではなく、僕が吉野スキー場に行く理由が別にあるのだろう。

 そもそも、僕がよいちゃんにこうやっていいように言われて、まるで使われているような立場にあるのは、僕自身がもともとよいちゃんの執事という立場だったからと言う理由がある。僕はよいちゃんに何度も助けられた。だから僕は、その恩返しをしたかった。しかし、過去の僕はどうすれば具体的に、恩返しができるのかがわからなかった。なので僕は、奉仕という言葉を執事になることによって着ることにした。とにかくつまるところ、半分おままごとのようなものだが、僕は恩を返すために、執事になったのだ。

 今はもう、執事ではないが、そのおままごとのおかげで、今の僕自身があると少なからず思っている。

 バス内にほかに人はほとんどいなかった。僕はもとの両親が亡くなってからは、施設で育ち、それから小鳥居家に引き取られた。小鳥居家はとても裕福な家庭だった。このバスもとても質の高いバスのようで、一つ一つの席にテレビが付いており、独立して一つ一つ席が置かれている。値段もきっと高かっただろう。そのためか、ほかにこのバスに乗っている人間は、片手で数えられるぐらいだった。

 結露しているバスの窓をさっと指でなぞる。窓から見える外は一面銀世界。

 そんな景色を見ているだけで、寒くなってくる。

 しかし、旅館で働くというあまりない経験をすることができるという興奮のせいか、体の奥底はなんだか暖かった。



 バスが止まった。どうやら旅館に着いたらしい。

 窓の外を見ると、目の前に旅館と思われる建物の裏にバスが止められていることが分かった。旅館は明るめのレンガが壁に使われていて、なんだか西洋の雰囲気を感じだ。

 バスを降りて、荷物をバスの外で受け取ると、僕は恐る恐るその旅館の中に入っていく。

 僕がお世話になる旅館は、吉野旅館という旅館だ。スキー場のすぐそばにあり、好立地であることから、スキーを目的に旅行客が多く訪れるらしい。

 旅館の中に入ると、温かな照明に照らされたロビーがあった。休憩している旅行客や、穏やかに動くスタッフの姿が見られた。

 とりあえず、僕はここに来た理由と経緯を受付に話し、どうすればいいかを決めようと思い、受付に歩みを進めた。

「すみません」

「はい」

 綺麗な受付の女性は、笑顔だ。

「ここにお手伝いに来た、出雲薫です」

「ああ。薫さんですね。吉野さんからお話は伺ってますよ。ちょうど中にいるので呼んできますね」

 僕が身分を明かすと、受付の女性は受付の後ろの事務室のような部屋へ消えて行った。

 少しすると、少し駆け足でこっちに向かっているような足音が受付から聞こえた。

「おお。君が薫くんか!」

 優しそうな声で声をかけてきたのは、初老ぐらいの背の高い男性だった。

「私が吉野。吉野大輔だ」

「出雲薫です」

 大輔さんは手を差し伸べてきた。僕はそれに応え、大輔さんと握手をした。

「いやあ。武から美人な息子って聞いて、いったいどんな子が来るのかと思えば、本当に美人な息子さんが来るなんて思わなかったよ」

「えへへ。ありがとうございます」

 武とは僕の今の父である。僕を引き取ってくれた、偉大な父だ。

「ほんとに男の子かい? 失礼かもしれないが、女の子にしか見えないけど……」

「はい。一応男です」

 これは何度も言われていることなので、決して自惚れているとかそういったことではないのだが、僕はどうやら中性的な見た目をしているようで、こうやって女性と思われてしまうことがある。

 僕自身、いろいろと理由があって女性の格好や中性的な格好などをするのが好きなこともあり、女性と思われることに対しては、決して嫌という感情はない。むしろ、女性と思われる方が嬉しい。そのため、僕は髪を長く伸ばし、それを後ろで結んでいる。これも、女性っぽくなるためだ。

「そうかあ。えっと、立ち話もなんだし、一旦スタッフルームまで行こう」

「はい」

 そういうと大輔さんと僕はスタッフルームまで向かった。

 旅館内は、以外にも和風の雰囲気で、木が使われている部分も多く、時々温泉の香りが鼻を撫でた。

 スタッフルームに着くと、席に案内され、僕が座っている席の正面に座っている大輔さんの隣に、初老ぐらいに見える女性が座った。

「初めまして、吉野美智子と言います」

「初めまして、出雲薫です」

 その女性は、丁寧に礼をしてくれた。美智子さんも大輔さんと同じで、優しそうな雰囲気をまとっているような人のように見えた。

「まずは来てくれてありがとう。薫くん」

「いいえ。僕もこんなきれいな旅館で二週間過ごしながら、社会経験ができるなんて、嬉しいです。恵まれているなって思います」

「そうかい。そう言ってくれるなんて嬉しいなあ」

 大輔さんと美智子さんの二人は、お互いに見つめ合いながら笑った。

「それでなんだけどね、実は別に忙しいわけじゃないんだよね」

「え。そうなんですか?」

 てっきり忙しいからこそ、よいちゃんは僕をここに寄越したのだと思っていた。

 だけど、よいちゃんは「あなたにしかできないことがあるはず。だから、旅館を隅々まで見て、あなたを必要としている子を探しなさい」なんて、意味深なことを言っていたから、もしかすると、吉野旅館が忙しくないのにここに僕が来たのは、この発言に関係しているのかもしれない。

「うん。だから、別にバリバリ働いてもらうつもりはないってことを先に伝えておきたい。薫くんがもし、働くより遊びたいなら、スキーをずっとしていて楽しんでいてもいい」

 大輔さんはニコニコしながら言った。

「もちろん、働きたいなら、私が教育係としてついてあげる。そこは安心してね」

 美智子さんもニコニコしながら言った。

「なるほど……」

「とにかく、今日はゆっくり休んで、明日からどうするか薫くんが決めればいいからさ」

「ふふ。わかりました。お言葉に甘えさせてもらいます」

「ああ。そうしてくれ。旅行気分でいいからね」

 こんな都合のいい話が合っていいのだろうか。

 てっきり一日中掃除から料理、接客などの仕事をすると思っていたけど、どうやらそうではないらしい。

「あ、そういえば……」

「ん? どうかしたの?」

 僕が呟くと、美智子さんが尋ねてくれた。

「実はここに来る前に、弥生から言われたことがあって……」

「おお! 弥生ちゃんから。なんだい?」

 大輔さんは、少し目を大きくした。どうやら、大輔さんはよいちゃんと知り合いらしい。

「えっと、僕を必要としてそうな人がいるって言われて……」

「薫くんを必要としてそうな人……か」

 僕が言うと、大輔さんは腕を組んだ。

「美智子、心当たりは?」

「ああ……ある」

「ちなみに俺もあるが……」

 大輔さんと美智子さんの二人は、僕の顔をじっと見た。

 そして、僕の顔を見た大輔さんは少し頷いてから、小さく独り言のように呟いた。

「薫くんぐらい女の子みたいな綺麗な青年なら、もしかするといい刺激になるかもしれないな……」

「?」

 僕は大輔さんの言っている意味を考えたが、まったくその意味を見出すことができなかった。

「薫くん。明日あたり……この旅館の一番北にあるスタッフ専用の部屋に行ってみてくれないか? 行ったらわかると思うからさ」

「はい。いいですけど……」

「うん。そうしてくれ。それで行ったらその結果を教えてくれ」

「はい……」

 大輔さんは相変わらず微笑んでいる。

 決して悪いことじゃなさそうだ。いったいその部屋には何があるんだろうか。

「それじゃあ、薫くんが寝泊りする部屋を紹介しよう。ついてきてくれ」

「あ、はい」

 大輔さんが立ち上がるのを見ると、僕も立ち上がり、二人で部屋に向かった。



「ふう……」

 僕は、大輔さんに紹介された部屋に荷物を置き、窓から見える銀世界を横目に温まった部屋のふかふかの椅子で、ゆったりと過ごしていた。

 部屋の広さは、一人にしては大きすぎるくらいだった。

 雰囲気は和室寄りの雰囲気で、畳の良い匂いがした。

 ここに来る途中、大輔さんに話を聞いたのだが、どうやらこの旅館は和室部屋と洋室部屋の二種類があるらしい。

 僕は普段和室で生活することなんてないので、新鮮な気分だ。

 部屋で座っているだけというのもなんだか退屈なので、少し旅館を探検しにでも行こうと思い、僕は部屋を出た。

 旅館内の人の通りは、大輔さんたちが言っていた通り程よく、寂しすぎず忙しすぎない程度の人の多さだった。

 旅館内にいる誰しもが、休息しに来ているからか、旅行客の雰囲気も優しく柔らかく、僕自身もそれにいい意味で当てられて、頬が緩んでしまっていた。

 そんな気分でロビーをまた訪れた。

 適当に観葉植物が近くに置いてある椅子に座り、ロビーや窓から見える銀世界を見ながら、穏やかな気持ちで過ごしていると、堂々と僕に近づいてくる女の人の姿が見えた。

 彼女は少し離れているところからでもわかるくらいには大きな傷が顔にあった。しかし、それでもなお美人だと言えるくらいには、スタイルも容姿も優れているように感じた。

 彼女は自信満々に僕に歩みを進めてくる。そして、彼女は僕に声をかけてきた。

「こんばんわ美少年よ」

「こ、こんばんわ」

 彼女が思ったより大きな声で、まるで舞台に立っている演者のように話していたので、僕は少し驚いた。

「私が思うに、君は面白い人物であると思うのだけど、どう思う?」

「は、はあ?」

「どう思う?」

 彼女は座っている僕の前に立ち、偉そうにしている。

 確かに、多くの人よりは珍しい人生を歩んでいるような自覚はある。しかし、だからといって僕が面白い人物かどうかはわからない。

 そのため、僕はこう返答することにした。

「面白い人物かどうかはわからないけど、多くの人よりは濃い人生を歩んでいる自負はあります」

「ほうほう……」 

 彼女は僕の返答に耳を傾けながら、腕を組み頷いた。

 そのまま何かを思案しているのか、彼女は首をくるくるさせているかと思うと頷き、僕に本を差し出しながら話し出した。

「私は菜花東助。作家をやっている」

「はあ」

 彼女からもらった本には、菜花東助の名前が書かれていた。どうやら一般的な純文学系の本みたいだ。

「それは名刺みたいなものだ。暇があったら読んでくれたまえ」

「……」

 僕は一つ頭に思いついた単語を言ってみた。

「マルチ勧誘……?」

 大学生になると突然よくわからない投資とかの話が増えてくると聞いていた。だからこそ「この本を宣伝したら、一億円!」みたいな話を、これから振られてしまうのかもしれないと思ったのだ。

「そんなわけないだろう。ただの自己紹介だ。なんなら目の前でこれを捨ててくれてもいい。私のことがもし気に入らないならな」

「そうですか」

 そこまで言うと、彼女と僕は見つめ合った。

 僕はてっきり彼女は自分に用があるんじゃないかと思っていたので、その話が彼女の口から切り出されるのを待っていた。

「自己紹介」

「はい?」

「自己紹介をしてくれないのか? 私が自己紹介をしたのに」

「ああ……」

 びっくりするくらいにかみ合ってない。

 僕がずれてるのか、菜花さんがずれているのか。

「出雲薫です」

「出雲薫! 名前まで綺麗だな。口説いてしまいたいくらいだ」

「……ちなみに菜花さん」

「なんだ?」

「男だったりします?」

「何を言う。私は女だ。体も心もな」

「……」

 まるで気障な男のように僕に迫ってくるので、てっきり心が男性じゃないかと思ったけど、どうやらそういうわけじゃないらしい。

「それで、なにか用ですか?」

「なにか用……」

 僕が彼女にそう尋ねると、彼女はまた腕を組んで考えるような仕草を取った。

「用はある。だけど今はそれを実行できない」

「はい?」

「えっとだな。私は君のすべてに興味がある。しかし、それを聞き出すには信頼値が足りないから、今はまだそれを実行できないということだ」

「ああ……」

 かなりめんどくさい言い方をする人だ。

 つまり、僕と仲良くなっていろいろ知見を広めたいんだろう。作家だと言っていたし、僕を通して新たなキャラクターの参考などにしたいとでも思っているんだろうな。

「だから君とは仲良くなりたい。君はいつまでここに滞在するんだ?」

「えっと、今日から大体二週間です」

「おお! それはいい! 仲良くなるにはちょうどいい期間だ。長すぎず、短すぎず」

 菜花さんは嬉しそうにそう言いながら、僕の隣に座ってきた。

「仲良くなるのなら、期間が長すぎるってことはないんじゃないですかね。長ければ長いほどいいんじゃ?」

 僕はちょっとした疑問を菜花さんにぶつけた。

 仲良くなるなら、その期間は長ければ長いほどはずだ。

「長すぎるとお互いを知りすぎて、逆に仲違いするってこともあるだろう」

「なるほど……」

 確かに、仲良くなる期間、つまりはお互いを知ることができる期間が長いとより深くお互いを知ってしまうからこそ、仲が悪くなる可能性もある。知りたくないことも、知ってしまうかもしれない。

 菜花さんの言っていることは、多分そう言うことだ。

「薫くんは見たところ、大学生か?」

「はい。菜花さんはおいくつなんですか?」

「私は今年で三十だ」

「へえ」

「なんだその反応は。若く見えるのか、それとも老けて見えたのか?」

 菜花さんは顎に手を添えながら、興味深そうに尋ねてきた。

 菜花さんは年相応にも見えるし、若くも見えるし、老けても見える見た目をしているような気がした。

 ただ、僕は一つ三十歳にしては、珍しいなと思うことがあった。

「見た目は若くも見えますし、年相応にも見えますし、老けても見えます。ただ」

「ただ?」

「悪く言うと、三十歳にしては落ち着きがないように思いました。よく言うと、いい大人の年齢なのに、挑戦的な人だなって思いました」

「ほうほう」

 僕の年齢でも、初対面の人と関わるときは奥手になってしまうことが多い。

 それなのに、菜花さんはまるで好奇心に任せて、その欲望の通りに動いているように見えたのだ。

「それは職業柄仕方ない。そうだな……イメージ的に作家っていうものは、陰気で人と関わることが苦手なやつらの集まりだと思われてると思うんだが、薫くんはどうかな?」

「そうですね。そのイメージです」

「そうだろう? でも私は違う。私は人が大好きだ。人に興味がある。話したいし触れ合いたい。だからこそ、一旦ぶつかりに行くんだ」

 確かに、人と人との関わりを書く以上、人とある程度関わることをしないと難しいという話もあるんだろう。

「ぶつかって、もし嫌われてしまったら、その時は大人しく身を引く。別に人に迷惑をかけたいわけじゃないからな」

「そこの距離感はわきまえているんですね」

「当たり前だ。そこの距離感がわかっているからこそ、君からいろいろ聞き出す前にこうやって信頼を獲得しようと頑張っているわけだ」

「なるほど」

 菜花さんは人が好きだからこそ、こうやって信頼を獲得するところから始めているんだろう。

 確かに、自分に仲良くなりたい人がいるとして、じゃあどうするかを考えたときに、一緒に出掛けるとか、ご飯を食べるとか、話すとかいろいろ手段はある。しかしそれらの行為はやっぱりある程度の信頼がないとできないことだ。

「そうだ、君はここのちょっとした怪談話を知っているかい?」

「怪談? 聞きたくないです」

「ええ! 何で聞きたくないんだ?」

「こわいもん」

「ああ……こわいのだめなのか」

「こわいのだめです」

 僕はこわいのだけは苦手だ。

 高所とかそういった恐怖は平気なのだが、幽霊だとかそういった霊的なものは苦手なのだ。

「まあ、怪談といったけど単なるうわさ話だ。一番北のスタッフルームからピアノの音がなぜか聞こえてくるって話だ」

「え!」

 僕は驚いた。

 なぜかって、今菜花さんが話した一番北のスタッフルームは、大輔さんたちに僕が「僕を必要としてそうな人がいる」という話をしたときに、行ってみてくれないかと言われた部屋だからだ。

「なぜそんなに驚く? 別にスタッフルームにピアノがあって、それを夜な夜な暇つぶしに弾いているやつがいるっていう話だろ? こわくないぞ」

「いや、こわくて驚いたんじゃなくて……ちょうどその部屋に明日あたり行けってこの旅館のオーナーから言われていて、すごい偶然だなって思って驚いただけです」

 半分嘘。実は結構怖かった。もう帰りたいって思うくらいには。

「そうか……というか、そもそも薫くんはどうしてこの旅館に来たんだ?」

「ここにお手伝いをしに来たっていうのが主な理由です。でも、ここに手伝いに行くように言ってきた僕の彼女が、ほかにも僕を必要としている人がいるはずだからなんとか〜って言ってきたんです。その話をオーナーにしたら、その今菜花さんが話した一番北のスタッフルームに行けって言われたんです」

「へえ……偶然だな」

 菜花さんは興味深そうにしながら、手帳を出してメモを取り始めた。

「もしその部屋に行ったら、その時のことを私に話に来てくれないか?」

「ええ。いいですよ」

 僕は快く返事をした。

 いつの間にか、菜花さんに気を許している僕がいる。

 具体的に言語化はできないけど、菜花さんは豪快に迫ってきているようで、接し方が丁寧だから、こうやって気を許してしまっているのかもしれない。

「そういえば薫くんは私の顔にあるこの大きな傷のことは聞かないのか?」

「え? いや、全然聞く気なかったです」

「へえ。大体、みんなおそるおそるこの傷のことを聞いてきたけど、どうして聞く気なかったのかな?」

「えっと……」

 簡単な話だ。

「人のそういう特徴を尋ねると、お前も自分の過去とか、そういった踏み言ったことを話せって詰められそうで、聞かないようにしてます」

 僕はひどい過去を抱えている。

 それを初対面の人に話すことは、しないようにしている。

 なぜかというと、その過去を話した瞬間に、対等だったその人は、急に僕を憐憫の目で見てくるからだ。

 それが気に食わないとか、そういうわけじゃなく、気を使わせてしまうのが申し訳ないのだ。

 僕はもうそのひどい過去を引きずってはない。だからこそ、普通に接してほしいのだ。

「なるほどな」

 菜花さんはまたメモを取った。

「まあ、この傷は小学生の時に盛大に自転車でこけたせいでできたんだ。ちなみに、誰かに嵌められたわけでもなく、ただ単にスピードの限界を確かめたくて、坂道にて、全力で自転車を漕いでいたら顔からこけた。うん、全部私の責任だ」

「バカだ……」

「だって早いと楽しいだろう」

「まあ、そうですね」

 菜花さんは楽しそうに自分の顔の傷の話をした。

「確かにこの傷のせいで、他人から異物でも見るような目で見られたこともあるが、私はそんなこと気にしない。そんなこと気にするぐらいなら、そもそもそんな自転車でスピードの限界に挑戦するなんてことはしないだろ? 怪我するかもしれないのに」

「それはそうです」

「でもだ、こんな私と親友で居てくれる奴らもいる。そいつらに最大限の敬意を払いながら、私は今まで生きてきた。それにこの傷のおかげで、人の心の奥底まで見られるんだ」

「どうやって見るんです?」

「簡単だよ。この盛大な顔の傷を見て、そいつがどんな顔をするのか見ればいい。いくら優しい顔を表面上はしていても、私の顔を見た途端、嫌悪感を示すような顔をする奴だっているだろ。そういう瞬間、私はこの傷に感謝すらする。まるで人の心をこじ開けたような気分になるんだ。そういう人の正直な表情が、私は大好きだ」

 菜花さんはうっとりしたような表情で言った。

 彼女は確かにいい人ではあるんだろうけど、どうやら変人でもあるみたいだ。

「さて……そろそろ今日のところはこの辺にしようかな。また話したいし、連絡先を貰っても……あ、彼女がいたか」

「多分平気です。もし駄目だと言われたらすぐに消します」

「そうか。じゃあ遠慮なく」

 僕と菜花さんは、お互いにスマホを出して連絡先を交換した。

「じゃあ、また明日」

「はい。また」

 そう言うと菜花さんは、また堂々と歩きながら廊下へ消えて行った。

 僕はその後少しの間、ロビーの窓から見える暗い銀世界をボーっと見てから、部屋に戻った。


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