第9話 初めてのスキー

「お~い。これどうやってつけるんだれもん~」

「えっと、これはね……」

 次の日。約束通り僕はれもんと菜花さんと一緒にゲレンデに繰り出した。

 れもんと菜花さんは手早く自己紹介を済ませると、すぐにスキーの準備をしていた。

「よし! おおお! 勝手に前に行くぞ!」

「ああ! まだダメだって初めてなんだから!」

「なんだこれはどうやって止めるんだ!」

「とりあえず横に倒れて!」

 スキーの準備を終えた菜花さんは、そのまま少しの傾斜のままに滑り出した。それをれもんが追っている。

「大丈夫かなあ……」

 僕は少し心配になりながら、二人の後を追った。


 れもんと菜花さんの二人は、意外と人見知りしないタイプみたいで、すぐに打ち解けていた。

 菜花さんは不慣れながらも、れもんからスキーの基本を教わっていた。

「本当にこの体勢でいいのか⁉」

「うん」

「なんだか若干タオパイパイみたいだが、大丈夫か?」

「え? なんて? たおぱいぱい? 薫さん知ってる?」

 れもんは僕に尋ねてきた。

「知らない」

「なんだと⁉ これが世代の差……」

 菜花さんはしっかりと前を向きながら、ちょっとづつ進んでいった。

「は~い板は八の字~」

「八の字だな!」

 菜花さんはそのまま結構な速度で進んでいる。

「あ、待ってできてない! ちょっと! 初心者が出していいスピードじゃないよ!」

「え! でも止まらないぞ!」

 また菜花さんは斜面に身を任せて滑走していった。そしてれもんはそれを追っていく。

「菜花さん……運動できない人かもなあ……」

 そうして僕はまた、下山していく二人を追った。



「いやあ……難しいな……」

 ゲレンデの端で座り、僕とれもんと休憩している菜花さんはそう呟いた。

「菜花さん、運動苦手だった?」

 れもんが菜花さんに尋ねた。

「ああ、もちろん」

「やっぱり」

「だからここに泊まりに来てからも、私をスキーをしようしなかったわけだ。だってこうなるのは目に見えているからな」

 菜花さんは堂々とした立ち振る舞いで言った。

「だからか……」

 僕はボソッと呟いた。

 もう半日ほど練習しているが、菜花さんのスキーが上達する気配はない。

 僕かれもんが体を支えていないと、菜花さんはどこかへ勝手に滑って行ってしまう。

「まあまあ、いったん休憩にして、話でもしようじゃないか」

 菜花さんはスキー板を外して、体を伸ばした。

「じゃあ、私、いっぱい聞きたいことある」

 れもんは体を伸ばす菜花さんに、そう言った。

「もちろん、何でも聞いてくれたまえ」

 菜花さんは笑顔でれもんに言った。

「なんで菜花さんはそんなに元気で明るいの?」

 れもんは真剣な顔で菜花さんに言った。

「私も首から胸元にかけてやけどのあざがあって、そのせいで自分に自信が持てないの。菜花さんは、なんならもっと目立つ顔に傷がついているでしょ? なのにどうしてそんなに明るく元気に振る舞えるの?」

「ふむ」

 菜花さんは少し空を見た。きっと返答を考えているんだろう。

 れもんも、菜花さんから次に発せられる言葉を待っているせいか、少し緊張した面持ちで居る。

 少ししてから、菜花さんは口を開いた。

「簡単に言うと、この傷を活かす生き方をしているからだ」

「傷を活かす……」

「ああ」

 れもんは、菜花さんの言葉に首を傾げた。その言葉の意図を把握しきれてはいないらしい。

 菜花さんは、話を続けた。

「私は作家だ。だからこそ、この傷を見てその人がどんな反応をするかを見る」

 菜花さんは自分の顔の傷を触った。

「例えばだが、普段はとてもいい顔をしている人でも、この傷を見てねじ曲がった表情をすることもある。醜いものを見るような顔だ。その時、私はしてやったりと思うわけだ。そいつのもう一つの顔を引き出してやったと思うわけだ。そういう事象を小説に使う。だからこそ、私はこの傷すらも好きになった。この傷を活かすことができているからな」

 菜花さんは優しい口調で、いつもよりもゆったりとした口調で話した。

 れもんはそんな菜花さんの話を真剣な顔で聞いていた。

「傷を……活かす……そんなこと私にできない」

「そうか。そう思うか」

「うん」

 れもんは徐々に顔に影を落として行った。

 そんなれもんを横目に、菜花さんは口を開いた。

「そもそも中学生が消極的になるな! 自信を持て!」

 菜花さんはいつも通りの大きな声で言った。

「確かに、消極的に物事を考えたり、物事を深く考えるのはいいことだ! リスクを取らないからな。だけど、それで暗鬱になるぐらいなら、何も考えないほうがいい。物事を深く捉える能力があるからと言って、物事を深く考えるに向いてない人だっているさ」

 菜花さんは俯くれもんの頭を撫でた。

 しかし、れもんの表情が明るくなることはなかった。

 つらそうな顔をしていた。まるで、菜花さんの明るさに圧倒されて、逆に意気消沈しているように見えた。

 僕が口を挟んで、れもんを元気づけたほうがいいかなって思ったその時、菜花さんがまた口を開いた。

「ただな、私が作家を志望した理由を考えてみると、やっぱりそこには『誰にも顔を見られなくていい仕事』であるからという理由があるのではないかと思う」

 菜花さんは、聞いたことのないくらい弱々しい声で言った。

 そう菜花さんが言うと、れもんが素早く菜花さんの顔を覗き込んだ。

「もちろん、顔を世の中に出しながら作家をしている人間もいる。私も、今となっては人と仲良くなり、それから小説のアイデアを探すようになった。だけど、顔を出すということは、作家になることの必須条件じゃないだろう? れもんにもわかりやすく言うと、別に顔を出さなくても作家はできるってわけだ。だから、やっぱり深層心理のどこかで、私は顔を伏せたいと思っているのかもって、思ったり思わなかったりするわけだ」

 作家と言う職業は、確かに顔を出さなくてもいい。

 今、菜花さんは自分の顔の傷を活かして、小説のアイデアを探すようになったが、確かに作家になった理由の一つとして「自分の顔の傷を見られたくないから」という理由があっても、おかしくない。

 「自分の顔の傷を見られたくないから」という理由が、菜花さんが作家になった理由の一つであれば、菜花さんも昔、れもんと同じように自分の体に残った傷に、コンプレックスを持っていたということになる。つまり、普段明るい菜花さんも、自分の身体的要因で苦しんでいたことが少しあったのかもしれないと考えることができる。

 まあとにかく、この菜花さんの発言は、自身の弱みの告白のようなものであると言えるだろう。

「菜花さんも、そう思うこともあるんだ」

 れもんは少し安心したような表情で言った。

「ああ。私だって、弱ったりするわけだ。人だしな」

「大人でも、そうなるんだ」

「うん。大人でもそうなるんだ。子供と同じようにな」

「そっか」

 れもんは笑顔を取り戻した。そんなれもんの表情を見た菜花さんと僕は、目が合った。

 菜花さんも微笑んでいた。

「さて、れもんが笑ってくれたところで、また少し踏み込んだことを聞いてもいいかい? その傷の話だ。少し難しいことを聞くぞ? もう少し、頑張れるか?」

 菜花さんは、真剣な顔でれもんに言った。

「うん。いいよ」

「よし」

 れもんの顔を見ると、菜花さんは少し一呼吸置いてから話し出した。

「れもんはその傷が無くなれと思うか?」

「……思う」

「本当にそうなのか? その傷があったからこそ、何かをできたことはないのか? れもんの自己を形成した何かがあったんじゃないのか?」

 菜花さんからそう言われたれもんは、少しの間考えていた。

「……確かに、この傷があったおかげで、私は周りに父から手を出されていることを察してもらえた。この傷が、私を助けてくれたって、そういう考えもできる」

「そうだろう」

「でもさ、そもそもそんな傷をつけたのも親父。だいたいこんな傷、ない方がいい。これを付けた親父が悪いもん」

 れもんは足元の白い雪を見ながら言った。

「そうだな。それはそうだ。でももしその傷がなければ、れもんは一生そのクソな父親に犯され続ける人生を送ってしまう可能性だってあるはずだ」

「そんなこと、あるわけないと思うけど? 絶対どこかで気が付いてもらえるはずだし」

 確かにそうだ。でも、そこじゃないんだ。

「そうだ。そんなことあるわけない。一生犯され続けるなんてことなんてこと。これは極端な例だ。でも考えてみろ。その傷があるからこそ、君は大人になって取り返しがつかなくなる前に、救いの手を差し伸べてくれる人がいたんだよ」

「……!」

 そうだ。

 どんな形であれ、救われるなら早ければ早い方がいい。大人になって、人生の選択肢を決め切った後に救われても、もうどうしようもない状況になっていることだってある。子供のうちに救うべきなんだ。救われるべきなんだ。

 れもんのあざは、確かに父親につけられたものかもしれないが、そのあざがあるからこそ、こうやって吉野さんたちに引き取られて、菜花さんにこうやって手を差し伸べてもらえているんだ。

 ……僕も、正しくれもんに手を差し伸べられているかな。

「れもん、君はもしかすると大人になってから、父の魔の手から離れることになってたかもしれない。その傷が、君を早期に助けたんだよ」

「……そうかも……」

「いいか? 自分の人とは明確に違う部分はコミュニケーションだ。もしコミュニケーションに困ったら、その部分を強みとして使うんだよ。弱みは強みだ。そうした方が、人生楽しいぞ」

 菜花さんは、ニカッとれもんに笑いかけた。

「ま、人生三十年目の、独身の女からのアドバイスだ。うるせえババアと思うなら、一蹴してくれ。大人からの意見を取捨選択するのも、大事だぞ」

「はい。菜花さん」

 そう自虐を含みながら言う菜花さんを見ながら、れもんは少し苦笑をしながら頷いた。

「……はあ、僕が口を挟むところがありませんでした」

 二人が熱い会話をしている間、僕は一切口を開かなかった。いや、開けなかった。

 菜花さんは難しいことを聞くだろうから、もしれもんが困ったら、助け船でも出そうって思っていたけど、れもんは思ったよりしっかり返答していたから、助け船を出す必要がなかった。

「すまないな、薫くん。さて、じゃあまた今度はスキーのアドバイスでも貰おうかな」

 そういうと、菜花さんは立ち上がった。

「よし! じゃあまたスキー再開だな。行くぞれもん」

「うん!」

 僕がれもんに言うと、三人はそろって立ち上がり、スキーを再開した。


「じゃあ、私は先に戻るね。ご飯あるみたいだから」

 スキーを終えて、夜。れもんは夜ご飯を用意してもらっているらしく、先に旅館に戻っていくことになった。

「うん。じゃあまたね。れもん」

「またスキー教えてくれ!」

「もちろん。じゃあね、二人とも」

 僕と菜花さんが言うと、れもんは楽しそうに旅館の中に入っていった。

「いたた……さすがに半日ずっと慣れないことをすると……腰が……」

「スキー初めてだと、そうなりますよね」

 菜花さんはれもんの姿が見えなくなると、腰に手を当てて少し前かがみになった。

「こういう時は飯だ! ウマい飯を食いたい!」

「じゃあさっさと戻りますか」

「おう!」

 僕と菜花さんも、旅館に向かって歩みを進め始めた。

 しかし、あることが頭によぎって、僕は足を止めてしまった。

「お~い。どうしたんだ薫くん」

「あ……えっと……」

 僕は、今思っていることを菜花さんに伝えようか悩んだ。

 だが、菜花さんに話すことを決意した。

 だって、菜花さんにはもう僕の弱みを見せている。

 ちょっとした弱音ぐらい、吐いたっていいだろう。

「れもんのこと、最初からあなたにお願いしていれば、良かったですかね」

 今日の菜花さんの姿を見ていると、そう思えた。

 最初から菜花さんがれもんに気を使って、手を差し伸べていれば、もっと早くよりいい方向へ進んでいたのかもしれない。そう思ったんだ。

「いいや? このきっかけを作ったのは君だ。そう自虐的になるな。胸を張れ」

「えへへ。はい」

 やはり、菜花さんに見事に元気づけられた僕は、そのまま食事にありつくために歩みを進めた。


「ふうううう……」

 僕は今日やるべきことをすべて終わらせて、今は暗い部屋の布団の中で横になっている。

 気分はもう、就寝三十分前と言ったところだ。

「……」

 確かに、れもんはどんどん明るくなっているし、僕に過去のことを話してくれた。

 前進はしていると言っていい。

 しかし、れもんにはもう一つどうにかしないといけないところがある。

「中学卒業したら……働く……かあ……」

 れもんは、その過去が原因で吉野さんたちに引き取られた。そしてその吉野さんたちに迷惑かけてはいけないと思い、中学卒業したら働くと言っている。

 別に働くことは、悪いことではない。

 しかし、吉野さんの意見を聞かずにそうすることは、良くないだろう。そもそも、中学生のうちに自分のことなんてわからないものだ。自分が何ができるのかを把握するためにも、高校へ進学し勉強するべきだと、僕は思っている。恐らく、大多数がそういった考えだろう。

 ふと、中学を卒業し、家庭環境から働き始めた僕の兄を思い出した。

「……いけないいけない」

 涙が出てきた。

 兄は、僕を救うために母に手をかけた。兄が最後の力を振り絞って。

 ……自分を犠牲に、僕を助けてくれたんだ。

 あの時はこんなことを考える余裕がなかったけど……もっと、一緒にいろんなことをしたかったな、と思う。

 とにかく、れもんのしたいことを聞き出して、本当に働くべきなのかを話し合うべきだろう。

 もし、将来の夢だったり、確固たる意志がなければ、高校に進学することを進める。吉野さんたちの雰囲気を見ていても、れもんには進学してもらいたいようだったし、れもんの言動からも、頭が良いのが伝わってくるしな。

「……ふああああ」

 ここに来てから、毎日暇していないからか、とても疲れたような気がする。

 一旦、明日あたり、ゆっくり部屋で過ごしてもいいかもしれない。

 たまには、自分を労わらないと。


 

 

 

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