第12話 夜の雲

 夜。

 十一日目。

「誰もいないね」

「そうだね」

 れもんがあたりを見回しながらそう言ったので、僕は頷いた。

 ゲレンデに繰り出した僕とれもんは、少しずつ進みながら話している。

「ただ……寒すぎるかもしれない……」

 夜であり、なおかつ真冬でもある。やはり寒すぎる。

「確かに……これは寒いかも……」

 れもんもそう言いはしているが、スキーの準備を進める手を動かしている。

「ほら、行くよ。暗いから、離れないようにしてね、薫さん」

「ああ。任せてくれ。さすがにもうスキーには慣れてきたから」

「そ」

 れもんは微笑んでから、ゴーグルをつけた。

 そうして僕たちはゲレンデを滑り始めた。



 滑っている時は、特に話す事も無く、軽いアイコンタクトのみだった。

 ただ、ニットやらネックウォーマーやらで顔を覆っているのに、凍えてしまいそうになるほど、向かい風が寒かった。

 一回目を滑り終わり、れもんがリフトの前で手招きをしていた。

 おそらく、一緒に乗ろうってことだろう。

「おいしょ」

「よっと」

 僕たちは仲良くリフトに乗り込んだ。

「上級者コースのスタート地点でさ、星見たい」

 れもんは、ちょっと楽しそうに言った。なんだか、子供っぽい。いや、子供なんだけどさ、れもんは。

「ああ。もちろんいいよ」

「やたー!」

 れもんはわかりやすく喜んだ。その反動で、少しリフトが揺れた。

「この時間だと、帰るころには九時とかになってそうだな~夜ご飯とかどうしよ~」

「一緒にバイキングでも行く? そういえば、二人でバイキング行ったことはないよね?」

「ああ! いいね。そうしよう」

 僕がバイキングに行くことを提案すると、れもんは同意してくれた。

 その後も、他愛のない会話をしつつ、リフトを乗り継いで上級者コースのスタート地点にたどり着いた。

「おお~。綺麗だな~」

 ゲレンデでもかなり高い位置にある上級者コースのスタート地点から見える星は、とてもきれいに見えた。ただ、少しばかり雲が出ていて、たまに星が隠れてしまっていた。

「ほら、こっち」

「ああ」

 僕は、リフトの近くにある休憩所のような場所にあるベンチで座っているれもんに呼ばれた。

 僕はそのまま、れもんの隣に座った。

「寒い……」

「ほら、もう少しだけくっつこう」

「ああ。そうだな」

 れもんがそう言ったので、僕は少しだけ体を寄せた。

「星座とか、オリオン座ぐらいしかわからないけど、星はとてもきれいだな」

「そうだね」

 れもんと僕は、首を上から引っ張られているような感じで、ぼーっと星を見ていた。

「星座とか細かいことはいいの。綺麗だから見る。それでいいじゃん」

「そうだね」

 漆黒の空に浮かぶ煌びやかな星たちは、ずっと見ていられるんじゃないかと思えるくらいに綺麗だった。

「ねね。薫さんの彼女、よいちゃんって言うんだっけ?」

「うん」

「どんな子? かわいいの?」

 れもんは目を空に浮かぶ星と同じくらいに輝かせながら、僕に尋ねてきた。

「かわいいし、とってもきれいで素敵な人だよ」

「うわ~きれいな薫さんがきれいって言うんだから、それはもうとんでもなくきれいな人なんだろうな~会ってみたいな~」

「写真あるぞ? 見るか?」

「え! 見たい!」

 僕はスマホを取り出して、写真フォルダにあるよいちゃんの写真をれもんに見せた。

「うっわ……わけわかんないくらいかわいい……サイズ感も小さくていい感じ……」

 れもんは、食い入るように写真に写っているよいちゃんを見ていた。

「どうやって付き合ったの? どっちから告白した?」

 れもんは、僕のスマホから目を離してから尋ねてきた。

「どうやって……難しいな……自然とそうなったっていうか……」

 告白と言うより、一生一緒にいるって約束をしたから、どっちから告白したとかそういうのはあいまいだ。

「そっか……」

 れもんは少しテンションを下げた。

「ちょっとさ」

「うん」

「また話聞いてもらってもいい?」

「いいよ」

 れもんは僕に許可を取った。

 それから少ししてから、れもんはまた話し出した。

「私さ、私なんかが吉野さんたちに良くしてもらってるの、罪悪感いっぱいだったんだ。こんな私にお金かけて、時間かけて、どうなるの、あの人たちが何かもらえるのかって思っちゃってたから」

 れもんは、目下の雪を見ながら言っている。

「薫さんもさ、そんなこと思ったことある?」

「……」

 れもんは、一切僕のことを見ることなく、僕に尋ねた。

「あるよ。似たようなことを思ったことある」

「……」

 れもんは、僕を見た。

「こんな暗くてどうしようもない過去を持っている僕にはね、罪悪感があったんだよ。こんな疫病神みたいな僕が、人と仲良くなることにね」

 僕はれもんを見ないで言った。目線は、空に浮かぶ星に向けていた。

「僕がいるだけで、周りを不幸にさせてしまうような気がしてさ」

 僕はそう言うと、今度はれもんのほうを見た。

「摘果って知ってるかい?」

「わかんないかも」

「いい実を育てるために周りの実を間引くことだよ。僕は昔、ずっとそれがしたかったんだ。自分のせいで不幸になっている人間がたくさんいるから、自分なんていなければいいって思ってた」

 僕はれもんを見つめながら言った。

 きっと、僕の目は今にも泣きそうな弱弱しい目をしているだろう。

「薫さんは、そんな見た目も綺麗で、優しくて、完璧な人間なのに? なんでそう思っちゃったの?」

 れもんは、僕を見つめながら言った。

 彼女も、今にも泣きそうな顔をしていた。いや、僕を心配するような顔だろうか。

 ゲレンデには明かりがあるが、それでも暗くて表情がよくわからない。

「完璧な子供だったからこそ、大人にいいように使われたんだ。きっとれもんも同じだ」

 きっとそうだ。

 不完全なら、もっともっと気を使ってもらえたのかもしれないと、少しだけ思う。

 勉強も、運動も、容姿でも、まったく困ることがなかったせいで、母に僕は使われたのだろうと思うのだ。

「ほら、早く起きなさい!」「宿題はやったの?」「好き嫌いしちゃだめ!」

 ……一度くらい、実の母親に言われたかったものだ。

「私も同じか……確かに、体だけ大人になるのが……もっとおっぱいとか成長するの遅かったら、親父に手を出されることもなかったのかも。もっと大人っぽくなるのが遅かったら、幸せなままだったのかも。心と体の成長速度がもっと同じだったら、なにも考えずに、苦しまずに済んだのかも」

 れもんは苦笑いしながら言った。

「でも、完璧な子供か~私は絶対そんなんじゃないしな~」

「それを言うなら、僕だって完璧じゃない。きっとね」

「ふふ。それはどうだろうね」

 れもんはまた星を見た。

 星を見ながら、れもんは唐突に口を開いた。

「子供とか、今の彼女と作りたいと思う?」

「うわあ! 何だ突然!」

「いや、思うのかなって、そういうこと」

 れもんは至極真顔だった。

「ま、まだ僕は十九歳だ! そんなこと、考えた事も無い!」

 当たり前だ。だって結婚もしてないのに、子供だなんて、そんなこと考えたこともない。

「そっか」

 でもまあ、れもんからしたら、僕も大人だから、そういうことを考えてるかもって思うのも、普通かもしれない。

「じゃあ、今考えてよ」

「ええ……まあ、そうだな。考えてみるか……」

 僕は、よいちゃんと子供を作ることを考え始めた。

 ただ、あまりにも早く、その潜思による結論は出た。

 いや、結論と言うより、行き詰ったというべきかもしれない。

「子供作るのは怖い」

「それは、お金とかが原因?」

「ううん。違う」

 お金とか、育てる技術とか自信とか、そう言うのじゃない。

「だって、僕の親のことを思うと、僕だって子供ができたらああなってしまうんじゃないかって不安になるんだ。僕だって、嫌でも実親の遺伝子を引き継いでいるわけだ。だから、子供ができた瞬間、僕が変わってしまうような気がして怖いんだ」

「ああ~私もわかるかもな~それ」

「やっぱり、れもんならわかる?」

「うん。私も怖いかも。産んだ子供に、そういうことしちゃうんじゃないかって、思っちゃった」

 僕もれもんも、星を見ながら話している。

 子供を作るのは怖い。

 僕も、あの忌々しい両親の遺伝子を引き継いでしまっているわけだ。

 もしかすると、子供ができた瞬間に、悪鬼のような男に僕が変わってしまうかもしれないし、実の子供に欲情してしまうかもしれない。

 でも、そうならないように、よいちゃんとしっかり話し合って過ごしていきたいと思う。

 出来る限り、間違わないように。慎重に。ちょっとずつ進んでいけばいいんだ。

「あ~びっくりした……」

「もう。そんなにびっくりするなんて思わなかったよ」

「あはは……」

 れもんは、僕がびっくりしたことに、びっくりしていたらしい。

「ふふ……」

 れもんは、困って頭を掻く僕を、なんだか幸せそうな顔で見ながら微笑んだ。

「……ふう。ちょっと熱いかも」

 そう言うと、れもんは上着を少し脱いだ。

 僕は、そのれもんの動作で、れもんの体にあるやけどのあざを思い出した。

「菜花さんが聞いていたようなことをまた聞くけど、そのあざ、やっぱりなくなれって思うかい?」

 僕はれもんに尋ねた。

 ここ数日で、れもんにも心境の変化があるだろう。

 だからこそ、また菜花さんと同じようなことを、僕はれもんに聞いた。

「……考えてる」

「うん。待つよ」

 れもんは、空を見た。

 目を見たら、なんとなくわかった。星じゃなくて、どちらかというと、空を見ていた。

 少しして、間が長いなと思うぐらいの時間が経ってから、れもんは沈黙を破った。

「できれば、なくなれって思う。でも、これがないと、私は私じゃなくなる気がする。むかつくけど」

 れもんは、変わらず空を見ながら言った。

「結局、このやけどの跡も、私を取り巻く環境も、私に手を出した親父でさえ、私を作り上げてるんじゃないかって思うんだ」

 れもんがそう言った後、僕も少し間を置いてから口を開いた。

「……そうか。僕もそうかもしれない。僕自身に起きた過去のことが一切なく、もし平凡で幸せな家庭で育ったとしたら、今の僕はない。こうやって、れもんと向き合っている僕はいなかったかもしれない。だって、もし幸せだったら、れもんに気を遣う理由はほとんどないようなものさ。僕だって不幸から救われたからこそ、こうやってれもんと向き合おうって、手を差し伸べてみようって決めたんだから」

「……」

 れもんを見ると、少しだけ微笑みながら、足をぶらぶらさせながら空を見ていた。

 そんなれもんを見ていると、れもんはまた口を開いた。

「自分を作るなにか、っていうの? たとえそれを自分が嫌っていたとしても、なくなってしまったら、自己というものが大きく変わっちゃう気がするの」

「そうだね。それで、どうせ自己が変わったとしても、またその自己、自分自身に対して一つぐらいは嫌なところが生まれるんだ。気に食わないとこができるんだ。いい方向に変わったとしても、結局また、自分自身に気に入らないことができるに決まってる」

 僕がそう言うと、間髪入れずにれもんは僕に続いて口を開いた。

「そう、だから一見欠点がない人でも、完璧な人でも、自分の嫌なところの一つくらいは絶対にあるはずなんだ。そして、それとずっと対話しながら生きていくのかも……って思った。そう考えてないと、ずるいじゃん。そうしないと、私から見て完璧な人が、うらやましくてしょうがないよ。そう思わない? 薫さん」

「ああ。もちろんずるいに決まってるな。確かに、自分に嫌なところなんて一つもありませんなんて言う人なんて、見ていていやな気分になるな」

 僕はちょっとだけイライラした。

 そのイライラの原因は、いるかもわからない自分自身に嫌なことなんて一つもない人、だけど。

「あはは。私だっていやになるよ。ほんと、他人の自分自身の嫌いなところが見えればいいのに」

「ふふ。れもんは難しいことを考えられるんだな。中学生なのに、すごいじゃないか」

 僕がれもんを褒めると、れもんは嬉しいそうにも、哀しそうにも見える不安定な表情をした。

「難しいことでも考えてないと、嫌なことを思い出す隙が生まれちゃうでしょ?」

 れもんは、そう言うと、また空を見た。

「雲で……星があんまり見えなくなっちゃった」

「ん? ああ、ほんとだね」

 確かにれもんの言う通り、雲が増えてきて隠される星が多くなってきた。

 もしかすると、雪でも降るのかもしれない。

「変なこと言ってもいい?」

「どうぞ」

 れもんは何を言うんだろう。

「夜の雲がさ、たまに大きな人に見えたりして、それがこっちをのぞいてるんだ。馬鹿にしてるのか、見守ってるか、どっちだろうね」

「……」

 なんだ。

 突然、子供っぽいことを言うんだな。

 雲が大きな人に見えるか、面白いじゃないか。

「雲によるんじゃない? ほら、あの雲はいじわるそうだ」

 僕もなんだか子供っぽく返してみることにした。

 空に浮かぶ、ぜんぜんいじわるそうにも見えない雲を、雑に指さして僕はそう言った。

「えへへ。確かに。かわいい星を隠しちゃってるし、いじわるかもね」

 れもんの子供っぽい動作などは見た事があった。

 でも僕は初めて、れもんの子供っぽい感性に触れることができた。

 こういう感性があるから、ピアノも上手なのかもしれない。



 その後、スキーを終えた僕は、れもんとバイキングでご飯を食べた後、れもんを部屋まで送った。

 部屋の前で、僕が寝る前の挨拶でも済ませようかと思うと、れもんが先に口を開いた。

「明日、吉野さんたちと話してくるから、私の夢とか将来設計のこと」

「おお。そっか。約束してたもんね」

「うん」

 れもんは嬉しそうに笑った。

「それで、一応薫さんに先に聞いてもらいたいなって思ってさ。変じゃないかどうか」

「うん。聞かせてほしいな」

「えっと、高校はとりあえず普通に行きたい。制服着たいし、青春もしたい。それで、大学は東京の音楽系の大学に行って、ピアノを極めたい。それでそれで、ピアノで人を楽しませたい……どうかな……?」

 れもんは、とっても恥ずかしそうに言った。

 ……うん。いいじゃないか。

 なんだ。こう見ると、本当にただの女の子だ。

 でも、そっちの方がいい。だって、幸せだから。

「いいと思うよ。きっと吉野さんたちも喜ぶさ」

「うん……えっと、じゃあ、また明日。お父さんとお母さんに言ったら、薫さんにどうだったか報告しに行くから」

「うん。じゃあおやすみ。れもん」

「おやすみ~」

 れもんは、ちょこっと手を振ってから、ドアを開けて、ドアが閉まるまで僕の顔を見ながら、ドアを閉めた。

 


 



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