淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守(原石鼎)
作者:原石鼎(1886-1951)
原石鼎は根強いファンの多い俳人だと思う。何よりも上手い。それも技巧的な上手さよりも、人の琴線に触れる感覚をよく知っている人の上手さだと思う。だから彼の俳句は結構文学的である。単なる写生句からはみ出る自分をもて余していた人かもしれない。
昔、夜の畑の作物を山から降りてくる鹿などから守るために、火を焚いて番をする人がいた。「
鹿火屋守が、周囲に誰もいない淋しさから鳴らした銅鑼なのだと聞き手は捉えたのだ。しかも「また」である。2回目の淋しさの表明なのだ。音が夜の静寂に反響している間だけ、鹿火屋守は一人きりの淋しさを忘れることができる。
本当に鹿火屋守が、淋しさの余り銅鑼を打ったのだとしたら、この俳句の作者(つまり銅鑼の聞き手)には、その感情は届いていることになる。聞き手もまた、一人寝の夜を眠れないままに過ごしているのかもしれない。この句は、二つの孤独な心が音によって結び付いた瞬間なのである。
今は鹿火屋にも鹿火屋守にもまずお目にかかることはないが、この句にあるような感覚が古びることはない。一人暮らしの経験のある(現にしている)人の中には、家に帰るとまずテレビをつけ、寝るまでつけっぱなしという人は少なくないだろう。寝る前に、眠りに落ちる時間あたりに電源が消えるように設定している人もいるだろう。別にテレビを見たい訳ではない。人の声という音がなくなるのが寂しいのだ。テレビから聞こえてくる会ったこともないタレントのばか笑いも、孤独な心を紛らわす銅鑼の響きと同じなのだ。完全な静寂の中にいると、きっと死んでしまったように感じるのだろう。
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