去るものは去りまた充ちて秋の空

 作者:飯田龍太(1920-2007)


 読売新聞の社会面の左下に、長谷川櫂氏の「四季」というコラムがある。毎日詩歌を一つずつ紹介していて、私は学生の頃から愛読している。いまこれを書いている2023年8月現在、ウクライナの戦火の下にある人たちが非日常の中の日常を詠んだ俳句が毎日載っている。

 その「四季」に、2019年9月21日に掲載されたこの飯田龍太の一句も、前に取り上げた山田みづえさんの句のように、一目惚れの一句である。

「大空を去ったものは何か。また充ちてきたものとは何なのか。問いだけがそこにある。それが何かはわからないが、この句を読めば心の中に爽やかな秋晴れの空が広がる。そしてまた生きてゆこうという思いが広がる。」

 長谷川櫂氏はこんな鑑賞文を付している。これもまた胸に染みる名文だ。

 この句は字面もいいが、音読した時の語感も優れていると思う。

「去るものは去り」という音感には、下降していく感覚がある。畳み掛けるように「去る」「去り」と続くことで、寂寥感も醸し出す。

 しかし「また充ちて」と、口を開けて発音するA音が続くことで、ぐっと下がっていた頭が持ち上がる。そしてその先にはやはりA音で始まる「秋の空」が広がるのだ。何気ない句だが、長く印象が残り続ける「しかけ」が意識されている完璧とも言える一句だろう。

 ところで、「去るもの」・「また充ちて」いくものとは何だろうか?私はごく当たり前のように「雲」だと思っていたが、句を見直してもはっきりとはわからない。長谷川氏も雲とは言っていない。それでも、それは雲のような、実体はあるが手では掴めない、ある感情のように思えてくる。心の中には、いつもそういう感情が行き交う。一つの感情が心を占める。しかしそれはいずれ過ぎ去る。また別の感情がやってくる。それもいつかは去っていく。その繰り返しが生きることに他ならないのだろうか。秋の空は、澄んだその表面に、問いかけを写し出すだけで、答えは返さない。

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