生きかはり死にかはりして打つ田かな

 作者:村上鬼城(1865-1938)


 村上鬼城は、その名前からして凄味がある。彼の風貌も何となくただものではない感じがある。よく本で見る鬼城の写真は、かなりおじいさんになってからのもので、頂点のへこんだ帽子をかぶり、やや肩肘張ったような佇まいで正面を見据えている。ドットの粗い写真だが、眼鏡の奥の眼光の鋭さも窺えるような一枚だ。

 そんな鬼城のこの句に、私はまさしく打たれた。落雷のような衝撃を持った一句だと思った。

 生きかはり死にかはりして、とはどういうことか。つまり、田を耕し、作物を育てるという行程に、いちいち個人の名前は必要ない。親から子へと受け継がれていくだけである。やることは、基本的には同じだ。もちろんその年によって、作物の出来不出来や天災の影響は不可避だが、人間が自然に対して立ち向かうその姿勢に変わりはない。世代が変わって、田を打つ人間が若返ったとしても、それはどこかの誰か氏ではなく、「人間」そのものの象徴のごとき存在なのだ。それだけ、田を打ち大地から糧を得るというこの営みは、鬼城によって固く信じられている。親から子へ繋がっていく「田打ち」のその堆積が、歴史でありひいては文明であるという思い。

 そんなに大袈裟なことではないかもしれない。しかしこの一句が私に強い衝撃を与えたのは、そんな当たり前のものとして連綿と続いてきたはずの人間と自然との結びつきも、少しのきっかけで崩れてしまう脆さを孕んでいると気づいたからだろう。そして、人口が減り、やがて田を打つ人が消えてしまえば、鬼城が永続を信じたであろうこの光景も、幻になってしまうのだ。

 目をつむり、この句を想像すると、私の脳裡にはいつも、田んぼの中で泥だらけになって蠢く人間が蘇る。いつか誰もいなくなる日が来るとしても、そういうことをしていた生き物がかつてこの地上にいたという事実は、消えはしない。

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