冬の日や臥して見あぐる琴の丈

 作者:野澤節子(1920-95)


 去年私は新型コロナウイルスに罹患し、1週間寝たきりの生活を余儀なくされた。今まで風邪で1日や2日寝ついたことはあったが、まる7日間寝ていたのは初めてのことだった。

 そういう状況に身を置くと、いろいろ気づくことがある。例えば私が起きていいのは夜、歯を磨きに洗面所に行く時だけだったのだが、立ちながら歯ブラシを使っていると、足が小刻みに震えているのだ。1日横たわっていただけで、筋肉が衰えている。これは衝撃的だった。しかしよくよく考えてみると、この2本の足で内臓の詰まった胴体や脳の詰まった頭部を支えるというのは、大変なことなのだ。ただ立っているだけでも、一つの事業みたいなものである。自分の体の一部ながら、足という役回りを何か気の毒に感じたものだ。

 ずっと寝ていると周囲にあるものが高く見える。つい先日まで自分の方がそれを見下ろしていたのに、自分がそれに見下ろされている。本棚とか服とか。なんだか不思議だ。もっともそんなことを感じられるほど体調が安定したからこその感慨であって、いくらか回復した証とも言えようが、そのまま一進一退の状況が続くのはもどかしく、気持ちにも陰りがさす。

 野澤節子という俳人は幼い頃から脊椎カリエスを病み、20年に及ぶ闘病生活を送ったという。私の1週間など比較にならない期間だ。それだけに、この句は実感そのものだ。寝たきりの身からすれば、琴さえ自分より高い位置にある。壁のように感じられたことだってあったかもしれない。夢の中で自由に歩いたり走ったりしていたら、目の前に琴の壁が出現して一歩も進めなくなってしまった、なんて一幕もあったかもしれない。

 長い闘病経験を送った人の顔つきはどんなものになるのだろうとよく気になる。野澤節子の写真を見ると、古きよき奥様という感じだ。闘病の苦痛の痕跡といったものは感じられない。「婉という女」の作者大原富枝も、結核を長らく患った人だが、写真で見ても闘病のやつれは面影からは窺えない。それが私には何か不思議である。彼女たちは克己心のようなもので不快な日々の記憶を身内に塗り込めてしまったのだろうか。寧ろ昔ながらの言い方で、表現として昇華させたのかもしれない。

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