此秋も吾亦紅よと見て過ぎぬ

 作者:加舎白雄かやしらお(1738-91)


 ほとんどの人からは気づかれないかもしれないが、それでもひっそりと咲いている花が好きである。華やかさも仰々しさもないが見捨てることのできない存在感のあるそんな花。吾亦紅などまさにそう言うにふさわしい。吾亦紅というと10月頃咲く花というイメージがあったが、7月にはもう見られる。つまり夏の花の一つなのだが、季語としては秋だ。早咲きと遅咲きがあるのか、早稲と晩稲のようなものなのかわからないが、あの印象的な佇まいが秋風に揺れている様を想像すると、一年の残りをそろそろ意識してしまう。

 この句、字面がかっこよくてなかなか好きなのだ。「此秋このあき」「見てすぎぬ」という硬い文語が、一句を引き締めている。吾亦紅そのもののような飾り気のなくて、しかし趣のある句の姿だ。今年の秋も吾亦紅が咲いている。今年の秋も吾亦紅を見ることができた。秋は吾亦紅が咲いてこその秋だ。やや意味が取りにくいが、それは一瞬の出来事だ。野原の吾亦紅に目を留め、そこにふと秋の情趣を感じ、去っていった。それだけ。吾亦紅のような目立たぬ花に目をつける男の繊細さ。なるほど、彼には刀を持ち続ける生き方は辛かったかもしれない。少しリリカルな感触も備わった一句だが、吾亦紅を見る作者自身も秋の風景の一部として突き放しているところが、感傷に流れることを食い止めている。

 加舎白雄はもともと上田藩の侍だったが脱藩し、江戸に来て俳人として名を成した人だ。この人の作品は、江戸期の俳人とは思えないほどモダンだと思う。彼の感覚には、時に妙に現代的なところがあるのだ。

 例えば、


 傘さしてふかれに出でし青田かな


 あたかも青田を流れる風に吹かれるために傘をさして出掛けたのだと言いたそうなこの句。なんだかもて余した自意識のやり場に困ってついあてもなくふらふらと彷徨ってしまう孤独な魂といった感じがする。ここには21世紀につながる近代人がいると思える。

 こういう句を読むと、明治以降の俳句が写生第一になってしまったことが、私には滑稽で仕方がない。俳句は文学でなく静物画だなんてアホを抜かす人間がまだいるのだから、そんな奴らの頭上に等しく雷が落ちて仲良く黒焦げになってもらいたいものだ。俳句は時に行き場のない渦のような思いを排出する文学である。小説はゲロのようなもので、だから小説は高尚だ、なんて言葉に意味はない。俳句は格調高くなくてはいけないなんてボロをまとった主張にも意味はない。小説も俳句も文学であるならば、俳句も狂気や孤独を煮しめたゲロと言っていけない訳がない。

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