社会鍋喇叭の唾を道へ振る(田川飛旅子)

 作者:田川飛旅子ひりょし(1914~99)


 今でも社会鍋というものはあるのだろうか?もちろん私は年齢の関係で、それが街頭風景として当たり前に溶け込んでいた時期など知らないが、要するに歳末助け合いの原形と考えていいだろう。年末に駅頭に立った救世軍の隊員が、鍋を傍らに、道行く人に寄付をよびかける。心ある人は鍋に、何がしかの施しをする。鍋というところが、どことなく時代がかっている。

 この句、読んで字の如く、入り組んだ解説は何もいらない。だが、着眼点が特異でとても強く印象に残る。作者の名前が残らなくても、この一句はいつまでも残るだろう、と思わせる魅力と存在感がある。

 ラッパを通して呼びかけをしている光景を俳句にする。しかし、その訴えかけの熱さのあまり、いつしかラッパの内側にたまったツバを捨てる、という動作。これは、俳句は美しいものを描写しなければならないと考えている人はおよそ一句に盛ることはせず、当然のごとく切り捨てる光景だろう。この一連の一瞬の人間の動作を俳句にしようとは、なかなか考えないだろう。

 俳句はきれいで美しいものを、きれいで美しいままに定型に封じ込める、というメインストリートの行き方がある一方、何気なく行われている日常の一コマを、俳句の形に切り取ることで、いわく言い難い不思議な光景が出現する、ということもある。こうした句作を好む(私のような)人は、きっと「マニアック」と言われてしまうのだろう。しかし、きれいとか美しいというだけで、人の心にひっかかり続ける世界を作れるかどうかは、また別の話だ。


(私はこの句を、阿部完市の『俳句幻形』という本の中で知った。ところがいろいろ調べてみると、もともとこの句は「社会鍋の喇叭の唾を道へ振る」という形で発表されたらしい。つまり社会鍋の後に「の」が入っていて字余りになっているのが、正式な形らしいのだ。たぶん阿部完市が自著に引く際、字余りであることを忘れたか、最初から間違って覚えていたかして、「の」がない定型句の形で世に出てしまったらしい。もちろん誤植の可能性も排除できない。なのでこの句に掲出の形で言及するのは恐らく正確ではないのだが、私が一見してインパクトを受けたのはこの形であったし、特段意味が変わるわけでもないので、あえて阿部完市が引用したままの姿で取り上げることにした。)

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