生まざりし身を砂に刺し蜃気楼(鍵和田秞子)
作者:
人間の存在感を自然の中でどう捉えるかということは俳句にとって大きなテーマだと思う。私は、人間がいかに万物の霊長であろうともたまたまこの世界に出現してしまっただけの生き物であって、大した存在ではないと常に思っている。
自然はどこまでも大きいもので、その中で、人間はどこまでも小さい。私は海のない県に住んでいるので海を見ることは年に何回もないが、その何回の中で常に感じるのは自分の小ささである。
この句が印象的なのは、そういう自分の「身を砂に刺し」と表しているところだ。作者は敦煌の付近を旅している時に、突如目の前に出現した蜃気楼に圧倒され、この句が生まれたと言っているらしい。
砂漠の中に置き去りにされたように佇む自分。まるで見えない大きな手によって、一本のピンのように砂の中に放り出されたかのようだ。その「身」は、子を産み育てるという経験を持たなかった。そういう経験をしていれば得ていたであろう日常が、まるで蜃気楼のようにありありと見えたのかもしれない。もはや可能性としてもあり得ることのない、恐らく何度も願ったであろう情景が。いや、そんな風に思いをめぐらせている自分さえ、傍らから見れば、蜃気楼の一部かもしれない。もしそうだったとしたならば、このまま日本には戻れず、蜃気楼の消滅と同時に一本のピンとして、砂の中に飲み込まれてしまうかもしれない。
そんな儚い感覚が、読む者の身さえ頼りなく、すぐ消えてしまうものであるかのように感じさせる。しかし作者は、この句を作ることで、むしろ自分自身を砂の中から救いだしたのだと私には思える。これは諦念の句ではなく、失うものは多くとも自分だけは見失わずに進んでいくのだと伝えてくれる勇気の句と、私は捉えている。
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