Ⅲ 愛はいらない

Ⅲ.前篇

 

 毒騒動のあと室に籠ってばかりいたが、ようやく医師から運動の許可がおりた。

 侍女ミオラの手を借りながら室を出て、身体を馴らす目的で城内を歩いていると、廊下でばったり領主と顔を合わせた。

「ごきげんよう。レオンハルトさま」

「ああ、もう大丈夫のようだね」

 わたしの顔色を見たレオンハルトが控えめな笑顔を浮かべた。

「食事も完全に元通りになったとか」

「ご心配をおかけしました。朝食も残さずに食べました」

「それは良かった」

 レオンハルトはしげしげとわたしの頭部を見詰めた。平生の領主は平服の上から裾の長い上着を引っかけるようにして羽織っている。わたしは身を引きたかった。レオンハルトからは、わたしのつむじが見えているはずだ。毒物のせいで髪が薄くなっているわけではないが、何だか厭だ。

「やはり、まだそちらの方が似合うね」

 それだけ云い残してレオンハルトは廊下を曲がって行ってしまった。

 レオンハルトが云ったのは、わたしの髪型のことだ。

 今回のことで婚礼の儀式は延期になってしまい、さらには毒物の一件もあり、わたしは領主の指示で髪を結うのを辞めて、髪を長いまま背中に流している。少女の髪型に戻しているのだ。

 毎朝ミオラが髪を少し引っ張って抜けてこないかどうかを確かめているが、抜けてこなくなっても、

「せっかくですから、もうしばらく、このままでいればどうでしょう。婚礼後はずっと結い上げなければならないのですから」

 そう云い、わたしもそれに賛同した。その代わりにミオラとシシーは、飾り紐や生花を使って髪が野放図なままに見えないように毎朝鏡の前で工夫していた。領主夫人は威厳が大切なので、身なりにはかなり気を遣うものなのだ。

「ねえ、ミオラ」

「はい」

「レオンハルトさまの先の奥方は、どうして亡くなったの」

 

 死んではいけないクリスティアナ。

 死んではいけない。


 毒物に倒れたわたしの枕元に詰めて、レオンハルトはわたしの手を握り、懸命に呼び掛けていた。夢現にはっきりと覚えている。切羽詰まったような声音でレオンハルトはわたしの為に祈っていた。

 夜の森の中で泣き叫んでいたレオンハルト。

 わたしも魔女の端くれだ。あれが本当にあったことだと知っている。レオンハルトは今よりも若く見えた。あれは若い頃のレオンハルトの姿だ。そして森の中にいた魔女。

 奥方の亡霊。

「サロメさま」

 それがレオンハルトの先妻の名だ。チェザーレの生母。

「サロメさまのことは、申し上げることが出来ません」

「病死なの」

「それも」

「そう」

 侍女の口からは何も云えないということだ。もし死因が病死や事故死なら隠すこともない。そこにはやはり何かあるのだ。

 こういう時にはキリアンだ。

 城の中とはいえ、塔と小部屋が沢山あって誰かをいざ探すとなるとなかなか見つからない。とくに、持ち場が決まっているわけではないキリアンはあちこちに移動している。業を煮やしたわたしは、毎日の朝食後、小塔の屋上の庭園でキリアンと待ち合わせることにした。

「都合よく行けるとは限らないぞ」

 キリアンはぼやいていたが、三回に二回の割合で時間どおりに来てくれた。

「この塔の屋上は死角にあたる。二人きりで逢うのは、まずくないか」

「そんなことないわよ。同郷の幼馴染なんだから」

 大部屋で食事をとっているキリアンは食事を終えると大急ぎでやって来る。わたしはまだ自室のある塔、通称『妃の塔』には戻っていない。医師がわたしを診るために訪れるのも食事を温かいうちに運ぶのも小塔の方が都合がよいとのことで、晩餐会の夜に運び込まれた客室を自室の代わりにしてずっとそこにいるのだ。



 その小塔の屋上で、その朝も、わたしはキリアンを待っていた。キリアンにはサロメの死の原因を調べてくれるように頼んでいた。すぐに分かると想っていたのだが、そううまくはいかなかった。

「城仕えをする際に、領主家族のことは詮索しないようにと誓約させられているんだ。だから何かのきっかけがないとなかなかその話を切り出せない」

「チェザーレからは無理かしら」

「母親がどうして死んだのかなんて無遠慮に訊けるようなことじゃない。理由あって隠されているほどだ。自死かも知れないじゃないか」

 それもそうだ。

 それでも引き続き、毎朝、塔の上でキリアンと逢うことにしていた。サロメのことは分からなくとも、わたしに毒を盛った者のことや、他の情報が分かればいいと想ったからだ。

 小塔の屋上からは雪冠を列ねた蒼い山脈が雄大に臨める。魔都がある方向だ。尖った山々は横たわった竜の巨大な化石のようだった。

 誰かが塔の螺旋階段を上がって来た。

 キリアンが来たのだろう。わたしは振り向いた。

 そこに見知らぬ魔女がいた。

 際立って美しい魔女だった。泉の女神のように若く美しい。魔女の周囲までが清く耀いてみえた。

 その美貌にわたしはすっかり呑まれてしまった。魔女の傍らにはチェザーレがいる。

 現れたチェザーレと美女はわたしがそこにいるのを見て、二人とも「あ」という顔をした。美女は青い外套を羽織り、箒を持っている。

 わたしの方が先客だったが、固まっている二人の様子をみたわたしは軽く礼をして、すれ違い、小塔の屋上を退いた。螺旋階段を降りていきながらわたしは今みた二人のことを考えた。どういう関係なのだろう。

 すると下からキリアンが螺旋階段を駈け上がってきた。

「ヘタイラだよ。ヘタイラ・スヴェトラーナが昨晩この城にいたそうだ」

 わたしとキリアンは通路に出て、手近な小部屋に入った。

「ヘタイラ?」

「すごいだろ、あのヘタイラだぞ」

 キリアンはすっかり昂奮している。

「スヴェトラーナといったら、ヴァランティノワ公爵の求婚をはねつけたことで一躍名を上げたヘタイラだ。ちらりと見たけど噂どおりの、もの凄い美人だった」

 ヘタイラ、アスパシア、ディオティマなど、云い方は色々あるが、要は魔女の中でも超級美人の代名詞のことだ。ヘタイラ、アスパシア、ディオティマのどれかが名の前につけば、その魔女は、格別に美しいということを意味する。

 人間界におけるヘタイラやアスパシアは古代羅馬時代の高級娼婦のことだが、魔法界では意味合いが違う。魔法界のヘタイラとは、美しさと才智に長けた女神の如き存在で、魔法使いたちの羨望の的なのだ。

「その方が、テュリンゲンのお城に何の用」

 わたしが訊くと、キリアンは夢から覚めたように、ぎくりとなった。

「え」

 え、じゃないわよ。

「ヘタイラ・スヴェトラーナ嬢がどうしてこの城に居たの。ヘタイラは魔都の祭りや競技の際に花を添える役よね。ヘタイラ、アスパシア、ディオティマ。呼び方は何でもいいけれど、アスパシアがお城に何の御用。正式な客人ならば昨日のうちにわたしにも伝達されているはずだし、奇妙だわ」

 風が吹いた。森の香を伝える風だ。今朝は常よりも冷気をはらんでいる。

「塔にはチェザーレと一緒に現れたわ。二人は姉弟のように親しげだったわ。スヴェトラーナは帰るところだったみたい」

「俺、知らない」

 大慌てになってキリアンは逃げるようにして行ってしまった。


 

 運動がてら、魔法の箒にしか出来ない遊びをわたしはやっていた。

 ちょうどよい傾斜角度の階段があったのだ。箒を橇のようにして、一番上の段から滑り降りていた。

 段差に対して縦に箒をおき、その上に立って、箒から落ちないように均衡をとりながら波乗りをやる具合で階段を降りる。かたかたと少し跳ねながら、一瞬で下に着く。

 山の民ならば、しなる木の枝を使って同じように斜面を滑り降りるそうだ。

 床に着く直前に足先で箒を跳ね上げ、うまく箒を掴んで着地する。

 階段を往復しながら上機嫌で遊んでいると、下の通路に折り合い悪く、レオンハルトとチェザーレとキリアンが現れた。

「危ない」

 わたしの箒は彼らに向かって突っ込んでいった。方々から手が伸びてきて、彼らに受け止められたわたしの身体は宙に浮いた。箒は廊下の端まで滑っていってそこで壁にぶつかって止まった。

 レオンハルトが信じられないものを視たという顔つきで無言でわたしを見た。わたしは小さくなって「もうやりません」と応えた。


 

 城には肖像の間がある。歴代の領主が描かれた画が陳列されている。テュリンゲン家は新興の家だから肖像画の数はまだ少ないが、その埋め合わせをするように、家族の肖像もたくさん遺されている。

 レオンハルトの最初の妻だったサロメ。

 その肖像画を見た時、わたしは胸を突かれるような想いがした。なんて若いのだろう。サロメは今のわたしと同じ歳で嫁いできたのだ。

 可憐な魔女は少しだけ微笑んでいる。

 黄金の血をもつ希少な魔女。

 サロメとわたし、それと実はあともう一人、皇族の血をひく遠い孤島の王族の王女もそうなのだが、孤島の王女はようやく五歳になったばかりだ。だから、今回の花嫁にはわたしが選ばれた。

 皇帝の命令で魔女は無理やりこの家に嫁がされてくる。そんな中、珍しく、サロメとレオンハルトは昔から仲の良い幼馴染だったそうだ。

 嫁いで数年。

 一人息子のチェザーレを遺して、サロメは逝った。



》中篇

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