Ⅲ.中篇
侍女ミオラの顔は強張っていた。
「スヴェトラーナ。誰からその名をお聴きになったのですか」
「逢ったの。今朝。塔の上の庭にいたらチェザーレとスヴェトラーナ嬢が現れたの。チェザーレに見送られて帰るところだったみたい。離発着用の空中庭園があるのに、ヘタイラは外套で姿を隠すようにして、小塔から帰ろうとしていたの」
おぼろげながらに、答えは分かっていた気がする。
「既にお別れされておられます」
ミオラはきっぱりと云った。
「誰と」
「レオンハルトさまです」
やっぱり。そうだろうと想っていた。チェザーレではまだあの美女と釣り合わない。
「二年以上も前のことです。昨夜は何かのご用事があったのでしょう。ご結婚のお祝いを述べに来られたのかもしれません」
ヘタイラ・スヴェトラーナ。
あの眼の覚めるような美しい魔女は、ここ数年、領主レオンハルトの愛人をつとめていたのだというのだ。
「愛人というと語弊があります。お二人の仲は数年に渡って続いておられました」
下手に中途半端に誰かの口から耳にするよりはと、ミオラは言葉を濁すことすら止めていた。
「もうお別れされておられます。奥方さまを亡くされて十年も経つのです。何もおかしなことではありません。相手を問わずという殿方も多い中、レオンハルトさまは身綺麗な方ですわ。何も問題はありません」
それのどこがどう身綺麗なのかと十六歳のわたしは問いたい。レオンハルトには、いたんだ。恋人の魔女。居てもおかしくはないけれど、あんな綺麗なヘタイラが愛人だったなんて。最愛の妻を亡くして、気が狂うほどに哀しんで、そのまま悲嘆に打ち沈んで今まで過ごされていたのかと勝手に想い込んでいた。違った。
美しい魔女の代名詞ヘタイラ。男たちがどれほど愛を乞うたとしても、相手がたとえ皇帝であったとしても、気に入らなければヘタイラは決して振り向くことはない。雪原の中から一粒の真珠を探すが如きと喩えられるほどの高嶺の花の魔女なのだ。その高嶺の花とレオンハルトが過去に愛人関係だった。男を選ぶ権利はヘタイラの方にあるが、魔法使いの側だってそれを受け入れなければ関係は成立しない。
「最初のうちは隠されておられましたが、ヘタイラとの情事は、隠し通せるようなものではありません」
ミオラは事務的な口調で全てを教えてくれた。
「ヘタイラ・スヴェトラーナは城の近くの館からこちらの城にお通いでした。それもとても控えめに、人知れず真夜中に来て、明け方には帰ってしまわれていたのです。城の者たちは夜の短い時間しかレオンハルトさまとご一緒ではないヘタイラ・スヴェトラーナのことを気の毒がって、こう綽名していたくらいです。
あの美女が。あの気位の高いヘタイラ・アスパシア・ディオティマが。夜にだけ美しい声を聴かせる小夜啼鳥のように、そんな惨めな様子で、ひと目をしのんで領主の許に通っていたとは。
深夜にやってくる小夜啼鳥。五年以上の長きに渡って小夜啼鳥を城の中に迎え入れていたレオンハルト。
つまりそれほど、二人の仲は確かだったということだ。
そうなんだ。ふうん。
ふ~ん!
火を移した蝋燭を燭台に立てる。わたしは夜衣の上に一枚羽織り、燭台を片手にそっと廊下にしのびでた。
わたしの室からは直接その室は見えない。渡り廊下まで移動する。
目指す窓には灯りがついている。まだ起きている。
若くして最愛の奥方を亡くされた可哀そうな気の毒なやもめ。一人息子を育てている健気な城主。
気が狂っているという噂のほうがまだましだった。
尊敬しかかっていたわたしの純情はきれいに壊れ、胸の中には石が詰まったような気がする。この責任を取ってもらう相手がいるとすれば、それは本人だ。
「クリスティアナ」
「今晩は、レオンハルトさま」
わたしは燭台を手近な小卓においた。暖炉の前で箒の柄を磨いていたレオンハルトは意外な反応をみせた。領主は箒を投げ出し、大股にわたしの許にやって来ると、わたしの両肩を掴んでかみつくように云った。
「クリスティアナ、具合が悪いのか」
前回の怖ろしい毒騒動のことしか彼の頭にはないようだ。
「すぐに医者を」
「違います」
わたしは彼を制した。レオンハルトはようやくわたしをまともに見た。
「このような夜更けに。クリスティアナ、何があった」
けっ。
あやうく騙されるところだった。このおじさんを好きになるかもしれないとまで想いかけていた。
「クリスティアナ。落ち着きなさい」
レオンハルトは声を上げた。わたしが魔法杖を取り出したからだ。
わたしの手にした魔法杖の意味がさっぱり分からないという顔で、レオンハルトは繰り返した。
「一体どうしたのだ」
「ヘタイラ・スヴェトラーナ嬢のことです」
「ああ」
単刀直入に斬り込んだわたしの言葉に、レオンハルトは、はっとなった。
「話はすべて聴きました」
「ああ、そう」
魔法使いだろうが人間の男だろうが、こういう際には、それしか云えないだろう。さしものレオンハルトも不意打ちを喰らって視線を泳がせた。
わたしは別に怒ってはいない。わたしが城に来る前の話だ。ただ、残念に想う。ヘタイラ・スヴェトラーナがもし白銀の魔法使いを産める血をもっている魔女だったならば、城の妃は今頃スヴェトラーナだったはずだ。気位が高いだけでなくヘタイラは身持ちも堅く、大貴族ヴァランティノワ公爵の求愛を袖にしたことからも分かるとおり、その愛はヘタイラ自身の気持ちひとつなのだ。
美貌のスヴェトラーナとレオンハルトが並べば、美男美女、絵に描いたようなカルムシュタット領の領主夫妻になったことだろう。
レオンハルトはわたしに椅子をすすめた。わたしが室に押しかけてきた目的が彼にも分かったのだ。
「もう少し暖炉の近くへ」
「こちらで結構です」
「スヴェトラーナと親しい期間があったことは認めます。昔の話だ」
「わたしは今朝、彼女に逢いました。ヘタイラはお帰りのところでした。昨夜から城に滞在されていたとか」
「夜のうちに魔都に戻ろうとするのを、夜間飛行は危険だからとわたしが引き止めたのだ。これ以上の誤解を招かぬように、彼女が何の用で城に来たのかを話しておこう。昨夜はチェザーレも我々と一緒にいた」
「チェザーレさまも?」
今朝見かけた時、二人は一緒だった。信憑性はある。
「スヴェトラーナは、知らせに来てくれたのだ」
「どのようなことをでしょうか」
「『
レオンハルトは想いもよらぬことを云い出した。
何の話だろう。
「皇帝はこれを看過できぬものとして取り締まっておられるが、地下組織であるために根が広く、まだ討伐は叶っていない。クリスティアナの毒殺未遂事件を耳にしたスヴェトラーナは、その『金環党』の動きが最近活性化していることを、遠い魔都からわざわざ伝えに来てくれたのです」
わたしの毒殺未遂と、その『金環党』と、ヘタイラがどう関係しているのだろう。
「金環党とは何でしょう」
わたしが問うと、領主は応えた。
「クリスティアナは、黒金の魔法使いが何かを知っているだろう」
「はい」
知っているも何も、わたしはその為に、テュリンゲン家に送り込まれたくらいなのだ。強大な力をもった悪い魔法使い。黒金の魔法使いは同じ血を分かち合う白銀の魔法使いにしか斃せない。
「『金環党』とは、その黒金の魔法使いを信奉する者たちのことだ。貧困層の若い魔法使いたちのあいだに徐々に信者を増やしている」
「まさか」
わたしは愕いた。そんなことがあるのだろうか。殺戮と悲惨しかもたらさない黒金の魔法使いを支持して崇める者たちがいるなど。
狐につままれたような気持ちで、わたしはレオンハルトの次の言葉を待った。何だか誤魔化されているような気がしてきた。
レオンハルトは空いている椅子に手を向けた。
「昨晩はスヴェトラーナとチェザーレと共に、この室で、魔法界に蔓延る金環党の話をしていたのだ。疑うのならばチェザーレ本人に訊いてくれても構わない。これで誤解は解けただろうか」
誤解。なんの誤解。
レオンハルトとヘタイラ・スヴェトラーナが昨晩、この城で逢引していたかどうかを、わたしは疑っていたわけではない。
領主の居間からは隣室の寝室が見えた。続き部屋なのだ。小夜啼鳥が真夜中に訪れていた室。
「物騒なものを仕舞いなさい。クリスティアナ」
わたしの手にした魔法杖をレオンハルトは指した。魔法杖を持っていた理由はわたしにも分からない。何だか無性に腹立たしかったのだ。
「夜も遅い。小塔に戻りなさい。これ以上の話があるなら明日にしよう」
「知りたいことが分かるまでは眠れません」
「では、あと一つだけ答えよう」
「わたしを毒殺しようとしたのは、その『金環党』なのでしょうか」
レオンハルトは「まだ確証はないが、そうではないかと想っています」と応えた。
翌日、寝不足のまま長椅子に座っていると、チェザーレが室に遊びにやって来た。
「スヴェトラーナのことは、せっかく隠していたのにな」
わたしが無言でいると、チェザーレは勝手にわたしの隣りに座った。親子なだけあって、やはりチェザーレはレオンハルトと似ている。横顔とか。レオンハルトは今も端正だが、ヘタイラと出逢った二十代の頃はそれはそれは若き貴公子然としていたことだろう。
「そうでもないぞ。その頃は荒れてたから」
チェザーレは父親の過去をそう評した。
「ヘタイラと父上。二人のなれそめを教えてやろうか」
わたしが返事をする前に、チェザーレは語り出した。
ヴァランティノワ公爵。初老の魔法使いにして有力者。爵位の最上位の公爵家は皇帝家とも縁続きだ。このヴァランティノワ公爵が、年甲斐もなくひとりの若いヘタイラに夢中になった。
花冠と揃いの袖なしの白い衣裳をつけたヘタイラたち。その中のひとり、スヴェトラーナに強く心を惹かれた公爵は、やがて狂ったような妄執を抱き、無理強いの愛を若い魔女に迫るようになった。
それは愛というよりは妄念に近かった。
ヘタイラたちにとってこのような事態は珍しいことではない。最初のうちこそスヴェトラーナは仲間のヘタイラたちの力も借りてうまくかわしていたが、老境にあって深みに嵌り込んだ公爵の、若い魔女に対する執着は度を超していた。
彼は妻と離縁した。そして小宮殿を新しく建てて、そこにスヴェトラーナを監禁しようとまで考えた。高価な美術工芸品を収集する癖のあったヴァランティノワ公爵は、誰の眼にも触れさせないようにヘタイラを閉じ込め、玻璃や陶器と同じようにその若さや美しさをわが物にしたかったのだ。
或る晩、皇帝の開いた王宮舞踏会において、公爵は魔女の腕を掴んだ。
「今宵こそ想いを遂げてやる。意地を張っても為にはならぬぞ」
馬車に押し込めようとする公爵にスヴェトラーナは抗った。衛兵を呼びます。
「呼ぶがいい。わたしは公爵だ。皇帝のほかに誰がわたしを止めることが出来ようか」
「わたしが止めましょう」
そこへ現れたのが、テュリンゲン伯爵だった。若き伯爵レオンハルト・フォン・テュリンゲンはヴァランティノワ公爵の手からスヴェトラーナを取り戻した。
「これ以上のことをされると、あなたの名にも瑕がつきます。公爵」
「生意気な」
公爵の眼は陰気につり上がって燃えた。その手には魔法杖があった。
「ザヴィエン家の日陰の家の者の分際で。そうか、お前もこの魔女に執心しているのだな」
「通りがかっただけです。今宵はこれまでにした方が公爵のお為になるかと」
公爵は魔法を放った。レオンハルトは魔法杖でそれを受けた。それだけでなく公爵の魔法を弾き返して、ヴァランティノワ公爵の魔法杖を折ってしまった。
「失礼いたしました。これ以上の騒ぎになれば、皇帝のお耳にも入るでしょう」
ヴァランティノワ公爵は癇癪を起して何か喚いていたが、レオンハルトはスヴェトラーナを連れて、王宮を立ち去った。
宿泊先までお送りしましょう。
緊急の際だった。初対面の男女が王宮から退出するのに二人乗りをするのは礼儀に反していたが、レオンハルトは箒にヘタイラを乗せて夜空を飛んだ。
レオンハルトはヘタイラをホテルに送り届けた。古典主義建築のホテルの前でスヴェトラーナはいつまでもレオンハルトを見送っていた。
「詳しいわね」
「館に遊びに行く度にスヴェトラーナから直接聴いたからだよ。公爵に喧嘩を売ったのは自暴自棄になっていたその頃の父上の、半ば自傷行為だったのではないかとヘタイラは俺に語ったよ」
しかし事態はこれだけでは終わらなかった。
「ヴァランティノワ公爵は強硬手段に出た」
「何をしたの」
無視しておくつもりが、すっかり話に引き込まれて、わたしはチェザーレに続きをせかした。
翌朝、決闘の申し込みがヴァランティノワ公爵からレオンハルトの許に届けられたのだ。
》後篇
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます