Ⅴ.中篇(下)
強い風に樹々がしなって葉ずれの音を立てている。夜の森は海のようだった。キリアンの息は苦し気だが、わたしの腕を掴むその力は、既に死ぬ覚悟を決めているせいか痛いほどに強い。
「他の者に殺される前に俺に殺されてくれ。ティアナ」
「何故わたしが殺されるの」
「お前は金環党の為には、はたらかないだろう」
「もう一つの考えとはなに。何をするつもり」
わたしが訊くと、キリアンは衣嚢から筒を取り出した。手の中にちょうど納まるくらいの大きさの筒だ。
「シャテル・シャリオン領とカルムシュタット領にこれを撒く」
二つの領は、湖と森を挟んだ距離だ。
「今夜のこの風だ。すぐに広がる」
「それは何」わたしは訊いた。
「灰死病を伝染させる粉だ。道連れにしてやる」
キリアンは飛び退いた。わたしがキリアンに掴みかかったからだ。
「それを寄越しなさい」
「ティアナが俺と一緒に死んでくれるなら、この筒はこのまま森に埋めるよ」
「死ぬものか」
嫁ぐ前ならキリアンに同情したかもしれない。だが、その時のわたしには別の感情の方が勝っていた。
身体の奥深くから強い力が指先にまで行き渡る。わたしの血の中に眠っていた『偉大な魔女』の力だ。黄金に燃え上がるようなその血がわたしの全身を駈け巡り、勇気で満たし、夜を払いのけるほど燃え上がっていた。
「灰死病の粉を撒くですって」
「ザヴィエン家もテュリンゲン家も死に絶えてしまえばいい。そうなれば黒金の魔法使いも生まれない」
死期の迫るキリアンの両眼は黒い洞のようになっていた。
「黒金の魔法使いが生まれないのであれば、その降臨を待ち望む金環党の野望は潰える。無理やり嫁がされるような不幸な魔女もいなくなる。すべてが解決する。俺がそうしてやる」
「キリアン。テュリンゲン家の女城主のわたしが命じる。その筒を渡せ」
「もう奥方さま気取りか」
箒に乗ってキリアンは素早く夜空に飛び立った。わたしも箒を掴み、すぐにその後を追った。シャテル・シャリオン領およびカルムシュタット領に着く前にキリアンに追いついて、灰死病の粉が入ったあの筒を取り上げなければ。そして。
そして、それから。
他の者に殺される前に俺に殺されてくれと云ったキリアン。だったらわたしも同じことをあなたに云う。わたしに殺されてキリアン。
追い風であったものは、今度は向かい風になっていた。闇に眼を凝らしてキリアンの箒の軌道を追った。わたしは箒の速度を上げた。樹々の先端が倒れていくほどの速さで飛んだ。夜の森が身体の下で嵐の海のように飛び過ぎる。
「その筒を渡しなさい」
追いついたわたしの箒がキリアンの箒に並んだ。わたしは箒ごとキリアンに体当たりをした。ぶち当たる。互いに跳ね飛ばされたが、すぐに二人とも体勢を立て直した。カルムシュタット領のある方角から蹴り出すようにして、わたしはそれを何度も繰り返した。真後ろから追突もしてやった。
キリアンが急に速度を落とした。わたしの背後を取ろうというのだ。そこでわたしは箒を上方に向けて、宙返りをした。
「取った」
宙返りをしながら、降下する時にわたしの魔法杖は狙いをつけていた。狙いすまして放ったわたしの魔法は火矢のように走り、キリアンの上着を射抜いて燃やした。
燃え上がったキリアンの上着の衣嚢から筒が零れたのを見逃さなかった。円を描いて下降しながら、わたしは火を消しているキリアンの箒の下にもぐり込み、落ちてきた筒を掬い取った。
「ティアナ」
灰死病の粉が納められた筒を奪われたキリアンは怖ろしい形相をした。
「返せ、ティアナ」
形勢は逆転した。今度はわたしが追われる番だ。
筒を手にしたわたしは追いかけるキリアンから逃げた。魔法使いの魔法が背後から飛んでくる。放たれた魔法が風を引き裂き、音を立ててわたしの髪を掠め、箒の尾の端を砕く。キリアンの攻撃魔法がわたしを襲う。
「逃げきれないぞティアナ。それを返せ」
後ろから飛んでくる魔法には殺気があった。キリアンは本気でわたしを殺すつもりだ。死を悟ったキリアンには怖れるものが何もない。猛烈に追い上げてくる。わたしを道連れに心中するつもりなのだ。
「ティアナ」
超高速でじぐざぐに箒を走らせた。キリアンの魔法を避けて、箒の柄に身を伏せ、錐のように箒ごと回転もした。
もしわたしの眸を覗き込む者がいたら、魔女であるわたしの両眼が戦闘意欲で焔のように煌めき、色濃く変わっているのを見たことだろう。
逃げ回りながら、わたしはキリアンをカルムシュタットから遠く離れた無人の領域へと誘い込んでいた。
テュリンゲン家とその民を殺めようとしたキリアンを仕留めなければならない。それが領主の妻となるべき者の責務だ。強い怒りと責任感に満たされて、わたしは想い切り夜空を飛んだ。
追ってくる。キリアンが迫る。もう一度宙返りをしてキリアンの背後をとってやる。
わたしは魔女だ。テュリンゲン家の奥方になる魔女だ。女主には領民を護る役目がある。
ふたたび箒を空に伸び上がらせた。そしてわたしは星を蹴散らすくらいの勢いをつけて大きく回った。月を掠め、夜空に円を描いて風を切り滑降する。宙返りしたわたしの箒は追いかけてきたキリアンの背後に回っていた。背中をとった。
キリアン。
幼い頃から一緒に遊んでいたキリアン。
そんなに黒金の魔法使いの力とやらは魅惑的なのだろうか。野原で笑い転げていたわたしたちのあの倖せな日々よりも。黒金の魔法使いを信奉すれば、自らもその強い力を持ったように想うのだろうか。
莫迦なキリアン。
魔都に死の毒を撒き散らし、子どもたちを利用するような卑劣な者たちが、その高潔ぶったお題目どおりの志を持っていると信じるなんて。彼らは人にやらせてばかりで何もしない卑怯者じゃない。
貴族たちを斃しても後に残るのは、強慾者が権力を握ったことで起こるさらなる無秩序と、今よりももっとひどい貧富になるだけなのよ。金環党が、次の新たな既得権益の特権階級に就くだけなのよ。黒金の魔法使いの力を笠に着たそれは、今とは比較にならぬほどの支配と圧政と、暴虐の蔓延るひどい世界になるわ。
何を見ていたのキリアン。領民のことに心を砕くレオンハルトや、そんなレオンハルトを慕う領民たちの姿は、あなたの眼には映っていなかったの。
ああ、でも、もう考えるのは止そう。黒金の魔法使いはもともと偉大な魔法使いの亜種なのだ。その力は崇められるに相応しいものなのだ。
だからこそザヴィエン家とテュリンゲン家は備える。いつか必ずまた一族の中から現れる黒金の魔法使いを斃すために。
わたしに果たすべき使命があるのならば今こそ、その時だ。灰色の雪の中を彷徨っていた幼子。父母を奪った金環党。二度とふたたびあんなことをさせてはいけない。わたしがそれを許さない。
サロメ、力を貸して。
貴女ならザヴィエン家とテュリンゲン家に嫁ぐことになった魔女たちの苦悩を誰よりもよく知っているはずよ。他の魔女たちとは違い、自らの意志でレオンハルトの許に行くことを選んだサロメ。
肖像画の中で微笑む二人。宿命の家に招く側も、花嫁衣裳で赴く側も、若さゆえに手を携えて全ての苦難を共に乗り越えていけると堅く信じていたことだろう。
どんな気がするものだろう。ふたたび魔女を不幸にするかも知れないと知りつつも、もう一度魔女を家に迎え入れる魔法使いの覚悟の深さとは。
キリアンが魔法を放ってきた。わたしは箒を傾けてそれを避けた。傾いた勢いで箒ごと回転して加速する。さあ勝負よ、キリアン。邑では対等だったわね。手加減してくれていたのかも知れないけれど、今のわたしは前とは違う。あなたが領民を殺すつもりならば刺し違えても阻止するわ。
「クリスティアナ、後は任せろ」
そこへチェザーレの箒が高速で飛んできた。
》後篇(最終回)
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