Ⅴ.後篇(最終回)
わたしを襲うキリアンの魔法を、やって来たチェザーレが遮断して阻んだ。三つの箒が強風のなか交差する。チェザーレの魔法がキリアンを掠めて森に落ちる。白銀の魔法使いチェザーレの魔法は、常よりも切れがない。
合間に割って入って来たチェザーレはわたしに向かって怒鳴った。
「クリスティアナ、ミオラを襲ったのはキリアンだ。そいつは金環党だ」
「分かってる!」
大声で返した。
「今夜の飲み物にキリアンは毒を入れていた。解毒に時間がかかってしまった。キリアンの話は信じるな。キリアンは金環党の本部に君を連れて行くつもりだ」
分かってる。もう一度わたしは同じ返事をした。わたしの毒の回り方が遅いのは、念のために毎朝、レオンハルトの指示で毒を弱毒化する薬を医者からもらって呑んでいるからだ。
箒で疾走しながら灰死病の入った筒をチェザーレに向かってわたしは投げた。上空でチェザーレは筒を掴んだ。
「チェザーレ、それを持って遠くに逃げて。中には伝染病が入っているから蓋を開けないで」
「なんだって」
「死病の粉が入っているから開けないで。キリアンは灰死病をカルムシュタットとシャテル・シャリオンに撒くつもりだったの」
「何てことだ。友だちでいたかったのに」
無念と悔しさを篭めてチェザーレが魔法杖をキリアンに向けて振り上げた。わたしはそれを制した。
「手を出さないでチェザーレ」
決めていた。
「キリアンはわたしが殺る」
視界の端に、城のある方角から箒を飛ばしてやってくる別の魔法使いの姿が見えていた。風が領主の声をはこぶ。クリスティアナ。チェザーレ。
箒の柄を握り締める。
そこで見ていて、レオンハルト。
わたしは健康だけが取り柄なの。父さまと母さまを死に追いやった灰死病もわたしは平気だったし、毒の種子を食べても生還したわ。
お互い望んでいなかった結婚だけど、お互いを今よりは倖せにしてみせるわ。まだ戸惑う気持ちの方が大きいかも知れないけれど、貴方にはヘタイラ・スヴェトラーナの方がお似合いだと想うけれど、大抵のおじさんなら若い魔女が嫁いで来たら相好を崩すものよ。
困惑した顔しか今のところ見たことがない。そんなところが大好き。
前を飛ぶキリアンがわたしを振り返った。
「キリアン」
お別れにキリアンの名を叫んだ。幼馴染、あなたの夢は何だった? もしわたしと仲良く暮らすことが夢だったのなら、間違えたりはしなかったはずよ最期まで。
人間ならばこういう際には躊躇うのだろうか。でもわたしは人間ではない。魔女だ。わたしの父母を殺したものをわたしは許しはしない。
振り返ったキリアンのその顔は、見慣れた子どもの頃のようだった。
やれよ、ティアナ。
懐かしむような眼をしてキリアンはわたしを見ていた。一緒にこのまま月の国に行けたらいいな。
お前になら殺されてもいい。
片手で箒の柄を支える。反動が起きた。わたしの魔法杖から迸った光は真夜中を照らす炎となり、眼を灼く雷はうねりとなってキリアンの姿を捉えた。その直後に、白銀の魔法使いレオンハルトが遠方から放った強烈な魔法も風を切り裂いて届いていた。キリアンの箒が木っ端微塵に砕け散る。若い魔法使いの身体が魚のように跳ね上がり、のけぞり、そして逆さまに空から落ちた。その影は闇に吸い込まれ、激流の流れる渓谷にかき消えていった。
わたしが。それともレオンハルトが。とどめを刺したのがどちらであっても悔いはない。
箒の上でわたしは力を抜いた。
キリアンは死ぬつもりだった。死を待つよりも誰かに殺されたがっていた。
わたしは両親の仇を討った。それからサロメの仇も。
やはりまだ、毒薬の影響が残っていたようだ。
「クリスティアナ」
夜風が強い。飛翔してきたレオンハルトの姿を視界に認めたわたしは彼の許へと箒を向けようとしたのだが、箒は大きくずれて、全然違う方角に向かって流れていた。
地平が傾いている。箒が折れているのだろうか。
違う。わたしが全く箒を制御出来ていないのだ。操縦者を失った箒が強風に流されている。毒薬の影響が今になって出てきたのだ。魔法がまるで利かない。
箒がふらつきながら迷走を始めた。わたしは箒の柄にしがみついていたが、何度もその手が滑った。身体から力が抜けていく。意識があるようでない。夢の中で目覚めているような感じだ。箒の向きを戻さないと。はやく貴方の許に行かないと。
クリスティアナ。
わたしを呼ぶレオンハルトの声がする。最初に毒を盛られた時もあの人はあんな声で懸命にわたしの名を呼んでいた。
死んではいけないクリスティアナ。
死んではいけない。
サロメを失ったレオンハルト。眼の前でまた魔女が死ぬなんて、もう二度とごめんだろう。安心して。貴方とは十八歳も違うのだから、順当にいけばわたしから先に死ぬなんてことはない。
誰かと結婚したら、夫婦でやってみたいことが幾つかあったの。そのうちの一つが箒に二人乗りをして星空を飛ぶこと。二人乗りが無理でも箒を並べて、仲良しの鳥のように空を飛んでみたかった。貴方のほうは小夜啼鳥と二人乗りをもうやったことがあるんだっけ。公爵の魔の手からヘタイラを連れて逃げる時に。
宙返りのコツはね、一気に回るの。出来るだけ高い処で一息にね。箒と空は友だちだもの。
箒に乗ったレオンハルトが追いかけて来る。追いかけてきて。
可愛いと云われて育ったわ。きっと夫から愛されると想ってた。レオンハルトには同情しちゃう。息子と同じ歳の魔女なんて、息子の友だちが城に遊びに来たようにしか見えなかったことでしょうね。子どもがもう一人増えたような気分だったかもね。
待っていて。もう少しで魔法が使えそうだから。そうしたらこの箒を減速して立て直し、貴方の箒と並んで飛ぶわ。見て、夜の暗い野原に星の宝石がたくさん。
実はわたしは、箒が暴走を始めてすぐに意識を失って箒から滑り落ちていた。追いついたレオンハルトが辛くも落ちてきたわたしを空中で受け止めた。
「毎回、はらはらさせる子だ」
片腕でわたしを抱きながらそんなことをレオンハルトが云っているのを、飛んでいる箒の上でうっすらと聴いたのを憶えている。
いい歳した男が若い娘にでれついている様子は、みっともなくて、見れたものじゃない。だからレオンハルトはいい線いってる。ヘタイラ・スヴェトラーナは見る眼があったのよ。
子どもは三人くらい産めばもういいよね。それが終わったら、わたしは帰ろう。
何処かには帰る処があるはずだ。
灰の雪が街に降っている。
テュリンゲンの城に戻らなければ。灰死病のように人々の上に哀しみをもたらす黒金の魔法使いは、白銀の魔法使いだけが退治できるのだ。その白銀の魔法使いを増やして世に遺す。そのためにわたしは。
レオン。
もういいのよ。
サロメが心配している。大好きなレオンハルトがいつまでも苦しんでいるから。
サロメ。
わたしはサロメに呼び掛ける。もういいのよサロメ。
あなたの産んだチェザーレはとてもいい子に育ってる。少し強引だけどお城の王子さまだから仕方がないよね。
夜の森の中からレオンハルトを見ていた魔女サロメ。
貴女がサロメだとすぐに分かったのはね、貴女とチェザーレがよく似ているからなの。
ぐっすり眠った。室内が明るい。窓から差し込む午後の光が天蓋を囲む薄布にさざ波のような模様をつけている。夕方が近いのだろう。濃厚な光は蜂蜜色をしている。日暮れの湖にいるみたいだ。静かな花園に。近くにはレオンハルトが付き添っていた。
「よく眠れました」
「よく寝ていた」
領主の寝所だった。レオンハルトは間近からわたしを見ていた。領主の手はわたしの片手を握っていた。それについてレオンハルトは、「また何処かに行かないように繋いでいた」と云った。
婚礼の儀式は盛大だった。領内は三日間お祭りが続き、街路を花が埋め、夜には花火が打ち上げられた。
「レオン、見て下さい」
わたしたちはまだ別々の塔にいたが、領主夫婦が日中を過ごすための居間が完成していた。敷物も樫材の家具も壁を飾る綴れ織りも立派なものだ。
わたしはその室でレオンハルトを愛称ではじめて呼んだ。ヘタイラ・スヴェトラーナから素敵な贈り物が届いたのだ。水晶を列ねた飾りだった。窓にかけておくと、光を集めた水晶が虹色をたくさん室の中に反射させる。
その贈り物にはもう一つの意味もあった。この飾りは、赤子のいる室によく吊るされているのだ。赤子の眼は室内に満ちる虹の光を飽きずに追う。つまり暗に、懐妊や安産を祈願するお守りでもあるのだ。男の人はまったく知らないことだろうけれど。
わたしは椅子を持ってきて、窓枠の飾り彫りに紐を通し、新しい室の窓辺にその水晶を吊るした。水晶が光を吸い込む。小さな虹がすぐに室内にたくさん飛び散った。回転して揺れる水晶に合わせながら壁や天井に虹が耀く。虹の雪が降っている。灰色の雪よりもこちらの方がずっといい。
金環党は捕まった。あわやというところで領民を救ったわたしの評判はいよいよ高くなり、城の家臣たちはまだ若いわたしに尊敬の眼を向ける。
怪我から恢復した侍女ミオラは城を辞した。引き止めたのだが、金環党に在籍していたことが知られた以上は、そんなわけにはまいりませんと固辞された。わたしは城に来てから初めて声を上げて泣いた。自室に篭り、キリアンのことも含めて今更のように堰を切って大泣きをした。ミオラはわたしに良くしてくれた。頼りにしていたから別れるのが辛かった。
親しいものは全て遠くへ去ってしまった。
口角を少し上げると、微笑みになる。だんだんと作り笑いが上達する。わたしが少しでも暗い顔をしているとレオンハルトとチェザーレが二人同時に魔女の気を引き立てようと焦り始めるから、常に泰然と構えて微笑んでおく癖がついた。いかにも奥方みたいじゃない?
「お倖せに」
祝辞を述べに訪れたバシリウス・フォン・ザヴィエンは目敏くそんなわたしに気が付いて、「いつもの笑顔のほうが可愛いですよ」と耳打ちしていった。
「レオン、とても綺麗です」
水晶を窓に吊るしたわたしは大歓びしてレオンハルトの許に飛んでいき、室内に耀く虹を彼に指し示した。晴れた日の冬の森のようだ。真昼の星座のようだ。倖せに満ちた美しい光だった。煌めくこの光に見守られて、わたしたちはこの城でこれから新しい日々を過ごすのだ。
レオンハルトはわたしの頬に手を添えた。一瞬だけ迷い、そしてわたしのおでこに従兄のような口づけをした。ちょっとだけ。
[貴方のもとに嫁ぐとき・完]
貴方のもとに嫁ぐとき 朝吹 @asabuki
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