中篇

 

 豪華絢爛とまではいかないが、趣味のよいテュリンゲンの城の大広間で開かれたその夜の宴、果物と氷菓子が出てくる頃には、頭がぼうっとして、何度もまぶたを意志の力でこじ開けなければならなかった。

 眠い。

 何しろ連日睡眠不足だった上に、今朝は夜明け前から起こされた。星を見ながら風呂に入り、時間をかけて念入りに支度をしたのだ。

 養父母の家では狭くて不便だというので、半月前からわたしは地元の領主の屋敷に居を移し、礼儀作法の総仕上げをしながら嫁ぐ日までそちらに滞在していた。いよいよ当日となった今朝とても、早朝から髪を巻き、爪を磨き、ドレスに身を包んで宝飾を身に着け、伯爵家に嫁ぐ花嫁として余念なく仕上げられていた。装身具はすべて婚家が用意して地方領主の屋敷に届けてくれたものだ。

「さすがはテュリンゲン伯爵家。素晴らしい品々です」

 田舎屋敷の者たちは感嘆と賛辞を惜しまなかったが、衣裳も宝石も、わたしにとっては気が重たくなるだけだった。

 朝露を朝日が水晶のように照らす頃、テュリンゲン家の空中馬車が護衛の魔法使いを引き連れて迎えにやって来た。

 真新しい白亜の車体に金の紋章。

「こちらは女人用の馬車です。クリスティアナさま専用の馬車として新調したものになります。内装がお気に召すとよいのですが」

 わたし付きの侍女になるミオラとシシーの二人がわたしを馬車の中に導いた。二人の魔女もわたしと一緒に田舎屋敷に泊まって、わたしの面倒をみていたのだ。

「どんな方」

「領主さまですか」

「そう。どんな方」

 餞別の花束を膝の上において、その下でわたしは扇を握り締めていた。空中馬車に乗り込んだわたしは侍女のミオラに訊いた。ついに訊いた。今までなるべく御相手のことは考えないようにしていたのだ。十八歳も年上のおじさんなんかに興味もなければ期待もない。憂鬱になるので、詳しく知りたいとも想わない。

「真面目な方です。温厚で」

 ミオラはすらりと応えた。

 聴いていた話とは違う。

 テュリンゲン家の当代領主は、気が触れているともっぱらの噂なのだ。若くして最愛の妻を亡くしたことが衝撃となって、心と頭がおかしくなってしまい、奥方が没後ここ十年、奇行が目立つと。

 カルムシュタットの領主は悪い魔法使い、黒金くろがねの魔法使いではないのか。

 そんな噂までまことしとやかに流れていた。伯爵は魔都にも滅多なことでは姿を見せないし、領地に籠っている。あれは凶悪な黒い本性を隠しているのではないのか。

 噂が消えたかに見えても、いつの間にかまた何処からかその風評は邑に広まった。大人たちはわたしへの配慮から口を閉ざしていたが、遠慮のない子どもたちの間ではすっかり、「ティアナは狂人に嫁ぐのだ」ということになっていた。

「それは噂ですわ」

 しっかりした声音でミオラは否定した。

「悪い黒金の魔法使いはすでに退治されております。領主さまが黒金の魔法使いだなんて、そのようなことがあろうはずはありません」

 侍女ミオラはわたしよりも六つ年上の魔女で目立たないが美人だ。控えめながらも万事につけて目端がきいて口も堅く、父親は本家ザヴィエン家の家来だ。この一年、ミオラは邑にやって来てはドレスの仮縫いから始まって何かとわたしと顔を合わせてきた。寡黙なシシー共々、信頼できそうな魔女だ。

 わたしは窓の外に眼を向けた。

 箒に乗った魔法使いたちが鳥の群れのように飛んでいる。揃いの礼装を身に着けた護衛の魔法使いたちに並んで、領主の息子チェザーレが箒で馬車の近くに並走している。馬車を囲んでいる護衛たちを見るともなしに見ていたわたしは、護衛の中に知った顔を見つけて愕いた。

 キリアン。

「どうされました、クリスティアナさま」

 侍女のシシーが窓枠にすがりついたわたしの様子に声を掛けたが、わたしは聴いてはいなかった。護衛の中にキリアンがいる。どうして。

 箒に跨ったキリアンはわたしが見ていることに気がつくと、片目を瞑って馬車の中のわたしに合図を寄越した。その顔が笑っている。

 後で訊くと、キリアンは伝手を駆使して、テュリンゲン家への奉公をずっと前から段取りしていたそうだ。そういえば、わたしがテュリンゲン家に嫁ぐことが決まったあたりから時々キリアンの姿が邑から消えていた。そんなことが可能にるなんて、キリアンが『さるやんごとなき御方』の落とし胤という説は本当なのかもしれない。

 とても活発な男の子なのに、どうかすると酷く体調が悪くなるキリアンのことがわたしはいつも心配だった。これからの城仕えで、悪化しないといいけれど。



 たくさんの箒に曳かれた空中馬車はようやくテュリンゲン家の城の空中庭園に降り立った。城門もあるにはあるが、ほとんどの魔法使いは箒か空中馬車に乗って空から入城する。下の門から入る客人はほぼいない。

 お仕着せを着た従僕たちが並んでおり、馬車の扉が外から開かれた。二人の侍女は先に降りて、わたしの手を引いて馬車から降ろしてくれた。

 涼しい風が吹いた。ザヴィエン家が治めるシャテル・シャリオン領の青い湖面を渡って森から届く清浄な風だ。発着場になっている空中庭園の視界の隅では御曹司チェザーレがさっと降り立ち、箒を手にして、反対側の塔に消えていった。

「領主さまがお見えになります」

 心臓が鼓動をうった。ついに。

 その魔法使いはわたしに向かって歩いて来た。ミオラとシシーがわたしの傍から身をひく。

 十八歳年上なので邑で見かけるおじさんたちの姿を想い浮べていたが、現れたのは姿のすっきりした、どこか哀愁の漂う、姿が若いまま年を重ねたような魔法使いだった。蒼と銀を基調にした正装を身にまとっている。若人が好む色だが、来る途中で見た湖のような深いものを隠したその色が、その人の様子にはよく似合っていた。

「ようこそ」

 まるで遊びに来た客を迎えるような淡泊な調子で、領主は作法どおり、片腕を少しわたしに向けて差し出した。わたしはその腕の肘のあたりに軽く手をかけた。

「はじめまして。クリスティアナ・トレモイユです」

 すでに歩き始めていた。順番としてはおかしいが、いそいでわたしは名乗った。領主もそうした。並んで歩いているのでお互いに横顔しか見えない。そしてどちらも、横顔すら見ようとはしなかった。前を向いたままわたしたちは言葉を交わした。

「レオンハルト・フォン・テュリンゲンです」

「よろしくお願い申し上げます。レオンハルトさま」

「遠かったね」

 辺境の田舎からここまでの距離のことを訊かれているのだ。焦り気味にわたしは頷いた。

「はい」

 それからは特に話すことも想い浮かばず、領主レオンハルトとわたしは、無言で、城の中に通じる塔の螺旋階段を降りた。後で知ったがこの城は、先祖が双子だったこともあって、築城当初から本家のザヴィエン家の城を模して建てられたものなのだそうだ。どうりで外観がそっくりだ。

 やがて長い回廊を歩いている時に、隣りにいるレオンハルト伯爵が小さな声で何かを呟いた。

 わたしはちらりと横にいるその人を見上げた。貴族という言葉が実によく似あう端麗な横顔。本流のザヴィエン家は美形の家系で有名だから、分岐したテュリンゲン家もそうなのだ。

 これからわたしの夫となる魔法使いは、わたしに向けてか、それとも独り言なのかこう云った。

 こんなことになるなんて。 

 レオンハルト・フォン・テュリンゲン伯爵。それがわたしの十八歳年上の夫となる、カルムシュタット領主、レオンハルトだった。



》後篇

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