Ⅱ.後篇

 

 雪が降っている。

 色がついている。灰色の雪だ。

 わたしは泣いていた。身体中が痛くて泣いていた。どんな高熱を出した時でも、こんなに苦しくはなかった。

 灰死病。

 その名称は、遺品を焼いた灰が魔界の版図全土に雪のように降り積もっていたことに由来する。魔法使いの数を三分の二にまで減らしてしまった凄まじい死病は、約四年のあいだ、魔法界で猛威をふるった。


 ほら、高い高い。

 クリスティアナ。箒で空を飛ぶよ。


 父母が死んだ。幼いわたしは表に出て行って、街中に降っているその灰を浴びていた。降りしきる薄影の中には時折、火のついた何かの切れ端も混じっていた。病人が触れたものも焼いているのだ。灰色一色の世界の中、燃えさしは火の蝶のように風に舞っていた。

 空中馬車が大急ぎで空を行き過ぎる。別荘に避難する貴族たちだ。魔都はいまや死の都になっていた。

「来てはいけない。クリスティアナ」

 母が死に、次に父が死んだ。死に目には逢えなかった。父は一室に閉じこもり、わたしを近づけようとはしなかった。

 父さま。

 父さま、出て来て。

 あらあらクリスティアナ。お父さまは具合が悪いのよ。下の室でお母さまと一緒に遊んで、お父さまが恢復するのを待ちましょうね。

 背後から母がそう云って現れてくれるのを廊下でわたしは待っていた。母は父より先に死んでいたが、それを理解することがわたしには出来なかった。

 灰死病で死んだ者はお別れをする暇もなく迅速に共同墓地に運ばれて、穴に投げ込まれてしまうのだ。

 やがて父も死んだ。

 父と母は何処に行ってしまったのだろう。

 この灰をたくさん浴びれば、わたしも父と母の許に行けるのだろうと想った。降り積もる灰色の雪はあたたかく、やわらかく、怖ろしいものではなかった。

 疫病を防ぐ鳥の仮面をつけた魔法使いたちが上空を箒で飛んでいる。

 連れて行って。

 幼いわたしは石橋の上から天に手を伸ばした。

「クリスティアナ」

「クリスティアナさま。お気づかれましたか」

 侍女のミオラとレオンハルトの声だ。

「胃の腑を洗浄しました。あとは解毒の薬で体内から毒を完全に出します」

 今のは医者の声だ。

 わたしはどうしたのだろう。おいしい食事を食べていた。料理人が腕をふるう城の食事は余さず食べた。連日美味しい食事を頂いていたが、客人が来た時はさらに素晴らしい献立になっていて、美しい盛り付けにも昨晩は眼が釘づけになっていた。

 不作法に見られてはいけない。

 気を付けてはいたものの、昨夜の城の客人バシリウス・フォン・ザヴィエンの眼にはお見通しだったとみえて、微笑みながら、

「美味しそうに食べますね」

 小さな子に云うようなことを彼から云われてしまったほどだ。

 それから。

 それからどうなったのだろう。

 途中で何だか気分が悪くなったのだ。急激に。城の大広間を照らす燭台の灯りがすべて連なって見えてきて、上体がぐらりと傾いた。吐くと想った。

 ここで粗相をしてはいけない。

 失礼しようと、口許に布巾をあてて、饗宴の席から立とうとした。そのあたりで燃えるように胸が痛くなり、視界が閉じ、痙攣をおこしていた。

「クリスティアナ嬢」

 後で聴くと、バシリウスがわたしの様子にいち早く気づいていたそうだ。彼の行動は迅速だった。

「レオンハルト、クリスティアナ嬢の様子がおかしい」

 すぐにレオンハルトとチェザーレも席を離れて、床に倒れたわたしの許に駈け寄った。

「小塔へ」

 そこから一番近い塔の客室へと、わたしは運ばれた。

 すぐに医師が呼ばれ、胃を洗浄した。意識はあったがよく覚えていない。何度も吐いた。

 嘔吐に疲れ果ててぐにゃぐにゃになり、寝台に横になっているわたしの耳許で、或る果物の種子のことが医師の口から語られていた。一定量を食べると死に至るのだ。

 固い種子を果肉ごとそのまま食べる者はいない。通常、毒殺にはその種子を粉末にしたものが用いられる。晩餐の席でわたしの飲食したものの中に、その果物の種子の粉末が混入していたようなのだ。


 毒性の強い種子をもつその果物は、許可がないと栽培できない。しかも市場には流通していない。食材を仕入れる者と仕入れ先がまず最初に疑われた。次に料理人と給仕をしていた者たちが怪しまれた。ところが彼らは全員、親の代から長年城に仕えている気心の知れた者たちで、誰ひとりとして疑わしい者がいない。


 犯人の動機としては、わたしがテュリンゲン家の奥方になることを気に喰わなく想い、排除しようとしたことがまず考えられる。そんな者がいるのだろうか。

「いるとしたら、黒金の魔法使いだ」

「黒金の天敵である白銀の魔法使いを産む魔女を殺してしまえばいいわけだからな。しかし直近に出現した黒金の魔法使いは、十年前に駆逐済だ」

 チェザーレとキリアンは早速、犯人捜しに乗り出していた。

 侍女のミオラは困った顔をして云った。

「下働きの魔法使いのあいだでも犯人捜しが流行っていて、いい加減な噂が飛び交っております」

「名指しで噂を流している者が怪しいと想うの」

 邑の仲間の間でもいつもそうだった。

「お菓子がなくなった時も、まっさきに誰それが怪しいと云い出す子がたいてい犯人だったわ」

「そうですね」

 侍女のミオラとシシーはわたしの髪型に苦心していた。毒のせいなのか疲労のせいなのか、一時的にわたしの髪は多めに抜けてしまい、なるべく負担がかからないように結わえないと、ぱらぱらと抜け落ちてしまうのだ。

「そのようなことはどうでもよい。無理に結わなくてもよい」

 髪型についてはレオンハルトから指示が飛んできた。そんなわけで、わたしは子どものように長い髪を背中に流したまま、室を訪れる男客とも対面することになった。

「まだ正式にはご結婚されていませんからね」

 髪結いの苦労から解放されたミオラとシシーもほっと肩を撫でおろしていた。

 バシリウス・フォン・ザヴィエンが病室に見舞いに現れたのは七日後のことだ。バシリウスは一度、森の向こうのザヴィエン家の城に戻り、わたしを見舞うためにテュリンゲンの城をあらためて訪問していた。

「お加減はいかがですか、クリスティアナ嬢」

「もうすっかり。あまり憶えてはいませんが、あの折にはバシリウスさまにも見苦しいところをお見せしてしまいました。被害がわたしだけで済み、バシリウスさまがご無事で何よりでした」

「ご立派な挨拶です。領主夫人として必要なことです。田舎の邑で習われたのでしょうか」

 わたしの教育については、いずれは爵位ある家に嫁ぐのだからと養父母が張り切った結果だ。

「真似事です」

「それで十分です」

 微笑むと、バシリウスは「失礼」と断って、わたしの手を取った。

「毒は爪に出てくることがあるが、大丈夫のようですね。手当が早かった」

「果物のうちの、急性中毒を引き起こす種子の粉末を摂取したそうです。飲み物か料理に混入したのではないかとお医者さまが」

 バシリウスは声を潜めた。

「犯人の心当たりはありますか」

「分かりません。わたしは考えなくてもよいと、レオンハルトさまから云われております」

「レオンハルトのことは昔から知っています。わたしの兄とも恃む方だ。彼はひじょうに心配して、貴女に付きっ切りでしたよ」

 そうなのだ。領主自ら、看病してくれたのだ。

「それはそうだろう」

 バシリウスと入れ違いに見舞いに来たチェザーレは頷いた。チェザーレはキリアンを連れていた。あの日以来逢っていなかった二人は、わたしのやつれようにまず愕いた。キリアンなど、庭園から摘んで来た見舞いの花束を放り出して寝台に駈け寄ってきたほどだ。

「大丈夫かティアナ」

「もう平気。お医者さまの保証つき」

「厭々嫁に来た若い魔女が来て早々のうちに毒殺までされたら、どれだけ寝覚めが悪いんだ。父上としても不憫でならなかったのだろう。本当に君に付きっ切りだったぞ」

「レオンハルトさまにはご心配をおかけしたわ」

 しみじみとわたしは云った。

 クリスティアナ。

 名を呼び掛けながら、祈るようにして傍にいた。

 そこへ、毒見の終わった食事が運ばれてきた。数日の間は絶食に近かったが、少しずつ普通の食事に近づけていくそうだ。

「あんなことがあった後で、よく食べる気になるな」

「美味しいのよ、この城の食事」

 それもそのはず、テュリンゲン家の料理長は、皇帝の日々の食事や宴に饗膳を供する王宮の厨房で修行を積んでいたことがあるそうだ。

 わたしは深皿によそわれた滋養あるスープを口にした。薄味の流動食なのに、本当に美味しい。

 


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