Ⅱ.中篇
城に来るまでの空中馬車の中で、侍女ミオラは領主についての悪い噂をはっきりと否定した。城に来てみれば領主は慕われており、悪いことを云う者もいない。わたしの眼にもレオンハルトの言動には奇矯なところはなく正常だ。
それでは、邑でしきりに聴いていたあの噂は何だったのだろう。
寝転んで空を仰いでいると、視界の端に箒が現れた。森の上を飛び過ぎる。やがて箒は引き返してきて、泉の傍に転がっているわたしの頭上にゆるやかに戻って来た。
チェザーレかキリアンかと想ったが違った。あの二人は素早く飛びながらも、あちこちに興味を惹かれて箒の先が動いているからすぐに分かる。
箒に乗った魔法使いは丁寧な様子でわたしに話し掛けてきた。
「ごきげんよう。お嬢さん」
青年魔法使いの登場に慌ててわたしは飛び起きた。
「この辺りでは見かけたことがないお嬢さん。お名まえは」
「知らない方には名乗れません」
「これは失礼」
箒から降りてきた青年魔法使いは、丁重にわたしに向かってお辞儀をした。魔法使いは名乗った。
「バシリウス・フォン・ザヴィエンです」
ザヴィエン。
ザヴィエンとは森の向こうのあの本家のことだ。死に絶えたはずのザヴィエン家の若い魔法使い。
「本家の方ですか」
「そうです。それを訊ねるということは、やはり貴女は、レオンハルトに嫁がれるクリスティアナ・トレモイユ嬢」
名まで知られている。わたしは居ずまいを直した。構いつけずに草花の上に直接倒れていたのでドレスも皺だらけだ。外套をまとった青年魔法使いはそのすっきりとした様子がレオンハルトにそっくりだった。
「ザヴィエン家に、魔法使いはもういないと聴いておりました」
「半分は正しいです」
その青年魔法使い、バシリウス・フォン・ザヴィエンはひっそりと微笑んだ。寂しそうな笑みだった。
「わたしは白銀の魔法使いではないのです」
ああ、そういうこと。
ザヴィエン家には、偉大な魔法使い、
「ザヴィエン家には現在、後継者の幼児がいます」
「存じ上げています」
「白銀の魔法使いであるその子の
「そうでしたの」
「レオンハルトとは昔から兄弟のように親しくさせてもらっています。わたしが白銀の魔法使いでさえあれば、貴女のことはわたしに下さるつもりだったようです」
「つまり」
「そう。つまり、そういうこともあったのかも知れません」
そうなのだ。そういえば、ザヴィエン家にはわたしよりも七歳年上の魔法使いがいて、その方が白銀の魔法使いであれば良かったのだがと、時々、強欲な養父母が話していた。「あちらの方が本家だし何しろザヴィエン家は選帝侯だ。皇帝を選べる諸侯だ。嫁ぎ先があちらであれば、どれほどの栄誉に我が家も授かるか」
わたしは泉の傍に投げ出していた箒を手に持った。
「勝手に城を出て来たのです。戻らないと心配されます。バシリウスさまも今からテュリンゲンのお城に?」
「そうです。招待を受けています」
「では」
ご一緒に。そう云われるのをわたしは待った。年下の魔女の方からは云えない言葉だからだ。
少し待ってもバシリウスは誘って来なかった。あらぬ誤解をされないように見送るつもりのようだ。何事にも慎重な性格がうかがえた。わたしは箒に跨り、宙に浮いた。
「ではまた後で。バシリウスさま失礼します」
淑女らしく振舞ったつもりだったが、わたしは彼の前で子どものように普通に箒に跨ってしまった。貴族の奥方になる以上は、箒の横乗りも出来なければいけない。邑では横乗りの練習もしていた。今こそその練習の成果を披露する時だったのに、うっかりしていた。
横乗りでなくとも出来るだけ優美に映るように気を遣いながら、わたしは森の上に出た。
城に向かっていると、「あ、ティアナ」と近くを旋回していたキリアンの箒がすっ飛んで来てわたしに並んだ。
「探したぞ」
「何か用、キリアン」
「今から町に行かないか」
「町」
「今日は少し大きめの市が立つ日だそうだ」
行きたい。行きたいが、一度城に戻ってからの方がいいだろう。
迷っていると、箒の先に買い物籠をぶら下げて城に戻る途中のミオラとシシーの二人に行きあった。わたしは二人に伝えた。
「キリアンがいるから護衛がなくても大丈夫よ」
ミオラは難色を示したが、挙式までは窮屈を強いず、出来るだけ花嫁を自由にしておくようにとレオンハルトから云われているらしい。
ちょうど気晴らしがしたかったのだ。方向転換したわたしはキリアンと箒を並べて一緒に近くの町まで飛んで行った。
邑に暮らしていた時も、市の立つ日はいつも気分が浮き立った。城からいちばん近い町は育った邑の何十倍もの人がいた。
「お祭りの日のようね、キリアン」
鉱山を抱えた金回りのいい領内の町だ。ちょうど街道の交点にあたることもあって、次々と人が流入している。
屋台には眼移りするほど、たくさんの軽食が売られていた。
テュリンゲンの城の食事は料理人の腕がいいのか毎食とても美味しいのだが、所詮は田舎育ちのわたし、塩をふっただけの焼き肉でも十分いただける。
ところがカルムシュタット領の町の屋台ときたら、こちらも安くて美味しいものだらけだった。
あっちへふらふら、こっちへふらふら、キリアンとわたしは匂いに惹かれるままに屋台から屋台へと食べ歩いて行った。お金はキリアンが持っていた。
あまり食べると夜が苦しくなる。わたしとキリアンは選びに選んで、半分こして、少しずつ食べることにした。
口にするもの全てが美味しい。
「お嬢さん、こちらをどうぞ」
わたしのことなどまだ誰も知らない。領主の妻になる魔女だなんて誰も気づかない。晴れ着を着て男友だちと町に遊びに来たどこかの娘としか人の眼には映っていない。差し出された麺麭をわたしは受け取って口に入れた。噛み応えがある。
「穀物と果実をふんだんに入れているのさ」
さらに近くの屋台からは、これまた変わった飲料を渡された。どろりとしており、柑橘類の濃い味がして、魔法で冷えていて美味しい。これ一杯でお腹が膨れてしまう。
他にもいろんな店が出ていた。
近くにこんな賑やかな町があるのなら、今後も退屈はしなさそうだ。鉱山ではたらく若い労働者が来るせいか、活力のある町だ。「日が暮れる前に」とキリアンに促されて帰城することにした。わたしの初めての市場探訪は食べ歩きで終わった。
帰り道、箒で飛びながらわたしはキリアンに訊いた。
「邑にいる頃、キリアンはさるやんごとなき御方の子どもだという噂だったけど、あれは本当なの」
貴族の城に仕えるにはそれなりの後見人や伝手がいるのだ。
「それはお前のほうだろ、ティアナ」
キリアンは云い返してきた。
「子どもの頃から何度も魔都から役人がお前を訪ねて来たじゃないか。特別な血を持っている娘だから大切にお育てするようにと、お前の家の養父母にも金袋が届けられていたじゃないか」
「わたしのことじゃなくて、あなたのことよ。キリアンはわたしと同じ頃に邑に来たわ。そして親戚の子だと云って、邑のおじさんとおばさんが育てていたわ。わたしだって見たことがあるのよ」
「なにを」
「空中馬車が、時々、キリアンを迎えに来ていたことを。キリアンはそれに乗って行ってしまって、その日は遊べないの。最初は病気のことでお医者さまの許に通っているのかと想ったけれど、立派な馬車が迎えに来るのだから違うわ」
「ああ、あれか」
キリアンは笑い出した。
「そうだな。俺の実の両親の片方は、それなりの身分だったかもしれないな」
「やっぱり」
「事情があるんだよ。よくあることさ。お前ほどの『特別』じゃない」
肝心なところは話を逸らされた気がする。もう一つ訊きたいことがあった。
「キリアンはわたしのために、テュリンゲンのお城に来てくれたの?」
ところが応えは聴くことが出来なかった。キリアンが箒の上で、はげしく咳き込み始めたからだ。
「キリアン」
「いつものだ。大丈夫」
子どもの頃からキリアンは、どうかするとこうなる。普段は健康なのに、一度具合が悪くなると顔色が土気色に変わり、発作や息切れを引き起こす。邑の近くの医者も原因不明だと云って匙を投げた。
「屋台で食べたものが悪かったのかしら」
「その時はお前も無事ではいられないだろ」
咳の合間から途切れ途切れにキリアンは応えた。苦しそうだ。
「キリアン。少し休憩しましょう」
見ているほうが怖くなる。
「キリアン」
「大丈夫だって」
心の病が原因かもしれないと、医者はそう云ったそうだ。こんなに元気な男の子なのに心が患うほどの深い悩みでもあるのだろうか。キリアンのことは昔から知っている。どんな遊びでも率先してやるような威勢のいい魔法使いだ。
「お城の雑用はお休みにしてもらってね。わたしからチェザーレに云っておくから」
「よせよ。ほら、収まってきた」
咳は少し落ち着いてきていた。
「キリアン、城のお医者さまに診てもらって」
「もう診てもらったし、薬も、もらってる」
箒の柄に伏せていた上体を起こして、キリアンは深呼吸をした。
その夜のことだ。
「クリスティアナ」
「クリスティアナ嬢」
バシリウス・フォン・ザヴィエン侯爵を客人に迎えた晩餐会で、わたしは痙攣をおこして激しく身を震わせ、呼吸が止まって食事の席から崩れ落ちた。
》後篇
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