第一幕 悪姫、脅迫されること
第一幕①
「ほら、
小さな庭に、明るく柔らかな声が響く。名を呼ばれた白い犬――
全身で喜びを表現している愛犬を抱き締めて、彼女は頰を染め、花が綻ぶように笑う。
令嬢の黒く長い髪を、桃の
――けれど、そのまま留め置くことはできない。
様子を見守っていた
「お嬢様。そろそろ、お時間にございます」
「あら、そうなのね。わかりました」
残念そうに応じると、彼女は蘭々を地面に下ろした。
「ごめんなさい、蘭々。今度はもっとたくさん遊びましょうね」
寂しげに鼻を鳴らす蘭々に後ろ髪を引かれつつ、令嬢は
「すぐに準備をしますと、お母様に伝えて」
「かしこまりました」
深く一礼し、側仕えは先に庭を去った。続いて令嬢は居室に上がり、化粧台を開く。
最初に手に取ったのは練り
着替えた衣服の意匠は、どことなく
最後に長い黒髪を
「お役目の時間ね」
***
大陸を支配する大国、
暖かな春の訪れを祝すために、家々の軒先には桃の花を模した飾りが
令花は、この景色が心の底から大好きだ。だからこそわざと窓を開け、自分や、傍らに座る母の姿が往来から見えるようにしながら、街を馬車でゆっくりと巡っている。
背筋を伸ばして泰然と、そして表情を崩さぬようにしながら視線を街並みに向けていると、人々の
「あの馬車、もしかして……!」
「ああ、
令花の生まれた家、つまり胡家の馬車は特別製だ。祭の場におよそふさわしくない漆黒の車体に白銀色に塗られた屋根、さらにその屋根の上には有翼の虎の姿をした架空の怪物・
民衆は令花たちが通っていくのを知った途端に目を見開き、姿勢を正し、嵐が過ぎ去るのを待つかのように、頭を垂れてじっと息を潜める。
すべては胡家、すなわち高級官吏の一族にして『夏輪国の
令花は今日も黒と赤に染まった衣に身を包み、唇を薄く上向きに歪めている。真っ白な肌には一切の血色がなく、まるで生気というものが感じられない。赤い化粧に縁どられた
馬車が通り過ぎると、胡令花に
「気に食わない人間は、老人だろうが幼子だろうが片っ端から獄舎送りにするらしいぞ」
「苦しみに
「まさに
――春風に
彼らの会話を聞いて、令花の笑みは濃くなるばかりだ。
そして馬車の後ろ姿を見送りながら、人々は顔を青くしてさらに囁き合っている。
「聞いたか、去年の冬……
「その太守、税金をちょろまかして私腹を肥やしていたって
「本当でも
「白も黒にし、黒はさらに黒くってね。汚いやり口で相手を
皆の言葉のすべてを、自分の耳は拾ってしまう。とはいえ、令花の面持ちはなおも変わらない。――胸を痛める? そんなはずもない。むしろ、計画通りに事が運んでいるので安心しているくらいだ。
そう考えていた時、令花はふと気づく。窓の向こう、視界の奥からこちらに向かって、一人の幼い少女が駆けてくる。頭に桃色の髪飾りをつけ、手には桃花を模した紙の造花の入った籠を持った彼女は、満面の笑みを浮かべていた。
その姿を見た令花の母が、陰鬱な声で御者に命ずる。
「車を止めなさい」
応じて御者が馬車を止めると、少女は窓に向かってにこやかに口を開いた。
「こんにちは! お花を……」
どうぞ、と言いたかったのだろう。桃花祭にはこのように、造花を作って道行く人に配るという風習がある。相手と自身の健康長寿を願う、温かな心の籠った習わしだ。
けれど身を伸ばして窓の中に造花を差し入れた少女は、次いでひっ、と息を
そして胡令花は――『胡家の悪姫』は、決して桃花を受け取ったりしない。
見下すような視線を少女に向け、令花は短く告げた。
「
低くしゃがれた声音での一言を受け、恐怖にかられた少女の双眸に涙が浮かぶ。瞬間、彼女の母親らしき人物が飛び出してきて、頭を垂れつつ娘を抱き締め、下がらせた。
「もっ、も、申し訳ありません! どうか、お
だが
民衆たちはただ慄然としながら、それを見送るばかりであった。
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