第二幕③
***
「ようこそおいでくださいました、胡令花様」
たどり着いた東宮にて、案内してくれたのは
言わずと知れた『胡家の悪姫』に相対しても、あからさまな動揺を見せていないのはさすがである。とはいえ彼の指先が小刻みに震えているのを、令花は見過ごさなかった。
(『悪姫』の名は、禁城の中にまで届いているのね)
これは、生半可な演技は許されない。立派な悪女たるべく、より丁寧な芝居をしなくては――と、令花は内心で気合を入れた。
一方、もちろん『悪姫』は挨拶をされたからといって気安く返事などしない。
冷淡に押し黙っているこちらの姿をどう捉えたのだろうか、陳はぶるりと身震いすると、さっさと渡り廊下の先へ進むことにしたようだ。
恐怖心を紛らわせようとしているのか、彼はぺらぺらと
「こ、これよりあなた様は、畏れ多くも皇太子殿下の太子妃候補となられます。ついては殿下が太子妃をお選びになるまで、東宮にてお過ごしいただくこととなりますが……」
東宮は、皇太子の
一角といっても、広大な禁城の中の、であるから相当な広さだ。
今は令花を含め、太子妃候補は五名しかいないようだが、仮に伯蓮がたくさんの妃嬪を集めたとしても、充分賄えるほどの場所である。
「一度東宮に入られましたら、殿下の許可なくして外に出ることは許されません。たとえ肉親であろうとも、この場にお呼び出しいただくことは
とそこまで言った後、陳は勝手にびくりと震えてからこう付け加えた。
「その……東宮に仕える者たちは、皇帝陛下の
(しませんとも、もちろん)
気に食わない人間を投獄だの
彼は気まずそうにごくりと喉を鳴らして押し黙り、まるで絡繰り人形のようにぎくしゃくと、先へと歩を進めるだけになってしまった。
一方で令花はといえば、はたと気づく。
――要するにこれから、まったく知らない場所で、まったく知らない人たちとの生活が始まるのだ。それを思うと、胸の奥からほんのわずかに、不安が湧き上がってくる。
(家族のみんなと離れて過ごすなんて、これまでほとんどなかったのに……)
けれど廊下の先、奥の間の扉の前に来た瞬間、
この扉が開いたその時、胡令花の新しい舞台が始まるのだ。
胸に押し迫る興奮は、演劇の幕が開く直前の期待感にも似ていた。しかし今日この日、令花は観客ではない。皆の前で演者として立つのは、他ならぬ自分なのだから。
(よし、行きましょう)
「開けよ」
短く冷淡に、しゃがれた声で『悪姫』は命令する。老宦官は速やかに言葉に従った。
重厚な装飾の施された朱塗りの扉が、音も立てずに動く。その先の空間――
天井と壁は『皇太子の色』とされる鮮やかな黄で塗られており、奥の壁は取り払われて、美しい中庭がよく眺められるようになっている。
置かれている椅子などの調度品の類も、一目でわかるほどに高級なものばかりだ。
そして漆黒の大理石で作られたと
さらにその奥にて、ひときわ
「よく来たな、胡令花」
伯蓮は、厳かな声音でそう告げた。桃園で話していた時とは打って変わって、態度も所作も皇太子らしい気品に満ちている。まさに
とはいえ
けれどそれに対してこちらが何か思うよりも早く、伯蓮は皇太子としての威厳ある態度で、傍らの女性たちを手で示した。
「お前と同じ太子妃候補だ。彼女らは、お前より一足先に到着したんだが……」
互いに自己紹介を終えた頃合いで、もう一人の太子妃候補として、あの『胡家の悪姫』がやって来ると知った彼女らは、自然とこの体勢になってしまったのだそうだ。
「お前たちは同じ立場でいわば同格なのだから、椅子に座って待てばいいと言い聞かせたのに、床でこうして待つと言って聞かなくてな」
「お、畏れながら」
困り顔で語る伯蓮に対し、恐る恐るか細い声を発したのは、令花から見て右から二番目に並ぶ女性だ。
漆黒の床の上に流れてなお黒く長い髪が、宝玉のように輝いている。
「胡家の姫君にご挨拶するならば、伏して相対するは必然かと存じます」
「ははは、そうか?」
からからと快活に笑う伯蓮の様子は、伏している彼女たちからすれば、さぞ頼もしく思えることだろう。『悪姫』にまるで屈していないのだから。
「だが、お前たちもいつまでも冷たい床の上では
ちらと、伯蓮はこちらに目配せした。
『悪姫』はそれに応じるでもなく、ただ女性たちの頭部に視線を送っている。端から見れば、どの首を最初に落とそうか品定めしているようにしか見えないはずだ。
現に、脇に控えている陳は声にならない悲鳴をあげていた。
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