第二幕⑤
(ここは、このくらいでいいかしら)
『悪姫』として求められる働きは、充分できたはずだ。そう判断して、令花は伯蓮へと
「では、挨拶はこれまで……」
「ああ、構わない」
腕組みした伯蓮は、不敵に目を細めて言った。
「今夜は、後ほどここに来る
問いかけのようでいて、いかにも断言するように語る伯蓮に対し、紅玉たちが
きっと彼女らからすれば、皇太子のこの言葉は、自分たちから『悪姫』を遠ざけようとするものに聞こえたはずである。
一方で令花は、言外の伯蓮の意図を察した。
つまり彼は、こう言いたいのだろう――『悪姫』と入れ替わりに、いよいよ弟役をやってもらう。ついてはこの辺りで退出して、男装をして待機していろ、と。
(承知いたしました)
心の中ではそう返事しつつ、あくまでも『悪姫』として、令花は語る。
「なんと冷たいお言葉。しかし仰せの通り、私は騒がしい場所は好みませんので」
わざとらしく眉を
「弟君には、よろしくお伝えくださいませ。私は部屋に下がらせていただきます」
それと――と告げながら、おもむろに令花は後ろを見やった。そこには乗ってきた馬車からここまで運ばれてきた荷物の一部が積まれている。
「こちらは我が家より、殿下への贈り物です。どうぞ、お受け取りいただきますよう」
「お前を我が東宮にねじ込むだけでなく、献上品まで用意するとは」
伯蓮は腕組みし、貴人としての
「殊勝なことだ。だが、何もかもお前たちの望む通りになるとは思うなよ」
「さて、なんのことやら」
さも恭しくお辞儀をしながら、令花は内心、伯蓮の言葉にちょっと驚いていた。
――『胡家の悪姫』が東宮に入る表向きの理由は、「胡家の悪辣な野心」。すなわち、自分たちのさらなる勢力拡大を狙った胡家が、太子妃候補が立てられるのをこれ幸いと、手練手管を駆使して『悪姫』を東宮に送り込んだのだということになっている。
それは伯蓮も知るところなのだが――それにしても。
(即興だというのに、かなりの演技力をお持ちなのですね!)
隠そうとすればするほど、秘密は明らかになっていくもの。同じく自然にしようと努めれば努めるほど、芝居はいかにも芝居っぽくなってしまうものなのだ。
そこをここまで違和感なく、こちらの演技に合わせてくれるだなんて――
(やはりこの演目は、殿下との共演。なんとしても成功に導かないと!)
改めてそう決心しつつ、令花はしずしずと太子妃候補としての部屋、というより、離れの邸宅といったほうがよいほどの広さがある建物へと移るのだった。
その後の流れは、下知を受けた時から準備していた通りだ。
これから始まるのは、太子妃候補と弟役との二重生活。素の令花の状態を見られてはならないというのはもちろん、『悪姫』と弟が同一人物だと発覚してしまってはならない。
そこで令花は、一計を案じた。
すなわち五日前から、東宮の
『胡家は自らの娘を東宮に送り込んだだけでなく、娘の世話をさせるために、侍女たちを宮女として潜り込ませた。一歩も外へ出ずとも、娘が何不自由なく暮らせるようにと
つまり『悪姫』の世話は胡家から潜り込んだ人々がやるから、東宮付きの宮女たちは近寄らないほうがいい、という噂である。
そして有名無実な悪評を流すことなど、胡家の者にとっては朝飯前。何人もの人間が口に出せば、どんな
ゆえに今、令花のいる建物――東宮で過ごす高位の女性たちのためにある五つの邸宅「
もちろんこんな妙な噂が東宮で流れているのを、父たち胡家の人間が把握していないはずもない。
けれど胡家の常として、たとえ家族間であろうと、自らが負った密命の詳細については互いに明かさないという決まりがある。
そして胡家の人々は、令花を信頼してくれている。だからこそ、令花はこの任務を全力で遂行するだけだ。
(……よし)
人払いできたのを改めて確認し、さらに馬車から運び込まれた大量の荷物――東宮の人々は『悪姫』が赤殿に籠って暮らすために持ち込んだ食料や生活必需品と考えているが、実際には演技に使う衣装や小道具類である――を確認してから、令花は化粧を落とす。
あどけない本来の顔立ちを取り戻したら、荷物の一部を
胸の膨らみを抑えるように
髪も子どもらしく、頭の上で一つのお団子のような形になるように
そうして鏡に映るのは、もはや『胡家の悪姫』ではない。
――狙い通りだ。素顔のままで演技をするのは初めてだし、それで本当にお役に立てるのか、不安な気持ちはあるけれど。
恐れが湧き起こりそうになるが、無理やり振り払い、弟としての
「僕は、伯蓮様の弟」
素の声からほんの少し低めれば、変声期前の子どもらしい声音になる。
――そう、問題ない。台詞を口にした瞬間から、令花本人としての気持ちは意識の外へと追いやられていく。
(さて……「兄上」は、なんて言ってくださるのかしら)
鏡に映る自分を見つめながら、期待感を胸に、令花は微笑んだ。
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