第二幕⑥



 ***



 そして数刻後――日が西の空に傾き始めた頃。


「おいっ、なんだよこれは!」


 扉が閉まる音の後、聞こえてきたのは伯蓮の声。

 何やら立腹というか、困惑というか、そんな態度でまっすぐに令花の居室へやって来た彼は――令花の姿が目に入るなり、全身の動きをぴたりと止めた。

 そうぼうを大きく見開き、そのまま彼の唇は一つの名を呼ぶ。


「…… おん

「久遠?」


 思わず首をかしげて問い返してしまう。

 すると伯蓮ははっとした後、ひらひらと左手を振ってみせた。


「あ、ああ、いやほら、弟役としての名前だよ。事前に考えておいたんだ、必要だろ? いやまったく、期待以上の変装だったから驚いたぜ。その点は褒めてやるよ」

「ありがとうございます」


 胸に軽く手を置いた令花は、桃園の時と同様に声だけは普段と同じ調子で頭を垂れた。


(こんなにも驚いていただけるなんて、望外の喜びだわ!)


 それにしては、やけに驚きすぎだったような気もするが、今は説明が肝心だろう。


「読んだ書物に登場した人物などを参考にしつつ、貧しい人々の着るような衣装を整えてまいりました。それからこの五日間、朝夕の食事を抜いております」

「は?」


 こちらの言葉に、伯蓮がぎょっとした顔をしている。


「なぜ食事を……」

「もちろん、ご希望に沿うためです」


 令花はにこりと微笑んだ。


「ご令弟は病弱で、しかも母上を亡くし貧しい暮らしを強いられていたという設定でしたね。そうなると三食きちんと食べられる生活はきっと難しかったでしょうし、であれば、あまりにも健康的な容姿では不自然です」


 準備期間が五日と短かったので、まだ完全に納得できる精度の体重までには落とし込めていない。

 しかしやつれた貧相な体格になりすぎては、今度は「皇太子の弟」という、身から滲にじみ出る気品が求められる役どころに相応ふさわしくない外見になってしまう。


「ですので、個人的に妥協できる範囲に落とし込んできました」

「お、落とし込んできた、って」


 眉を顰めた伯蓮が、ぼそぼそとつぶやく声が聞こえてくる。


「俺は別にそこまでやれとは…… 身体からだは大丈夫なんだろうな」

「はい、問題ございません。ご心配痛み入ります」

「なっ……ふん、ずいぶんと耳がいいようだな」


 どういうわけか、伯蓮は気分を害したように首を横に振った。

 それからはたと何かに気づいたような面持ちになり、ずっと右手に持っていたものをこちらに見えるように突きつけてくる。


「じゃなくてだな。なんだよこれは、と言っている!」

「それは……」


 絹布の包みがはらりと解けると、中から分厚い紙の束が現れた。


「今後東宮で弟役を演じるうえでの、台本にございます。できるだけ早くご確認いただいたほうがよろしいかと、献上品に紛れ込ませておいたのですが」

「理屈はわかる。だが、兄弟の台詞のやり取りが五十通りとはどういうことだ!」


 ――どういうことだ、というのだから、つまりは理由を尋ねられているのだろう。

 そう判断して、令花は正直に語った。


「生まれてから今まで地位も環境も違う場所で育ってきた兄弟が、いよいよ手を取り合って新生活を始めるとなれば、相応の説得力が必要です。ですので、いただいた基本情報の範囲で想定される『病弱でけなな弟君』の言動と、それに対する殿下とのやり取りを、可能な限り作成してから参じたのですが……申し訳ありません、少なかったでしょうか」


 令花は眉を曇らせた。正直なところ、東宮に来るまでの馬車で欠伸あくびが出そうになってしまった原因はこの台本作りである。

 今までの『悪姫』であれば長年の経験もあって即興でなんとかなるのだけれど、新しい役となれば話は別――ということで、念には念を入れてきたつもりだ。


(慢心はよくないわ。油断こそが身をほろぼすと、お父様もよくおっしゃっていたもの)


「至らぬ点があれば、ご指摘ください。また設定を詰めましたら、各所の見直しとやり取りの追加を行いますので」

「いや。至らぬ点というか、だな」


 紙の束をばさりと近場の机に置き、伯蓮は顔を引きらせている。


「誰がここまでやれと言った」

「えっ」


 戸惑いの声をあげるのは、今度は令花だ。


「恐れながら、『適当にやれ』と仰せになったのは殿下では……?」

「なんだと!」


 一瞬、伯蓮は何か言いたげに口を開いた。だが手を額にやって軽く頭を振ると、やがて気を取り直したように言う。


「まあ……お前にやる気があるのは結構だし、ボロが出れば困るのは俺も同じだからな」

「感謝いたします。私も粉骨砕身、努力いたします」

「これ以上はしなくていい。思っていた以上にお前が変なやつだというのはよくわかった」


 ふんと鼻を鳴らしてから、伯蓮は続けて語った。


「ひとまずうたげでの挨拶は、この台本の通りでよしとしよう。後は弟についての設定を詰める必要があるが、まず俺とはうんで出会ったということで……」

「いえ、それでは矛盾するかと」


 殿下相手であろうときっぱりと――そう、それはひとえに演技への情熱からいて出た言葉だったのだが――令花は切り捨てる。


「首都たる輝雲に住まう民は、どれほど貧しい者であっても、悲惨と言えるほどの暮らしはしていないはずです。また無料の救貧院もありますから、いくら病弱といえど、殿下がお心を砕いて引き取りを決意されるほどの生活にはならないかと」

「……そうか」


 きまりの悪そうな顔になり、伯蓮は言う。


「なら、ええと…… しんたん州の街ならどうだ。あそこになら俺も実際に足を運んだことがあるし、つじつまが合う」

「ふむ」


 自然と鋭い面持ちになりつつ、令花は応えた。


「信胆州ならば、方言で話す必要が出てきますね。私も信胆方言を習ってはいますが」

「な、習う? 胡家でやったのか」

「はい、五歳の頃に」


 というより、伯蓮が習っていない様子なのが意外だった。

 令花の認識では、ちょっと教育に厳しい家庭ならどこでも、いざという時に地方に潜伏できるよう方言を習ったり、不審者をつけ回す時のために足音を消して歩くすべを学んだりするものだと思っていたのだが。


(あれはもしや、我が家独特の文化というか風習だったのかしら。たとえ悪をちゅうする悪の家でなかったとしても、覚えておけば演技だけでなく、日常生活にも役立つ知識だと思っていたけれど……)


 そこまで考えて、令花は思い直した。虎がきつねの狩りの方法をたりしないのと同様、いずれ皇帝になる方には、そんな小手先の技を覚える必要などあるはずがない。

 己の不明を内心で恥じつつ、令花は告げた。


「申し訳ありませんが、私の信胆方言の精度では、いざという時に問題が起こる恐れがあります。せんえつながら、じんとう州の寒村出身という設定ではいかがでしょう? あそこならば輝雲とそう違わない言葉が話されておりますし、昨今の不漁から、貧しい暮らしを余儀なくされる方々も多いと聞きます」


 十数年前まで、皇帝陛下が何度も視察に訪れた場所だというのも確認済みだ。


「……」


 なぜかこちらから目をらしつつ、伯蓮は首肯した。

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