第一幕③


 桃花祭が終わった、その翌日。

 令花は、自室で書を読んでいた。むろん、これは修練の一環だ。『胡家の悪姫』たる者、任務もないのに軽々しく家の外に出るわけにはいかない。しかし様々な知識を日々身に蓄えていないことには、いざという時に適切な演技ができない。

 そういうわけで、読書は令花にとって貴重な情報収集の手段だった。普段はほとんどの時間を、こうして過ごしている。歴史書を読むこともあるけれど、今日読んでいるのは、いわゆる物語文学――しゅりゅうんの一種だった。

 自分の高貴な出自を知らず、平民として貧しい暮らしを強いられていた少年皇子が、ある日突然禁城に呼び出されて己の運命を知り、国のために立ち上がる物語。

 読み進める物語の中で、皇子は震える声をあげている。


「僕は皇帝陛下の息子。だから僕が、なんとかしなくちゃ」


 視線に合わせて、ごく小さくではあるが、令花は台詞せりふを読み上げた。


(……いえ、もっと息は入れずに言ったほうがいい。皇子はなんとか声を絞り出しているようだもの、はっきりと語ってしまったら状況に合わないわ。そして表情は……)


「令花お嬢様」


 かけられた声に、はっと振り返る。たたずんでいるのは、そばづかえの老人だった。


「お父上様がお呼びです。可及的速やかに、奥の間に来るようにと」

「まあ……!」


 令花が驚くのも無理はない。邸宅の一番奥にある窓すらない部屋、通称・陰謀部屋への呼び出しは、他の誰にも漏らしてはならない重要な任務の存在を意味するからだ。


(お祭りが終わったばかりだというのに、いったいどうしたのかしら。何か悪い出来事でなければいいけれど……)


 胸騒ぎを覚えつつも、令花はひとまず、自分自身としての素の姿で奥の間へ向かう。

 扉を開けると、既に父はいた。側仕えも含めて人払いされた部屋にしつらえられた、応接用の椅子に腰かけた彼の瞳は冷たく、すべてを突き放すように険しい。

 ――それはいつものことだが、今日はさらに、怨敵をめ上げる邪悪の権化のごとき面持ちをしている。


(お父様が、難しいお顔をなさっている……。やっぱり、何かあったのね)


 いよいよ悪い予感を覚えつつ、令花は父に一礼する。


「お待たせしました。どうなさいましたか?」

「令花」


 表情を変えぬまま、父は重々しい声を発した。そのまま彼は最低限の動きで、眼前にある低い机の上を指す。机の上に置かれた、一通の手紙を。


「読め。お前へ……否、『悪姫』へのご下知を受けた。悪をちゅうする悪としての、我が一族の力を借りたいとの仰せだ」


 その言葉に、心臓がどきりと跳ね上がったように感じる。


「悪を誅する悪として、ということは」


 胡家の正体を知る人々からの命令、つまりは――皇帝陛下からのご命令?

 そう考えると、いても立ってもいられない。促されるままに、令花は父の向かい側の椅子に腰かけると、手紙を開いて視線を走らせる。

 そこには皇家からの命令を示す印章と共に、このような文章がつづられていた。


『胡令花へ、御料とうえんへの出頭を命ず。本日、ひつじの刻。 孫はくれん


(えっ……!)


 思わず、令花は短く息をむ。まさか、皇太子殿下からのご命令だとは。

 孫伯蓮の名を知らぬ者は、この夏輪国にそうはいない。四年前に第一皇子が落馬事故で亡くなった後、新たに立太子されたのが、当時まだ十六歳だった第八皇子・伯蓮だった。


(お会いしたことはないけれど、話はお父様たちから伺っている。王者の気風と品格を持ち、ゆうに優れ、まるでまばゆい陽光のように美しい方なのだとか)


 皇子が数多あまたいる中で、八番目の生まれでありながら立太子されたのも、すべてその抜きん出た才覚と、優れた人品骨柄によるものなのだと聞く。

 そんな皇太子殿下が、まさか『悪姫』にご用だとは!


「いったい、どのようなご命令なのでしょうか」

「密命という点の他は、私も知り得ていない」


 短く告げた後、「しかし」と父は、いつにも増して険しい面持ちで続けた。


「近頃、殿下の周辺はにわかに慌ただしい。……今上陛下がご高齢であるのは、お前も知っているだろう」

「はい、お父様」


 以前聞いた話を思い出しながら、令花は答える。


「今上陛下は壮健でいらっしゃるけれども、宮廷では万が一の事態に備え、皇太子殿下に一刻も早く太子妃を迎えて身をお固めいただくべきだという意見が出ているとか」

「うむ」


 父は闇夜にうなる獣のような声であいづちを打ってから、語る。


「複数の廷臣たちが太子妃の候補として四人の女性を推挙し、近日中にも、殿下がお住まいの東宮に送り込む予定だ。その状況下でのお呼び出しとあらば」


 まっすぐにこちらを見据えて、父は続けた。


「殿下は、お前を太子妃の候補にとお考えなのかもしれぬ」

「わ、私を!?」


 思ってもみなかった展開に、つい声が上ずってしまった。それを聞いてどう思ったのか、父は眉間にしわを深く深く刻んだ。


「……嫌か?」

「いいえ、とんでもない!」


 心からの笑顔で、令花は答える。


「胡家の者として、殿下のお役に立てるというのなら、何よりの栄誉です。『胡家の悪姫』の力をお望みなら、私は存分に演じるのみですわ」


 もし皇太子殿下の後宮、すなわち東宮に入るのだとすれば、つまりは未来の皇帝陛下の後宮に入るも同じである。


(後宮とは、ちょうあいを巡り女性たちの陰謀や怨念が渦巻く恐ろしい場所だと聞くけれど……私は『胡家の悪姫』として、どんな悪を演じればいいのかしら!)


 後宮における悪を誅するための悪として、他の悪女たちをすべて威圧するような、より一層すさまじい悪玉の役回りをせよというご命令かもしれない。


(いよいよ私も胡家の一員として、皇家のお役に立てる時が来たのね……)


 考えるだけで、胸が高鳴って仕方がない。一方で父は、睨み上げるような(つまり顔色をうかがうような)表情で問うてくる。


「……念のために聞くが……本当に嫌ではないか?」

「ええ、お父様。私の場合、嫁ぐのが遅すぎたくらいでしょうし……まして東宮ならば、願ってもない素晴らしいお話かと存じます」


 父の問いかけの理由がよくわからないまま、正直に令花は答えた。


「……そうか」


 沼から顔を出した大なまずのような嘆息の後、気を取り直した様子で父は言う。


「太子妃候補にという話は、あくまで我らの憶測に過ぎぬ。殿下のお考えは計り知れないが、お前が呼び出しを受けたのは、皇家の方々のために造られた桃園だ」


 完璧な人払いが可能で、かつ聞き耳を立てる者が身を隠せない、皇家専用の場所――どうやら伯蓮からの命令は、なんにせよ相当に重要なもの。

 しかも指定された未の刻まで、あとわずかだ。これはのんびりしていられない。


「務めを果たせ」


 鋭く言い放たれた父の言葉に、浮かれていた気分を引き締めて、令花は強くうなずく。


「かしこまりました、速やかに出立の準備をいたします」


 陰謀部屋を出て、自室に戻ると、さっそく役柄に入るための支度を始めた。

 肌を白くし、目元を赤く鋭く整え、黒と赤で彩られた華美な衣装を身にまとう。

 長い黒髪は、側仕えたちの手を借りてれいに結い上げ、整えた。ちょうと舞い散る花弁を模した銀製のかんざしをつけたら、『胡家の悪姫』の外見は完成だ。


(後は……)


 改めて、令花は鏡台の前に腰かけた。

 そして鏡をじっとのぞいたまま、唇の両端に、右手の親指と人差し指を軽く添える。それから指の幅を広げつつ、口角をにいっとり上げた。


「これより私は、『胡家の悪姫』」


 声音も低く、恐ろしく、しゃがれたものに変化させる。

 悪姫を演じる時のお決まりの行動だ。役に入るための儀式とでも言おうか。これで自分自身、つまり本来の胡令花の意識は頭の片隅へと押しやられ、『悪姫』として振る舞えるようになる。


(悪を誅する悪なれば、いかなる役でもご随意に演じてみせましょう)


 殿下はいったい、何をお命じになるのだろう。楽しみだ、とても。


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