第一幕④
***
「……ご機嫌麗しゅうございます、殿下」
まるで桃源郷に漂う
春風が緩やかに、薄桃色の花弁を舞い散らせている。その花吹雪の中の皇太子・伯蓮は、やはり
薄茶色の髪を纏めずに肩までそのまま流し、衣の襟元をゆったりと開け、男性が使うにはやや派手な金色の耳飾りをつけた
頭の片隅で素早くそんな判断をしつつ、令花は『悪姫』として次の言葉を発した。
「胡令花、御前に
すると向こうで、伯蓮がわずかに
「よく来たな、胡家の令嬢。お前に下知がある」
その言葉だけで、空気が自然と張り詰める。
けれど令花は用意していた
「尊い方の仰せなれば、なんなりと」
それを受けて伯蓮は、こう命じる。
「胡令花。我が
(えっ)
我知らず声が漏れそうになるのを、なんとか押し
そう、『胡家の悪姫』はこういう場面で、決して驚きを表にしない。ただの令花としての意識は、頭の片隅にあるだけなのだから。
幼い頃から重ねてきた演技の経験によって、令花は、見事に動揺を隠しおおせた。けれどもやはり、頭の中ではこう問い返してしまう。
(今、なんて……? お、弟?)
妃はわかる、予想通りだ。でも殿下の弟とは、いったい――?
疑問を胸に、令花は『悪姫』として、厳かに口を開く。
「畏れながら、殿下」
「なんだ、申せ」
予期していたのか、伯蓮は軽い調子で促す。そこで令花は、はっきりと問いかけた。
「ご覧の通り、私は女でございます。妃になるはこの上なき栄誉なれど、ご令弟になれとはいかなる……」
「うん? 見込み違いだったか」
伯蓮はさらに明るい声音と共に、地面を軽く蹴って立ち上がった。足音に気づいた令花が少し顔を上げた時、見えたのは、数歩前にまで近づいてきた伯蓮の姿。
ぐっと腰を曲げて見下ろしてくる彼の表情は、面白い出し物でも眺めているようににやついていた。
(……どうなさったのかしら、殿下?)
相手の真意が
「お前、俺の問いかけに『なんなりと』と答えたよな。ならば女の身だろうがなんだろうが、下知に従うのが筋じゃないのか。それに、
その言葉に、わずかに『悪姫』の口の端が引き
胡家が真の悪ではないというのを、皇太子たる伯蓮が知っているのは道理。そして胡家そのものが、元より悪を「演じている」と言えるのだから――
(殿下はそういう意味で
『胡家の悪姫』たる令花が、演技をやめて化粧を落とせば同年代の女子よりもあどけなく、
(殿下が、私の真の姿をご存じであるはずはない)
と、『悪姫』は取り澄ました顔にいつもの微笑みを浮かべる。しかし次いで伯蓮が告げたのは、衝撃の一言だった。
「ああ、まさかお前、俺が知らないと思っているのか? お前の正体は『悪姫』とは真逆の、素朴で
かっ、と令花の目が見開いた。
――なぜ、殿下がそれを知っている? 皇帝陛下ですら知らないような事実を。
(誰かが秘密を漏らした? いえ、胡家に限ってそれはあり得ない。情報が漏れたとしても、そのこと自体がお父様たちの耳に入らないはずがない……)
思いもよらぬ事態に、令花は内心で冷や汗を流した。
「……滅相もございません」
もう一度深く頭を垂れたまま、『悪姫』はへりくだる。
「どうか、ご
「まあ、それはわかっているさ。俺だってお前の父上には、子どもの頃から世話になっている。むやみに秘密をばらして、悲しませるような
なおもにやにやと、伯蓮は語った。
「だがお前が、役どころを選ぶというなら話は別だ。これだけ普段、見事に悪女の役を演じているのなら……俺の弟となるくらい、簡単にやってのけると思ったんだがな」
「しかし」
「なあ、別にその演技は解いて
伯蓮は、
「いつもはもっと、高くて明るい感じの声だろう? 声変わり前の子どもの役をやってほしいんだ。喉が枯れたら一大事じゃないか」
どうやら殿下は、こちらの素の声を聞いたことすらあるようだ。
それに、ご用命には深い理由がある様子。ならば――
「……わかりました」
声音を普段のものに切り替えて答えると、伯蓮は大仰に目を輝かせてみせた。
「これは見事な切り替えだな。一流の劇役者でもこうはいかないだろう」
「もったいないお言葉でございます」
懸命に言葉を選びつつ、令花は語る。
「ご気分を害されたなら、大変申し訳ありません。私とて胡家の者、いかなるご命令であろうとも喜んで従います。ですからどうか、『悪姫』が演じられた存在だということは」
「ああ。お前が俺の命じた通りにするのなら、黙っているとも」
「感謝申し上げます」
しっかと令花は頭を垂れ、改めて、ご下知の内容を
「では、これより私は殿下の妃となり、殿下の……」
弟になる。
――今までに演じたことのない役柄。しかも皇太子殿下の弟役だ。事情はよくわからないままだけれど、
(そんな役を殿下は……この私に、演じろと?)
思った瞬間、ようやく気づく。
――どうして戸惑ってばかりいたんだろう。これこそ、願ってもない好機なのに!
(『悪姫』だけではない、まったく知らない別の自分になれば、今よりももっと大きな役回りを演じられる。しかもそれが殿下の役に……ひいては夏輪国のためになるのでは!?)
そうだ、今日この日こそが││胡令花の新しい『演目』の幕開けだ!
途端に胸中の暗雲が晴れ、代わりに胸を
脅しから始まった演目――けれどこれは殿下との秘密の共謀、いや共演でもある。
ならば必ず、果たしてみせなくては。それこそが、胡家たる者の務めなのだから!
激情のままに、令花は告げた。
「それが私のお役目ならば、いかようにも演じてご覧に入れましょう!」
あまりに
(声量の調節ができないなんて、まだまだ未熟だわ)
反省する令花は、伯蓮が漏らした「うおっ」という驚きに気づかないのであった。
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