第一幕②



   ***



 馬車は進み、街の一角へと近づく。祭の最中であっても、この周辺は不気味なほど人がいない――胡家の邸宅が近いからだ。

 閑散とした様子を確かめた令花の母は、傍らに座る娘に、そっと声をかけた。


「お疲れ様でしたね、令花」


 母の面持ちは、先ほどまでと同じくひどく陰鬱だ。とはいえこれは別に、彼女がこの世を恨んでいるからなどではなく、元々こういう顔つきの人なのである。当然だがそれを承知している令花は、『悪姫』としてではなく、胡令花としての、、、、、、、素の表情で応えた。


「いいえ、お母様こそ」


 その声は、つまり令花の素の声音は、高く柔らかだ。


「長い時間馬車に揺られて、お疲れが出ていませんか? 今年の桃花祭も、本当におおにぎわいで驚きました」

「私の心配は無用ですよ。あなたこそ、今日もしっかり励んでいましたね」


 獲物に向かって大口を開ける蛇のような表情で、母は言った。要するに、わかりづらいが笑みを浮かべている。


「世にはばかる『悪』として振る舞うすべは、一朝一夕に身につくものではありません。ましてあなたのように外見からすべてを変えて演じるなど、並大抵のことではないのですから……日々の努力が実っているのですね」

「ありがとうございます、お母様」


 胸に軽く手を当てて、令花はほほんだ。その笑顔は先ほどまでのぎゃく的なものとは打って変わって明るく、愛犬の蘭々と戯れていた時と同様に、どこか可憐な印象を与える。


「『悪をちゅうする悪』たる胡家に生まれた者として、己のなすべきことは理解しているつもりです。何より私、演じるのが大好きですから!」


 今、そばには母しかいない。だから屈託のない本心を、堂々と令花は口にした。

 娘の返答に、母はうなずく。続けて車窓の外を通り過ぎていく桃の木に咲いた美しい花々に目をやりながら、静かに言った。


「先ほどの幼子も……きっと、道行く人に桃花を渡すのを楽しんでいたのでしょうが。祭の場にはろうぜき者も多いもの、誰かれ構わず不用意に声をかければ危険にもつながります。あの一件で、きっとそれが身に染みてわかったはずです」

「もしそうなら、私もうれしいです。それに、走っている馬車に近づくのだって危険ですもの。お母様が止めてくださってよかったわ」

「その点は、きっと後であの子のご母堂が言い聞かせてくれたことでしょう」


 母はそう言って、娘と穏やかに笑いあった。

 それは胡家の内にいる人々にとっては当たり前の日常であり、胡家の外にいる人々にとっては、想像すらできないような光景である。



 ――胡家の宿命の始まりは、夏輪国の成立と同時にあった。


 かつてこの大陸は、いくつもの小国が互いに争う戦火に見舞われていた。そんな中、当時は地方の豪族に過ぎなかったそん家が台頭する。

 孫家は反発しあっていた他の諸族をまとめ上げると、まさに破竹の勢いで周辺諸国を次々に平定し、一つの帝国、すなわち夏輪国を築き上げた。その時に彼らの覇道を忠実に支えたのが、胡家の祖であったという。

 ばらばらの人心を繫ぐ過程は決してへいたんではなく、また穏当なものでもない。時には悪辣なる陰謀、策略、ありとあらゆるこうかつわなが孫家を襲った。

 しかしそのすべてを、胡家の祖は知略で跳ねけてみせた。味方となる者たちの力を結束させるため、あえて自らが絶対的な悪であるかのように振る舞い、かつ主にあだなす真の悪を欺き、暴き立てたのだ。

 彼の功績をたたえて、時の孫家の長はこう言ったとされる。


天晴あっぱれなるかな胡よ、なんじはまことに我が懐刀、我が毒刃。悪を誅する悪たる働きなり」


 以来、胡家は皇家となった孫家を支える一番の忠臣にして『毒刃』として働いている。

 今の胡家の男子が皆、高位の官吏としてなんらかの要職にあるのは、ひとえに先祖の功と皇家からの御恩あってこそ。

 ならば我らは祖と同じく、皇家に忠義を尽くし、悪を誅する悪たるべし。そのための礎を築くこと、ゆめゆめ忘れるなかれ。――すなわち日頃から怠らず己の知恵や技術を磨き、気概と誇りをもって、いついかなる時でも主命を全うするように。

 その教えを、生まれた日から今に至るまでしっかり受けてきた令花もまた、自分たちの

使命をまっとうせんとする胡家の者の一人である。



 もちろん市井の噂は、実態とは大きくかけ離れている。

 胡家は決して悪しき陰謀などたくらんではいないし、皇家からの褒賞目的で善人に罪を着せているわけでも、悪人をつるし上げることによろこびをいだしているわけでもない。

 そして『悪姫』たる令花も、他人を踏みにじるような冷酷ななど、実際にはまったくしていない。

 民草は、胡家が建国以来の長きに亘って自ら流し続けた悪評に惑わされ、胡家の一族の者の手によって悪人が断末魔の悲鳴をあげる様を見て、「ああ、天下に胡家ほどの悪はない」と震えているに過ぎないのだ。


 けれどそれこそが、胡家の狙い。胡家がこの世すべての謀略の祖であるかのように、、、、、君臨し、あたかも悪であるかのように、、、、、街を睥へい睨げいするだけで、善なる民草はおのずと襟を正し、悪人は息を潜める。

 よしんばそれでもなお荒事を企てる者たちがいたとしても、胡家の目から逃れられはしない。謀略には謀略を、罠には罠を。「皇家すら手を焼く処刑人一族」と誹そしりを受けようと、なんら意に介すことはない。そしりを受けることそれ自体が、胡家伝来の秘密が守られている証拠なのだから。


 胡家が悪を誅する悪であると知るのは、胡家の内にある者たちを除けば、当代の皇帝や皇后、皇太子など、ほんのわずかな人々だけ。

 それ以外の大勢にとって、胡家はまるで悪の化身だ。けれどこの構図があるからこそ、建国以来二百年もの間、夏輪国は戦のない平和な国であり続けている。

 皇家という光を際立たせるために、自らを闇と偽る一族。それが胡家なのだ。

 そして令花が『悪姫』を演じる理由も、胡家たる者の宿命にある。



 今日の務めは、祭に乗じて悪事を成そうとする不心得な商人や手配中の盗人ぬすっとを、街から追い立てるためのものだった。令花や母が馬車に乗って街を見物するだけで、悪人たちはそれを「縄張りの監視」と捉えるからだ。

 きっと今頃は父や胡家の皆が組織した掃討部隊が、尻尾を巻いて逃げ出そうとしたならず者たちを、纏めて検挙していることだろう。


(せっかくのお花を受け取れなかったのは、やっぱり、少し残念ではあるけれど……)


 自分の振る舞いが少女のため、ひいては人々のためになったはずだとは思いつつも、ちらりとだけ、そう令花は考えた。

 するとそんな気持ちを知ってか知らずか、こちらの顔をじっと見つめて、母がまた微笑みと共に口を開く。


「そうして黙って座っていると、どちらが本当のあなたなのかわからなくなるほどですよ、令花。近頃のあなたの技のえには、私ですらはっとさせられます」

「そうですか? ならばよかった」


 令花は謙虚に告げた。


「演技に見えないほど、悪姫がお役に立てているというのなら……。素顔のままでは私、お役に立てませんから」


 ついぽろりと漏らした後で、眉を曇らせた母の顔を見て、慌てて首を横に振る。


「な、なんでもありません。つまり、私はまだまだ未熟者だと言いたかったのです。これからもさらに腕を磨き、もっと恐ろしい『悪姫』を演じられるように頑張ります」

「それは楽しみね。あなたの想像力と観察眼は、ご先祖様からの大切な贈り物ですもの」


 微笑みを取り戻した母の表情を見て、内心でほっと息を吐く。

 けれど心中を吐露した瞬間に生まれた、胸のざわめきは消えない。任務を無事に終えたばかりだというのに、喜びや達成感よりも、不安がうっすらと残っているような気がする。その正体に、実際のところ、令花は思い当たるものがあった。

 令花にとって、『胡家の悪姫』は決してお仕着せの役目ではない。自分で考えだし、誇りを感じている大切な役柄だ。演じること自体も大好きだ。それは間違いない。

 でも――胡家の者としてもっと皇家のために、あるいは夏輪国のために何ができるか。

 そう考えると、「頭打ち」という言葉が頭をぎるばかりなのだ。



 令花が『悪姫』となって、早七年。少しでも皇家に貢献すべく、家族がこなす仕事を手伝ってはきたものの、皇家から『悪姫』へ下知があったことはなく、また評価をいただいたこともない。

 もちろん胡家の一族にあっても、皇帝をはじめとした皇家の方々へ直接のお目通りがかなった人間は少ない。禁城に勤める令花の父や、他の家族を含めごくわずかだ。

 だから令花とて、栄誉や名声が欲しいわけではない。確かな答えが欲しいのだ。


 ――『悪姫』の行動は、本当に皇家やこの国の人々のためになっているのか。

 胡家の者として令花がさらに役立つためには、何をすればいいのか。そのためには、『悪姫』という役柄だけでいいのか。もしかして、他にもっとできることがあるのでは――?


 答えを求めても、手に入れようもない。なぜなら自分でもわかるほど、これは欲張りな問いかけだからだ。

 父から依頼を受けて、今日のように任務をこなすだけで、確実にこの国をむしばもうとする悪は討たれていく。そもそも家族は自分を愛してくれているし、『悪姫』の醜聞ゆえに他家への嫁入りがなかなか決まらぬ身ではあっても、窮屈な思いなどしたことはない。

 確かな手応えや別の役柄を求めるなんて、欲深なおもいに過ぎないのだ。

 それはわかっている。わかっているけれど――

 演じている時にはついぞ感じることのない、我に返った時にだけ訪れる漠然とした悩みを抱えたまま、令花は邸宅へと戻るのであった。

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