第二幕⑪
ともあれ令花は久遠として、
「やっぱり可愛い~、久遠くん! お目目がくりくり!」
「さすが皇家の血に連なる方は、幼い頃から泰然としていらっしゃるのですね」
久遠は手を引かれ、椅子を勧められ、あれよあれよという間に太子妃候補たちの輪の中心に据えられてしまう。
彼女たちからは口々に、久遠自身についての事柄だけでなく、伯蓮に関する質問を投げかけられた。伯蓮と出会った時はどんな感じだったのか、二人きりの時の殿下も、今日のように優しいのか、など。
役柄に反しない程度に、久遠は答えを口にした。その度に太子妃候補たちはきゃっきゃと喜んでいる。それを見ると、令花も少しだけ気分が和らいだ。
だが、ふいに銀雲が口を開く。
「それにしても、殿下はこのような時間に、どちらへおいでになったのだろう」
「えっ?」
久遠として、そして令花としての本心も交えて、問いかける。
「薫香殿というお
「ああ、久遠様はご存じないのだな」
銀雲はさらりと、あくまでも冷静に告げた。
「父から聞いた話では、殿下はいつも薫香殿で寝起きなさっていないそうなのだ。どこか他の場所で、大事なご用事をこなしていらっしゃるらしい」
「えーっ、そうなの?」
目を丸くしているのは琥珀だ。
「でも、もう夜遅いのに……いったい、どんなお仕事なんだろう」
(もしや)
令花の脳裏を
『俺は好きな時に好きな場所で、好きなように戯れたり、昼寝をしたり、思うさま酒を楽しんだりする毎日を守りたいんだ』
もしその言葉が正しいのなら、彼は夜な夜な外へ……?
(いえ、まさかそこまで)
内心で首を
「公務の時間は、既に終わっているはず。どのようなお仕事なのかは、私にも……」
「うふふっ。ああら、お仕事とは限らなくってよ」
低く笑いながら、そんなことを言ったのは紅玉だ。その場の全員の視線を集めながら、彼女は続けてこう語った。
「お忘れじゃありませんこと? 私どもと同時に東宮にいらした、かのご令嬢の存在を」
口元を扇で隠して言う紅玉の言葉に、途端に太子妃候補たちは顔色を変えた。
「えっ、それってもしかして胡家の」
「しっ、いけません琥珀殿! みだりに彼女の名を唱えては」
素早く相手の口を塞いだのは、瑞晶だ。
「胡家の別名は『壁の耳』、どこから話が漏れるかわかりませんよ」
「あっ。そ、そうだね!」
琥珀はこくこくと
一方で銀雲は、不審な顔で腕組みをして紅玉に問いかける。
「ふむ? 紅玉殿、それはいかなる意味だろうか。かの姫君は胡家によって東宮にねじ込まれたのだと、殿下も仰せだったと思うが」
「ふふふふ、確かにそうでしたわね」
扇の下で含み笑いした紅玉は、しかし、よく見れば額にうっすらと汗を浮かべていた。
「けれど、虚が実に転じたとしたらどういたします?」
「ど、どういう意味でしょうか……?」
久遠の問いかけに、紅玉は優しい
「殿下は王者たる気品と気迫に満ちた方ですわ。けれどそんな方でも、かの姫君の魔手からは逃れられなかったのでしょう。実は私、たまたま見てしまったんですの。今日の夕方、かの姫の居室からお
打ち合わせの後の姿だ。
まあ、と瑞晶は自分の口に手をやった。
「それは誠ですか、紅玉殿!?」
「わざわざ殿下が、共に時間をお過ごしになっただと。では、まさかっ!」
「あの姫様が、既に殿下のご
(えっ?)
令花は一瞬、耳を疑った。けれども太子妃候補たちは、一斉に目を見合わせている。
そして口々に、思うところを語りはじめた。
「あの姫の部屋からお出でになった時の殿下のご様子は、いつもとお変わりありませんでしたわ。でもなんだか、どことなく楽しげでいらしたような」
「歴史は繰り返す、とは言い得て妙なもの。百年前の禁城でも、胡家の姫君が後宮に入ろうとした事例があったと聞きます。この東宮で同じことがまた……!?」
「くっ、殿下が毒牙にかかってしまうなんて! 徐銀雲、一生の不覚!」
「初日で殿下の寵妃になっちゃうなんて。あの姫様、何をしたの!?」
(ち、違います!)
久遠として当たり障りのない表情(ぽかんとした戸惑い顔)を浮かべつつ、声にならない叫びをあげたのは令花である。
(『胡家の悪姫』は、殿下の寵妃などではありません! というより、たとえお相手が殿下だとしても、誰かの寵妃になるだなんて『胡家の悪姫』の目指すところとは違います!)
何者にも
それが
思っていた以上に怪しい雲行きに、令花は内心で頭を抱えた。
(ど、どうしましょう。殿下にはちゃんと皇太子としての責務に向き合っていただきたいし、けれど……『悪姫』が寵妃になってしまうなんて、絶対に認められない!)
――何もかも、思っていたのと違う!
そう言いたくても言えないので、令花はただ、太子妃候補たちの膨らむ妄想を聞いているだけだった。
「このままだとあの姫様がすぐ太子妃に選ばれて、あたしたちはお払い箱かなぁ」
「いいえ。殿下は
「つまり、恋と皇太子としての責務に挟まれ、苦しまれているってワケですわね」
「だから弟君をあんなに可愛がり、心の均衡を保っておいでだったのか。だがこうしている間にも、またあの令嬢の魔の手が殿下に……!」
(ち、違いますー!)
令花は、ただ心中で否定するだけだった。それ以外は何もできない。
久遠と『悪姫』とは面識もなく、久遠が姫君についてあれこれ口にするのは、役柄に反した行いだからだ。
(どうにかして、『悪姫』についての誤解を解かなくちゃ……!)
そう思っていた。
四日後、絹を裂くような悲鳴が響くまでは。
悪姫の後宮華演 甲斐田 紫乃/富士見L文庫 @lbunko
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