第二幕⑩
「久遠、口の横が汚れているぞ。拭いてやろう」
「あ、ありがとうございます」
(赤ちゃんではないのですから、拭くくらいできますよ……!)
内心ではそう反論しつつも、久遠はされるがままになっていた。
弟の口の周りを丁寧に
既に料理はほとんど平らげられていた。太子妃候補たちも、口々に「満腹です、いろいろな意味で」というようなことを語っている。
(食事の介助だけでなく、身体が冷えないように温かい飲み物を用意してくださったり、膝掛けをくださったり、余興に楽団を呼んでくださったり……殿下が久遠を大切に思っていらっしゃるのは、皆さんに理解してもらえたと思うけれど)
果たして、ここまでやる必要があったのだろうか。
令花が内心で首を傾げるうちに、伯蓮が軽く手を
「さて! 宴もたけなわというところだが、そろそろお開きとしよう。久遠、満足できたか? お
「はい、兄上」
久遠はこくりと頷いた。それを満足そうに見つめてから、伯蓮は言う。
「お前がこれから暮らすのは『
「ありがとうございます」
「よし。遠慮はするなよ」
伯蓮は座る向きを変え、こちらの肩に両手を置いた。
突然の
「え……」
戸惑う久遠。だがその耳元に向かって、伯蓮はこっそりと囁いた。
「今日はご苦労だったな。あの胡令花がたじろぐ姿なんて、珍しい光景を見られたものだ」
(なっ……!?)
すると伯蓮は、例のやや軽薄な、にやにやした笑いを浮かべていた――こちらにしか見えない角度で!
瞬間、はたと気づく。
(も、もしや……殿下が台本にない行動ばかりとっておられたのは)
そのほうが効果的だからでも、やむにやまれぬ事情があるからでもなんでもなく――
(ただ単に、私が驚くところを見たかったからというだけ? つまり私は)
からかわれていたのでは!?
結論に達した瞬間、かっと胸中にこみ上げるものがあった。それが困惑交じりの怒りであるのに令花が気づいた時、伯蓮は既に席を立っていた。
「では皆の者」
伯蓮は朗々と、その場にいる者たちに宣言するように語りかけた。
「これからも久遠のことを、どうかよろしく頼む」
「お任せくださいませ、殿下」
陳が礼儀正しく
伯蓮は穏やかに応え、久遠に優しい
地位が高い人物が最初に退出するのは当然であり――久遠は
しかし令花の心境は、もちろん違う。
(殿下ったら……どういうおつもりなのかしら!)
さすがの令花も、はっきり腹を立てていた。
(私が弟君の役をやっているのは、殿下のご依頼なのに……計画を台無しにしかねないことをするばかりか、その理由が、私がうろたえるところを見たかったからだなんて)
身勝手というだけでなく、無意味だし理解できない行為だ。どうやら伯蓮は、思っていた以上に世評と違う人物だったらしい。
とはいえ、ここで責務を放って逃げ出すわけにもいかない。演じ切ると決めた役柄を放棄してしまうなんて、誰よりも令花自身が認められないのだ。
それに胡家として、皇家からの任務遂行を断念するなどもってのほかである。
となれば、方策は一つ。殿下も
(やると言ったらやってみせます。からかっていられるのも今のうちですよ、殿下!)
心の中でそう宣言しつつ、伯蓮が出て行った扉をじっと
「久遠くん!」
すると背後からかけられたのは、明るく
振り返れば思った通り、琥珀をはじめとした四人の太子妃候補たちが
「ねえ、ええと、久遠くんって呼んでもいいよね? あたしたちも今日、このお城に来たばかりなんだ。よかったら、仲良くしてね」
「また明日になったら、お外で遊びましょう。久遠様が面白いと思われるようなお話も、少しはできるかと存じます」
琥珀と瑞晶だけでなく、さっき『悪姫』として会った時は怒り心頭に発していた紅玉や、険しい顔をしていた銀雲も、にこやかにこちらを見つめていた。
「もし食後の甘味が必要なら、私の部屋から持ってきてさしあげましょうか?」
「健康的な
「か、感謝申し上げます」
(なんていい人たちなのかしら……!)
来たばかりで不安なのは、彼女たちとて同じはずだ。それなのに今、目の前にいる少年を気遣って優しい言葉をかけてくれている。
もちろんそこには、久遠と仲良くすれば、伯蓮の覚えもめでたくなるという打算も含まれているのかもしれない。だがある意味、太子妃候補として当たり前の行動なのだ。
彼女たちは真剣に、この場に向き合っている。だからこそ、太子妃を決めないための企てに加担している事実が、とても後ろめたく思えてしまった。
(この方たちは、太子妃候補という役柄に身を置いてこれからの日々を過ごす。それなのに、殿下はまったく向き合うつもりはない……)
伯蓮は本気で、自分が気楽に生きるために責務から逃げ回るつもりなのだろうか。太子妃候補たちを放っておいて、安楽だけを追い求めるのだろうか。――本当に?
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