第二幕⑨
「あのっ、こちらの席のほうが小さいので、僕が使うものなのかと」
「確かにそうだ。だけど、せっかく
そう言うなり、伯蓮はまたこちらに歩み寄ってきた。膝を折り、目を細めた彼は囁きかけるように告げる。
「隣に座って、一緒に食べよう。そのほうが、きっと楽しいぞ」
「えっ、でも……」
この「でも」はもちろん、久遠としての言葉だ。しかし言外には、令花としての戸惑いも含まれていた。
(隣で一緒に食べたほうが、説得力が増すというお考えなのかしら)
ならば先ほどの打ち合わせの時に、事前に伝えてくれていれば――などと考えたところで、令花は気持ちを切り替える。
(いいえ、どんな劇にも即興はつきもの。殿下がお望みならば、応じなくては)
なおもこちらを優しく見つめている兄上に、久遠はこくんと頷く。
「兄上が、そう
「よし、決まりだな。そら、行くぞ!」
「わわっ、あっ、兄上!?」
久遠が、そして令花が本心から頓狂な声をあげてしまったのも無理はない。
伯蓮が突然、さらに身を屈めたかと思うと、軽々とこちらを抱き上げてみせたからだ。
相手の腕に座らされるような形で持ち上げられているので、痛みなどはもちろんないのだが、それはそれとしてびっくりするし、何よりとても恥ずかしい。
誰かに抱き上げられるなんて――それどころか服の布を隔てた先に、家族ではない誰かの体温をしっかり感じる機会なんて、生まれて初めてだ。
頭のてっぺんまで血が上りそうになる。けれども令花は、なんとかそれを抑え込んだ。ここにいるのはあくまでも兄と弟、大人と子どもだ。
妙にどぎまぎしすぎては、久遠としての反応ではなくなってしまう。
わずかに頰を染める程度に
(ここまでなさるのなら、事前に相談してくださっても……!)
計画にない行動をいくつも唐突にされたら、演技にも支障が出る。もしそのせいで失敗してしまったら、困るのはこちらだけでなく、殿下だって同じはずなのに。
そうは思いつつもひとまず、令花は伯蓮の肩に
それから真意を探りたくて相手の顔を見てみれば、伯蓮としっかり目が合う。
彼の眼差しは、今も優しく温かなもののままに見えるだろう。――距離をとって眺めているならば。
間近で見る伯蓮の目つきは、違った。
彼の細められた目の奥には、先ほどまでとは異なる、
(も、もしや)
久遠は、そして令花は、はたと目を
(殿下は私が焦るとわかったうえで、わざとやっていらっしゃるの?)
――だとしたら、なぜ? 殿下になんの得が? と令花が疑問を浮かべている間に、伯蓮は弟をさっさと、自分と同じ長椅子の隣に運んで座らせていた。
「ほら! こうしたほうがいいだろう」
にこやかに、太子妃候補たちに
「お前は
「はっ、はい……」
久遠は頰をぼんやりと赤く染め、
紅玉たちが「可愛い……」「美しい兄弟愛ですね」などと
宦官や宮女たちも、微笑ましいものを見守るように和やかな雰囲気だ。
(うーん……台本にない演技ばかりなさっては、少し困ってしまうけれど)
久遠としてもじもじ照れながら、頭の片隅で考えた。
(でも、ご好評いただけているのは、殿下の即興劇があったからこそかしら。ならば、きっとこれでよかったはず)
令花は、それで納得しようとした。
だが残念なことに、台本にない伯蓮の溺愛は、止まるところを知らなかったのである。
「久遠、
「え、そ、そんなっ」
隣にぴったりくっつくように座っている伯蓮が、久遠の前に並んだ蒸し蟹料理に、かいがいしく手を伸ばす。相手の袖を少し取るようにしながら、久遠は慌てて言った。
「僕、自分でできます。お気になさらず、兄上はお食事を……」
「何を言っている、遠慮するな」
にこやかに伯蓮は言う。
「こういうのはコツが必要なんだ、お前は知らないだろう? それにお前の指は柔らかいから、ひょっとすると殻で
語る間に、伯蓮は手際よく蟹の殻を剝いてくれた。
「ほら、あーん」
伯蓮は手に持った蟹の脚の身を、そのまま久遠の口元へと運んでみせる。
(えっ、あーんって……!?)
「あ、兄上! 食べ方なら知っています……」
「だから、言っただろう。遠慮するなって」
にこにこと心底楽しそうに応えた後、ふと、伯蓮の笑みが
「家族での食事なんて、久しぶりのはずだ。それにこんな場所に連れてこられて、さぞ心細いだろう……少しでも、心安らかに過ごしてほしいんだ。お前にとっては、お節介かもしれないけれど」
懇願するように放たれたのは、兄としての慈しみに
(お考えは理解できますが……兄弟だからと言って、幼子ならともかく、普通はこのようなことはしないものでは)
しかし太子妃候補たちを横目で見ると、彼女らの視線はこちらに
「殿下は慈しみに溢れた方なのですね……」
「あはは、照れちゃって。久遠くん、かーわいい!」
瑞晶が感嘆したように涙ぐむ横で、琥珀が自分の頰に手をやって笑っている。
温かなこの空間と
(皆さんがこちらを見ている。私が変にたじろいで、不審に思われたら、これまでの計画がすべて無意味になってしまう)
伯蓮の意図はわからない。でも演技の失敗だけは、するべきでないし、したくない。
となれば、なすべきは一つ。覚悟を決めて、久遠は言われるがままに口を開けた。
柔らかな蟹の身は、舌の上でほろほろと
――美味しいはずなのに、なんだか味が薄く感じるのは、緊張のせいだろうか。
(ううっ! 私が、本番で緊張してしまうだなんて)
己の未熟さを突きつけられるような気持ちになるのと同時に、やっぱり
どうして伯蓮は、計画にない言動ばかりするのだろう?
尽きない疑問を抱えたまま、令花は『久遠』としての演技を続けるのだった。
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