第二幕⑧



 ***



 窓の奥に映る西の空が、ぼんやりと黄昏たそがれ色に染まっていく。

 花角殿のそこかしこに置かれたあかりがともされ、けんらんな空間は昼と打って変わって、どこか幻想的な雰囲気に満たされた。

 中央にしつらえられた、まだ何も運ばれていない食卓についているのは紅玉たち、太子妃候補の女性四人である。

 さすがに床に座すのをやめて、今は椅子に腰かけている彼女たちだが、その面持ちは一様に暗い。

 見目麗しい女性がそろいも揃ってこの世の終わりのような表情を浮かべているだなんて、端から見れば葬式会場のように思われるだろう。

 けれど、無理もない話だ。

 彼女たちは全員が美貌、知性や教養、技能などを理由に、様々な出自から厳選され、しょうへいを受けて東宮に参じた身。いずれは太子妃となるやもしれない、という覚悟はしていても、この夏輪国を暗然と支配する闇の一族の令嬢に、初対面で目をつけられるなんて覚悟はしていない。


 一方で、部屋の上座には、ひときわごうしゃな長椅子と食卓が二つずつ用意されている。

 この後は皇太子殿下と、その「ご令弟」とされる謎の人物とのうたげの時間――と知ってはいても、胸中を覆う暗雲が晴れはしなかった。

 なぜこんな不幸に見舞われねばならないのかと、涙をむばかりである。しかし――


「待たせたな」


 かんがんや宮女らがこうべを垂れる中、伯蓮がさっそうと姿を見せた。端整な彼の明るい表情を見て、

わずかでも救われたような気持ちを抱きつつ、紅玉たちは席を立って臣下の礼をとる。

 伯蓮はそれにおうように応えた。

 それから、ふと自分の横――太子妃候補たちからは壁で見えない位置にいる誰かに向かって、口を開く。その面持ちは、これまでに紅玉たちが見た伯蓮のどんな表情よりも、ずっと優しい。


「……ほら。怖がらなくていい、お前もこちらに」


 弱き者を愛おしむような温かい声音に、女性たちは思わずうっとりと聞きれる。

 だが次の瞬間、ひょっこりと姿を見せた存在に、彼女らは一斉に目を奪われた。


「は、はい」


 現れたのは、紅顔の美少年。

 何やらひどく緊張した様子の彼は、一歩踏み入った部屋の内装に目を泳がせている。


「紹介しよう」


 少年の肩に軽く片手を置きつつ、伯蓮は女性たちに告げる。


「これから一緒に暮らすことになった我が弟、孫久遠だ」

「は……はじめましてっ。久遠と申します!」


 年の頃は十二といったところか。簡素な衣服に細身を包み、どこか初々しい可愛らしさを漂わせた久遠は、慣れない手つきで紅玉たちにきょうしゅする。

 彼のおぼつかない動き、高く柔らかな声音、なんといってもあどけない表情ときたら!


 ――か、可愛い……!


 その時、太子妃候補たちの心の声は、一つに重なっていたのだった。



(よかった……! ひとまず、最初はうまく乗り切れたようね)


 ぺこりとお辞儀をした状態を保ったまま、久遠――否、令花は思った。

 太子妃候補たちから向けられている感情は、『悪姫』として受けたものとは真逆である。恐怖ではなく好意、拒絶ではなく興味。まさに、「皇太子殿下の大切な弟」に向けられるべき視線だ。新しい役柄のお披露目は、まずは成功といえるだろう。


(久遠が愛される存在でいなければ、殿下からのご依頼を果たせない。この後も油断せずに励まなくては)


 頭の片隅でそう思いつつ、令花は事前に計画していた通りの演技をしていく。

 ――ここは東宮、今まで暮らしていた村とはまったく別の世界。目の前にはこれまでに夢見たことすらないようなきらびやかな空間と、こちらに関心を向けるたくさんの人々。

 自分は隣に立つ「兄上」の優しい計らいのおかげで、あの村から抜け出して、ここまで来ることができた。だけど、まだ完全に打ち解けられたわけではないし、何より兄上と呼ぶ一言は、発するたびにどこかくすぐったい。

 自分に貴い血が流れているだなんて、思いもしなかった。夢想すらしていなかった運命に翻弄されるように禁城まで連れてこられて、頭が状況に追いついていない。

 混乱、困惑。けれどその最中にあって、頼れる人は伯蓮しかいない。

 ならば失礼のないように、せめてここではきちんとご挨拶しないと――

 ――と、久遠はそう考えるはずだ。だから、令花はそれに即した演技をするのみ。


「さあ、久遠」


 やがて傍らの伯蓮は軽く身をかがめると、なおも優しい声音で言った。


「今日はお前を歓迎するために、この宴の席を用意したんだ。仁頭州からここまで、来るだけでも大変だっただろう?」


 それまで肩に置かれていた手が、ぽんと頭に載せられる。

 顔を上げると、伯蓮のそうぼうがこちらにまっすぐに向けられているのに気づいた。

 その瞳は、心の底からの親愛を示すように穏和な光を宿している。これが演技だとわかっていなかったなら、思わずれてしまってもおかしくないほどに深い愛情の籠ったまなしで、伯蓮は告げた。


「これからは東宮を自分の家だと思って、ゆっくりくつろぐといい。毎日好きなことをして過ごせばいいんだし、今日のごそうだって、好きなものを好きなだけ食べていいんだぞ」


(これは、台本にはない台詞せりふ……!)


 しかし伯蓮が望むのは、まさに溺愛の対象になるような――つまり、その子のためなら皇太子としての地盤固めすら後回しにしても当然といえるような、か弱い弟だ。ならばこのように甘やかした言葉を、伯蓮が堂々と投げかけるのは自然なことである。


「あ、ありがとうございます……」


 久遠はうれしそうにしながらも、やはり恥ずかしさが勝っているように、手をもじもじさせながらうつむいて答えた。

 これが元気で腕白な少年なら、食い意地が張ってもっと大喜びするかもしれないが、久遠はあくまでもけなで病弱で、しかもこの場に慣れていない子どもだ。表立って大喜びはしない。

 伯蓮はほほみで応えた。それから、部屋の中を手で示す。


「さあ、先に座れ」


 これも台本にはなかった台詞だ。なんでも弟のほうを優先するほどに、弟を大切に思っている兄――の役に入り込んでいる伯蓮に対し、令花は素直に敬意を抱いた。

 けれど、相手の勧めにおずおずと応えた久遠が小さなほうの長椅子に歩み寄った時、伯蓮は静かに声を発した。


「違うぞ、久遠。そっちじゃない」

「えっ?」


 令花としての本心もあいまって、久遠はきょとんと首をかしげた。


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