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†
Rewind 2014/10/12
十年前のあの日、わたしが麻樹と再会できたのは、翌日になってからだった。河口湖から旧上九一色村方面に抜けていく道。樹海の中を進むような方で噴火があった。のちにそれが噴火ではなく、あの黒い湖の噴出だとわかるのだけど、にしたって当時はひどい状態だった。
まず電話は通じなかった。麻樹はいつもバイクに乗って出かけると、夕方遅くまで帰ってこないけど。でもその日はそれにしたって遅すぎた。けっきょく百回ほどコールした通話に彼は答えることもなく。わたしは眠れない夜を過ごした。フォレストガンプとニューシネマパラダイスの続きを見て、眠れなくて、また続きを見て、気がついたら夜が明けていた。
連絡がついたのは翌朝の八時くらいのことで、そのころもテレビはどこも特別番組をやっていた。朝から晩まで黒い水が噴き上がった富士山の映像を流していた。ヘリコプターが昼夜を問わず飛び上がり、わたしたちの街の上をバババ、バババと大きな音を鳴らして飛んでいった。
麻樹から電話があったのは、そんな慌ただしい朝のことだった。
「麻樹? ねえ、無事なの? テレビじゃひどい災害だって――」
わたしが開口一番にそう言ったあと、それを遮るようにスピーカーの向こうから声がした。それは麻樹ではなく、女の声だった。
〈真嶋菜帆さんのお電話で間違いないですか?〉
「……そう、ですけど」
事実が受け止められず、わたしは嗚咽のような返事をした。
〈こちらは山梨赤十字病院です。私は看護師の平井と言います。今井麻樹さんに代わってお電話さしあげました。いまから病院には来れますか?〉
「えっと……麻樹は無事なんですか?」
〈今井麻樹さんは無事です〉
麻樹さん"は"
その静かな言い方にわたしは何かを悟った。
「麻樹はって、どういうことですか?」
〈麻樹さんは、意識不明ですが命に別状はありません。しばらく安静にしていれば回復するかと思われます。ただ――〉
「ただ?」
〈原因不明の病に侵されている可能性が高いです。それと、お母様は先日の災害に巻き込まれて……〉
亡くなりました。
そう言われずとも察しがついたし、わたしはすべてに気付いてしまった。
「……分かりました。今から向かいます。何か持って行くものとかって……麻樹、本当に無事なんですか?」
〈大丈夫です。一命は取り留めました〉
よかった。
わたしはそう口から漏らすようにして、電話を切った。そして次の瞬間には、慌てて部屋の中から適当に荷物を見繕って、アパートを飛び出していた。あとになって気付いたんだけど、このとき定期券を忘れていたせいで、馬鹿みたいに高いバス代を請求されたんだ。
*
甲府のバスターミナルで富士山駅行きのバスに乗り、河口湖へ向かった。思えば、わたしの爪が赤くなったり白くなったりし始めたのはこの日からだ。あの黒い湖が色彩を奪いだしたのは、まさにこの日からだったのだから。
バスは酷い混みようだった。災害で道は大渋滞だし、みんな病院に行きたいからバスの中はいつになく混んでいた。警察が路肩で交通整理をしてるけど、それでも追いつかない。みんな何が起きているかも分からずに病院を目指していた。
わたしは奇跡的に椅子に座れたんだけど、隣に座っていたお婆さんが話してくれた。
「あなたも病院に?」
わたしが頷くと、お婆さんは心からお悔やみを申し上げそうな顔をしてた。麻樹は死んでないけど。いや、麻樹のお母さんは亡くなったんだけど。つまり麻樹は天涯孤独になったわけなんだけど。
「何が起きたのか知ってますか?」
「いいえ。私にもサッパリで。でも、友人が河口湖の近くで旅館を営んでいてね。その友人と今朝電話をしたんだけど……」
「その人はなんて?」
「黒い水が噴き上がって、それに触れた途端に『周りの景色から色がなくなった』って。私、あの人もとうとうボケたのかと思っちゃったけど。でも、そうじゃないみたい」
お婆さんはお守りみたいな巾着袋に入ったケータイを見せてくれた。画素数の低い液晶画面が、誰かからの写真を表示する。それはある建物の写真だった。ずいぶん古ぼけた写真だ。白黒で、滲んでいて、戦後の旅館の写真みたいだった。
「これね、その人の旅館の写真」
「いつのですか?」
「今朝」
「へ?」
そういう加工をした? ほら、カメラのフィルターみたいな。いやそんなわけない。こんなヨボヨボなお婆ちゃんがそんなイマドキなことするわけない。メールと電話しかできないようなガラケー使ってるんだぞ?
じゃあ、さっき撮ったばかりの写真だったということだ。
「水の周りはこんな感じらしいの。それから、巻き込まれた何人か水に飲み込まれて、溺れて死んでしまったって。それに、溺れなくても何か廃人みたいになった人がたくさんいるって」
「なんですかそれ。いったいなにが……?」
わたしはそのお婆さんにしつこく聞いたけど、彼女も黙って首を横に振るきりだった。「私にも分からないわ」とそう言いたげに。
だからわたしもそれ以上聞けなくって、ただ二時間もかかるバスの中を黙って眠い頭で、不安なまま待つしかできなかった。
河口湖駅で降りると、わたしは歩きで病院まで向かった。タクシーは長蛇の列で、どうにも動く気配がなかったから。そもそも道もずいぶん混雑していて、運転手曰く「どこまで行けるかわからない」とのこと。だったら自分の脚を信じるしかない。
三〇分くらい歩いたと思う。その最中、わたしはあのお婆さんが言っていたことが真実だと気づき始めていた。指先、赤く塗った爪が徐々に色を失いだす。ドライアイスを指先に近づけられたような、ひんやりとした感覚がする。その感覚は一歩進むごとに強くなり、そのたびに爪の赤色がグレーになったりピンクになったりを繰り返した。明らかに常規を逸したことが起きていた。そうして病院の入り口についたころには、わたしは、目に映るものすべてが色を失っていたことに気付いた。病棟のてっぺんにでかでかと吊された赤十字のロゴマークは、いまや鼠色のバッテンになってるし。救急車がいくらサイレンをまき散らしても、わたしたちにはそれが普通のクルマのヘッドライトと区別ができなくなっていた。
まるでジャームッシュの映画の中にきたような気分で。フィルムで切り取られた一遍のような世界にいた。けれど、病院は何事もなく回っていた。
「面会の方ですか?」
受付で完全防備をした看護師が言った。マスクを二重にして、目元は分厚いゴーグルに覆われていた。
「そうです。えっと、今井麻樹の友人です」
「今井さんですね……あちらの病棟になります。それと、マスクの着用をお願いします。とくに若い方は」
「どうして?」
「わかりません。ですが、若い方を中心に先日の噴火で体調を崩される方が多く。その予防策です」
わたしはそう言われて、渡された分厚い医療用マスクで口を覆った。歩いてきたせいか吐息が荒く、まぶたに向けて何度も熱い息がかかった。
麻樹のいる病棟は三階。本来使われていない場所も無理矢理に災害のために使ってるらしい。その中に押し込まれていた。
本来なら入院患者が押し込まれる六人部屋。そこにいま、十人以上の怪我人が押し込まれている。麻樹はその中にいた。
「麻樹!」
窓際、曇りがかったグレーの日差しに向けて、彼はいつものようにアンニュイな目線を送っていた。でも、それがいつものような世の中を舐め腐って達観したような精神性からじゃなくって、ただ心此処に在らずのためだと気付いたのは、しばらくあとのことだった。
「麻樹、あんたほんとに心配かけてさ。……お母さん、ダメだったって……」
わたしはそこまで言いかけて、麻樹がおかしいことに気付いた。
おかしい。顔つきがいつもと違う。あの黒い目は、いつもわたしやバンドのメンバーの心の奥とか、遠くを見透かしているようなのに。いまはどこも見ていないようで。焦点の定まらない目は、わたしではなく、別の世界を見ているよう。そして彼はときおり何かを聴いて、そのリズムに身を揺らすように顔を揺らした。唇は半開き、歌ってるようなそうでないような感じがする。
「……麻樹、ねえ。返事してよ」
答えない。
何か遠くを見たまま、小さく吐息を漏らすだけ。
わたしは彼のことを強く抱きしめたけど、麻樹がそれに応えることも――抱き締め返すこともなくて。ただそこに呆然と在るだけだった。
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