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2024/10/30
昨日、わたしは新宿の駅前で見ず知らずの男と逢ってきた。見ず知らずというか、アプリ上の偽名と加工された顔写真だけ知っている相手だった。本音を言えば、わたしは誰でも良かったのだ。暇な時間を解決してくれる相手なら、誰でも。
彼は証券会社に勤めていた。顔は日々の激務のせいか頬が痩け落ち、目の下にはアイシャドーのように青黒い隈があった。昔のエモとか、パワーポップバンドのボーカルみたいな感じに。糊の効いたピンストライプのスーツは、彼の虚栄心の現れみたいで。なんていうか、普通の人だなって感じがした。
わたしたちは駅前のタリーズで軽くコーヒーと煙草を吸って、たわいもない話をして。それから、さも初めから決められた契約事項であるかのようにホテルに入った。わたしも拒否したりはしなかった。わたしも初めからそのつもりだったから。
ここ数ヶ月でわたしの経験人数は指数関数的に増え続けていた。彼はその記念すべき二十七人目で、わたしにとってはたわいもない、ろくでもない男の一人だった。
彼らにはまるで一定のルールがあるかのように、わたしに対して言うことがある。
「わかるよ」と「俺ならそんなことしない」の二つだ。
コトが終わったあと、わたしはベッドサイドで煙草を吸いながらいつも身の上話をする。そうすると、心が落ちつくからだ。
「わたし、去年離婚して東京に出てきたの。去年の四月までは片田舎でパートのおばちゃんをしてた」
そう言うと、彼らは決まり切ったように問う。
「どうして離婚したの?」と。
実際、わたしもそう聞かれたくて、身の上話を切り出していたんだと思う。
「さあね。初めはいい人だと思ったんだけど、実際に暮らしてみるとイメージと違ったんだと思う。あの人は、元職場の先輩でね。すごく面倒見が良くて、仕事もデキる人だった。でもさ、それって家庭だとか生活でもそうだとは限らないのよ。ただのDVのクソ男だった。わたしが惚れてたのって上司としての彼であって、オトコとしての彼ではなかったのね。もちろんわたしの落ち度だってある。離婚の原因はたぶんわたしにあるの。でもね、あの人の暴言にはどうしても耐えられなくって。ある日、それでわたしは癇癪を起こしたんだけど、そしたらあの人は逆ギレして、『それなら離婚しろ』って迫ってきてさ。オマケにお腹にいた赤ん坊も『殺せ』と言ってきやがったの。だからわたし、言う通りにしてやった。わたしはぜんぶ投げ捨てて、あの人の前から消えたのよ。それに東京に出たら、自由を謳歌できると思って。あの田舎の陰湿な世界から消えて、誰もがわたしも無色透明な他人だと扱ってくれると思って」
「いま自由は感じてる?」
「さあね」
証券マンの彼は、ジムで鍛えた自慢の二の腕でわたしを囲い込むと、口先だけの優しいキスをして、ベッドに倒れ込んだ。
彼、耳にキスをしたがったんだけど。気持ち悪くて堪らなかったな。口からはコーヒーと煙草のにおいがして臭かったし。
「俺ならそうはしないよ」
「そうね」
その代わりに、わたしをオナホールか何か程度にしか思わないんでしょうね?
でも、それでいいのだ。
わたしはそのときだけ、自分が悲劇にのヒロインぶってられるから。今頃幸せな家庭を築いて、のほほんと暮らしているあいつらとは違うのだと。彼女に黙ってこんな女と夜な夜な密会しているあんたとは違うんだと、そう思えるから。
*
それが昨日のこと。
わたしは朝八時に目を覚ますと、証券マンの彼とはそこで別れた。お互いに仕事着のスーツに着替えると、なんてこと無い顔して部屋を出た。何も関係は持ってませんよ、わたしたちセックスの一つもしたことありませんよ、なんて風に。
そのくせ彼は、別れた一時間後に「次はいつ会える?」って送ってきたから。興が冷めちゃって、もう連絡先はブロックしちゃったけど。
わたしはそれから新宿駅の改札に入り、いつものごとく湘南新宿ラインの大宮行きを目指した。
でも、寸前のところでわたしは歩を止めた。耳に挿した番いのイヤフォンが電話のベルを鳴らしたからだ。
さっきまで聞こえていた音楽がはたと止まる。ああ職場からだな、とわたしは半ば呆れ気味にスマホを手にしようとした。
そこで、わたしは完全に歩みが止まった。ホームに向かう人流が完全にわたしを境に詰まって、動脈瘤になる。
その電話の発信主を、わたしはただ「富士療養所」とだけ登録していた。それ以上でもそれ以下でもなくて、本当なら登録もしたくないくらいの場所。電話が来るなんて信じてなかった。信じたくなかった。
『あ、もしもし。真嶋菜帆さんのお電話でお間違いないでしょうか?』
若い女の声だった。看護師だと思う。あるいは介護士って呼ぶべきかな。
「そうですけど、えっと……」
『サナトリウムのアシダと申します。えっと、今井麻樹さんのご親族の方、でよろしいでしょうか?』
「正確には親族ではないんですけど、身元引受人になってると思います。麻樹がどうかしたんですか?」
『えっと、それが……大変申し上げ憎いのですが』
――ああ、来たんだ。死んだんだな。
わたしは頭のなかは妙にクリアだった。人が本当の本当にいなくなることを受け入れるとき、思ったより人間って冷静で残酷なんだなと、そう思った。
ただ、それはちょっと違った。
『今井麻樹さんは、昨晩に失踪しました』
*
気がつけば、わたしは湘南新宿ラインのホームから踵を返して、特急かいじに乗り込んでいた。九時くらいのスーパーあずさじゃなくて、かいじで甲府に向かっている。わたしはいったい何をやってるんだ?
連結部のデッキで片っ端からメールと電話をして、明日明後日は仕事に行けないとだけ連絡を入れた。上司には説明しづらかったけど、身内の不幸だとぼやかし気味に言うと、それ以上は何も言わなくなった。向こうも詮索するほうが面倒くさいってわかってたんだと思う。
七、八件は電話したと思う。やっと落ちついて座席に座れたのは、もう八王子を過ぎて都内を出るころだった。
サナトリウムのアシダって看護師は、電話口でわたしにこう説明した。
『えっと、完全にこちらの落ち度になってしまうのですが。昨晩まではいらっしゃったのですが、今朝がた病室からいなくなってしまいまして。当院の防犯カメラもチェックしたのですが、画が真っ黒になってしまい、どのような状況だったのかまったくわからないんです。おそらく黒湖のせいかと思うんですが。昨晩は風が強く、飛沫が飛んでいたそうですので。すでに警察にも連絡済でして、真嶋さまがよろしければすぐにでも捜索願を出そうかと』
わたしはそれにこう返した。
「黒湖が原因なら、警察だって探さないでしょ。とりあえず出さなくていいです。今日中にそちらに行きますので、待っててください」
それで電話を切った。
アシダって看護師はかなり切羽詰まった感じだった。そりゃそうだ。担当していた患者が失踪したのだ、死んだのではなく。しかも黒湖のせいで、だ。
もしこれがただの病死だったのなら「このたびはご愁傷様でした」とかなんとか言って、あとは提携している葬儀屋なりなんなりを紹介して、そのままシステマチックにお経でも唱えて合葬墓にでもぶち込んでしまえばいい。
でも、麻樹は消えたんだ。
よりにもよって黒い水のなかに。
誰もそのときの処置の仕方なんてわかるはずがない。わたしだってそうだ。
わたしは特急のなかで甲府駅のレンタカーを予約し、それからしばらく目を閉じて寝ることにした。でも考えが巡って眠れなくて。結局ずっと考えごとをしていた。
麻樹、なんであんた。
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