13

 夢か現だと気付いたのは、目が覚めたからだった。

 わたしは汗びっしょりのブラウスの気持ち悪さで目が覚めた。それから、外から聞こえる雨の音に。

 このボロ屋はそこかしこから雨漏りするらしい。ベッドの二段目が雨に濡れて、下で眠るわたしを濡らそうとしていた。かろうじて耳の近くに落ちていたおかげで、気が狂う前に目を覚ますことができたけど。

 腕時計を見ると、時刻はまだ四時前だった。木下はまだ寝息を立てている。

 わたしはハッとしてスマートフォンを見た。麻樹からの電話。夢だったら、通話履歴は上司との電話で終わってるはず。

 なのに、そこには五分前の通話履歴が残っていた。発信者は、だった。

「麻樹……夢じゃない……?」

 何かを感じる。

 そこにいるの、麻樹?

 わたしは居ても立ってもいられなくなって、大慌てで布団を剥ぎ、外へ飛び出した。立て付けの悪い引き戸を開け放ち、樹海の中へ。まだ外は暗い。若干の薄明かりが遠くに見えたけど、それきりだ。光はまだ訪れず、遠くに薄墨色の空が見えるだけだった。

 雨はそこまで酷くなかった。シトシトと静かに地面を打つような水。まだ地面はぬかるんでいない。

「たしかハンカチが目印って……」

 だめだ、懐中電灯を忘れた。携帯のフラッシュライトで代用するけど、その明かりはあまりにも心許ない。何度か振りかざして、やっと白いハンカチと、北西に向けられた矢印を見つけた。

 そして、また別のものも。

 それはバイクだった。

 カワサキのスーパーシェルパ。麻樹が乗っていたバイクだ。それが雑草の合間に死んだように倒れていた。

「麻樹のバイク……。まさかこれに乗ってきたとか?」

 ――まさか。

 と、思ったけど、心のどこかでそれを信じたい自分がいた。

 幸いにもキーが挿さっている。バッテリーも生きている。ヘッドライトが強く光り出した。ハイビームのまま転がってたみたいだ。

 わたしはブラウスが泥だらけになるのも気にせず、腰を落としてバイクを引き起こした。こんなとき、本当はスニーカーで来るべきなんだろうけど、マーチンのブーツで来たのは正解だったかもしれない。これならシフトペダルを叩いても爪先へのダメージはそんなに無いと思う。

 やっとの思いで引き起こすと、セルボタンを押してエンジンをかけた。

 だめ、セルが空回りしてる。チョークを引いてやり直すけど、それでもかからない。エンジンがお陀仏になった? それとも冷えてるから?

「かかってよ、ねえ! あんた、さっきまで麻樹が乗ってたんじゃないの?」

 ――くそ、くそ。

 何度もセルを回す。壊れそうな音を上げ、スーパーシェルパが必死になって火花を散らす。

 果たして何回セルが回ったんだろう。ガラガラガラガラと音が鳴り続けたとき、一瞬だけエンジンが鳴った。今を逃すまいとスロットルを小さく捻ると、やっとエンジンが回り出した。ゴトゴトと音を立て、泥のついたバイクがうめき声を上げる。

「きた! ねえ、お願い、連れてってよ。あんた最期の最後に麻樹を見届けたバイクなんでしょ? 麻樹の心がどこにいったか教えてよ」

 跨がって、スロットルを捻る。アイドリングが安定しない。ちょっとでも止まったらエンジンが落ちそうだ。それは『止まるな』とスーパーシェルパが言っているように思えた。

 クラッチを握りしめ、シフトペダルを叩き落とす。ごとんっ、と豪快な音がして一速に入った。シェルパはゆっくりと前に進む。タイヤが悪路を噛んで、先へ。

「急いで。麻樹がすぐ近くに居るんでしょ。あいつ、夢じゃなくって、本当にいるんだって」


     *


 メットもなければ、グローブもしていない。ブーツは履いてるけど、パンツは仕事用のチノパンだし、上着に至ってはアウトレットで買った春物のコートだ。ボタンを締めてベルトもしたけど、それにしたってオフロードバイクに乗る格好じゃない。しかもこんな人も通らない悪路を雨のなか走れだなんて、正気の沙汰じゃない。ずっこけたら一発であの世行きな気がする。

 木下はクルマで一〇分かからないと言っていた。だったらそんなに遠くはないはず。ハンカチに従って走り続けた。もう二枚、三枚、四枚のハンカチを見た気がする。

 タイヤが泥を書き上げては、空転し、転びそうになり、コートに汚れをつけて、何とか脚で踏ん張って喰いとどまる。わたしが身長高くって、というかシェルパのシートが低くて助かった。

 電話口で、麻樹は確かに言った。

〈菜帆、もういいよ〉

 なにが、もういいんだ?

 スロットルを回す。エンジンがギリギリと声を上げ、二速のまま草むらを抜ける。まだか? まだ着かないのか? ねえ、もう着いてもいいでしょ? 

〈菜帆、もういいよ〉

 麻樹の声がリフレインする。

 あれほど聞きたかった返事がそれ?

 ねえ、わたしがあんたの医療費を肩代わりしたとき、見舞いに行ったとき、それでも前に進もうと思って結婚したとき、でもダメだったとき、フェイ・ウォンみたいに部屋を模様替えしてワクワクしてたとき、あんたはどう思ってたのよ?

〈菜帆、もういいよ〉

「うるさい!」

 ――あ、だめだ。

 足が雨で滑る。バイク用の靴じゃない、そりゃ滑るに決まってる。間違ってギアがニュートラルに入り、タイヤが突然回転をやめる。泥の上を滑る力がなくなる。慌ててギアを入れ直そうとして、わたしは焦って右手を握りしめてしまう。クラッチが外れると同時にフロントブレーキが強くかかり、タイヤが完全にロックした。

 それがミスだと気付いたころに、わたしの身体はもう空の上だった。勢いよく投げ出された身体は倒木の合間をまるで棒高跳びのように飛んでいく。死ぬんじゃないかなって、そう思った。

 視界が空の上で二回も三回も回転して、そして数瞬のうちに強い衝撃が全身に走った。背中が痛い。息ができない。骨が折れたような気がする。口の中がジャリジャリして気持ち悪い。どこからか血が流れてる気がする。ていうかわたし漏らしてないか。それともこれは雨に濡れてるだけか。

 視界は暗転した。

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