12

     †


 わたしが握りしめていたのは、安物のmp3プレーヤー。もう十年以上前のものだけど、いちおうまだ動く。容量は大したこと無いし、中国製で、CDからダビングしても曲名が文字化けするし、ボディはなんかよく分からないキラキラしたラメみたいな青色をしているけど。でも、とりあえず音楽は聴けた。ステレオミニプラグを差し込み。イヤホンを耳に入れれば。音質は期待しちゃいけないけど。

 入っていたのは、キンクスの『ユー・リアリー・ガット・ミー』だった。むかし麻樹が貸してくれたんだ。「オヤジの部屋のCDからダビングしたんだ」とか言って。彼にとってはそこから音楽をディグる日々が始まったんだと思う。

 わたしにしてみれば、これは過去を思い出すためだけの道具だ。中学のときの図書室。サボって音楽を聴くあんたと、サボって絵を描いてたわたし。初めて会ったとき「何の絵を描いてんだ」って言われて、わたしは「何の曲聴いてんの」って聞き返した。たしかそれが初めて交わした言葉。あんたはそれから黙ってこのmp3プレーヤーをわたしにくれた。音質の悪いキンクスと、ビートルズと、あとオアシスとレディオヘッドがちょっとだけ入ってたね。あれ、CDから落としたんじゃなくて、本当は違法ダウンロードしたんでしょ? 文字化けしてたから知ってる。


 わたしはそれで曲を聴いていた。場所は甲府の駅のホームで、東京行きの特急を待っていた。

 電話がひっきりなしに鳴っている。三回無視した。でも四回目も鳴ったから、仕方なく出た。非通知発信だったけど、相手が誰だかわかっていた。

「もしもし」

〈おい、菜帆!〉

 言葉はそれだけ。彼は「おい」の二文字だけでわたしにすべてを理解させようとする。

 つまり、あの病人に金を貢ぐのを辞めて、離婚届も撤回して、家に戻ってこいって、そういうこと。

「なに」

〈いい加減にしろよ!〉

「なにを?」

 彼は何も言わない。そういう男なんだ。自分の部下には懇切丁寧にオリエンするくせに、伴侶になった途端に何も言わずに全てを察してくれないと苛立ってしょうがない。

「心神喪失の幼馴染みの医療費を肩代わりして、延命させて、それを原因に喧嘩して。お腹の子も堕ろして、離婚までしたこと? ぜんぶわたしのカネでやったことだし、堕胎と離婚はあなたがやれって言ったことじゃない」

 途端、乗車待ちの人の群れにざわめきがあったのを感じた。これから仕事でお江戸に行くんだろうグレーのスーツの老紳士が目を丸くしていた。わたしは「問題ないわ」とでも言わんばかりにウインクしたけど、彼はまだ鳩が豆鉄砲喰らったような顔していた。

〈菜帆、俺が言いたかったのはな……!〉

「麻樹を見殺しにして、おとなしくあんたの奴隷になれって、そういうことでしょ? そんなのイヤ。わたし、ずっと夢があったの。絵で仕事したいって。東京で仕事が見つかったから、もうあんたは要らない。わたしは一人で生きる。だから、これでおしまい」

〈後悔しても知らないぞ。お前は独りで生きられない〉

「残念ながらもう後悔はしてる。あんたと籍入れたことに」

 通話を切る。

 あずさが来る。

 わたしは無性にタバコが吸いたくなって、一本見送っていこうと思った。

 

 ホームの喫煙所はひとけが無かった。というか、誰もいなかった。そのくせやけに煙が充満していて、まるで霧の中にいるみたいだった。

 窓ガラスがヤニで汚れてるのかも? そうおもったけど、それでこんな視界が悪いハズがない。わたしはキオスクで買ったピース・ライトに火を点け、一口吸った。ちょうど見送ったあずさが出て行く。あのスーツ姿の老人が心配そうにわたしを見ていた。「心配ないよ」と言わんばかりに手を振ってあげたけど、彼は目を逸らした。

 タバコを吸うと末端が冷えるような気がする。神経をイタズラに傷つけるからだと思うけど。

 ――いや、違った。

 わたしは、紅く塗った爪が灰色に変わっているのを見つけた。焦って周囲を見回す。いや、おかしい。向こうを走っている中央本線の鈍行にはちゃんと青と水色のラインがある。

「……ここだけ色がない?」

 ピースの箱が黒い。指先が白く、陶器のようだった。炎は白く、影はない。マッチ箱が灰色に染まり出す。

 もう一度周囲を見回す。

 電光掲示板はオレンジ色。定刻通りの出発を告げる。水色の電車がゆっくりと動き出し、濃紺のセーラー服を着た女子高生たちが大慌てで改札口から飛び出す。

 ――なんで? どうして?

 そう思ったとき、チノパンのポケットの中で五度目の着信があった。あいかわらず非通知発信。もう二度と出てやるもんかと思ってたのに、わたしは焦ってたんだろう。何かに駆り立てられるようにその電話を受けた。

「だから――」

 言いかけて、発信主が誰か分かった。

〈菜帆、もういいよ〉

 それだけ。

 声はそれだけ。

 それだけして、もう通話は切れていた。

 でも、それが誰の声かわたしには分かった。

 麻樹だ。

 大慌てでわたしは電話を確認する。非通知だ。折り返せない。じゃあどうする? サナトリウムにかければいいのか? ほら、あそこじゃあリハビリで電話をする。白黒の世界から、外の世界に徐々に慣れさせるために、まずは声だけ外界に繋ぐんだ。アイマスクと電極で、脳味噌にムリヤリ色のある世界を送りつけながら。おまえたちが生きるべき世界はここだぞって、そう教え続けるんだ。だったら、麻樹が回復してわたしに電話してきた可能性だってあるはずでしょ?

 サナトリウムにかける。

 ――だめ、通話中。

 わたしはじれったくなって、もう一回タバコを吸いながら発信する。

 ――だめ、通話中。

 もう一回。

 ――だめ、通話中。

 なんなのよ、もう、こんなときばっかり。

「麻樹、あんたどういうことよ」

 もう治ったからいいよってこと? それとも――


     †

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