11

 気がつけば陽が暮れていた。それでもなおわたしたちは湖に近づけなかった。

 クルマのヘッドライトと、あと木下から借りた懐中電灯で森を照らして、わたしは窓の向こうに向かって麻樹の名前を呼び続けた。もちろん返事はないに決まっていた。やがて喉は枯れて、わたしは酒焼けしたブルース・シンガーのような声になった。

「どうする? 引き返す?」

 わたしは勝手にシガーライターのスイッチを押し、コートのポケットからピース・ライトを取り出す。

 しかし木下はギアを二速に入れたままだった。

「近くに僕のセーフハウスがあります。昔この辺のキャンプ場の管理人が使っていた小屋です。ちょうど湖から近い場所にあるので、そこで一晩明かそうかと。さすがに夜中に樹海の中をさまようのは危険です」

「セーフハウスの場所は、このまま進むんであってるの?」

「ええ。あれ、見えるでしょう?」

 彼が指差した先、ヘッドライトが幾重にも折り重なった倒木。そこに白いハンカチが巻き付けられていた。布には大きく矢印が書いてある。

「アレが目印になっています。アレを追えば湖の近くまで出れる。その途中にセーフハウスがあります」

「さすがはツアーガイドさん」

「一人で行かなくて良かったでしょう?」

「悔しいけどその通りね」

 ピン、とシガーライターがついた音。引き上げてピースに火を点ける。ふと左手に填めた腕時計に目をやると、時刻はもう八時を回っていた。

「ねえ、こんなこと言ったらわたし、本当に面倒臭い女みたいになってイヤなんだけどさ。正直お腹が空いてる」

 呼応するように腹の虫が鳴く。

 木下は小さく笑った。

「でしょうね。精神的疲労と、叫びすぎでしょう。セーフハウスに非常食がいくつかあります。カップラーメンとかですけど」

「食えれば何でも良い」

「タフですね。もうすぐですよ」

 本当にすぐだった。

 ハンカチーフが何の予告か、知ったこっちゃないけど。それを五、六回ほど見せられたあとに古びた小屋が見えてきた。でも、ぶっちゃけそこで一晩明かしたいと思えるような場所じゃなかった。

 崩れた木が腐って、あちこちで腐臭がする。彼はそこから少しだけ離れた場所にクルマを停め、エンジンを切った。

「僕も年に数回しか来ないので、正直快適な寝床じゃないですけど。水道も来てないし、電気も通ってません」

「ベッドは?」

「宿直室の名残で二段ベッドが二つ」

「じゃあいいわ。一緒に寝るのはイヤ」

「そうですね、僕もあらぬ疑いはかけられたくないので」

 パジェロミニを降りて、その腐りかけの小屋へ。昔はキャンプ場の管理室だって言ってたけど、たしかにその名残はあった。アクリル板に仕切られた受付みたいなのがあって、そこに白いペンで『テントサイト 一〇〇〇円』ってかすれた文字が残っていた。

「その懐中電灯、スイッチを切り替えるとランタンになるので。明かりはそれを使ってください」

「こう?」

 パチン、とトグルスイッチを押すと、持ち手だったとこがぼうっと光り出した。さっきの懐中電灯よりもちょっと優しい光。途端に管理室の全容が明らかになる。スリッパの残った下駄箱、事務机と、いつのものかも分からない伝票とか、テントサイトの区画図。それからもう生きてるかも分からないスタッフの予定表。ホワイトボードには生々しく十年前の予定が残っていた。山本って人がオートサイトの整備で、野田って人が受付、伊藤って人が清掃の当番だったらしい。十年前の日付のまま、ここは時が止まっていた。

「この先の宿直室にロッカーがあるんですが、そこをパントリー代わりにしてます。水が何本かと、あと食料。それからカセットガスとバーナーを置いておいたはずです」

 木下の後を追って宿直室へ。昔の和式便所みたいなドアを開けると、その先がそうだった。左右一対の二段ベッドと、スチールでできたロッカー。歪んで立て付けが悪くなってたけど、まだ使えそうだった。奥にある窓からは、暗い夜空が見える。雲が厚くかかっていて、星の一つも見えなかったけど。

「醤油、味噌、塩、豚骨、どれがいいですか?」

「味噌」

「はい、じゃあこれを」

 あいにくカレー味はなかった。あったからって選んでないけど。

 あとはヤカンにペットボトルの水を注ぎ、ガスバーナーで湯を沸かした。軽いキャンプ気分だ。でも、外で食べてもカップラーメンは美味しくなかった。味噌なのに、味噌の味がしない。色が無いとこんなにも味がしないのだ。

 わたしが味噌ラーメンをすすり、木下は豚骨をすすった。スーパーカップのデカいヤツ。木下は元不良だって言ってたけど、いまはそう見えない。けど、食の好みはなんというか、不良少年のままなんだなという気がしていた。

「ここから黒湖まではどれぐらいかかるの?」

「そうですね。距離だけで言えば、クルマなら一〇分もかかりません。歩けば一時間以内で着くと思います。もちろん道の状況によりますけど。倒木が酷かったり、雨なんかが降ってしまうと、最短ルートが通れないので。迂回して行けば、半日かかる場合もあります」

「わかった。じゃあ早朝出発しよう」

「日の出は五時頃です。暗い中で向かうのは得策じゃない。まだここは安全ですが、湖のすぐそばはより色が消えていく。方向感覚がなくなって、死ぬまで樹海をさまよう可能性もあります」

「じゃあ五時発で。もう寝よう」

「それが賢明ですね」

 わたしは残りの味噌スープをぜんぶ飲み干して、ゴミは彼に任せた。自然にプラスチックを置いていくわけにはいかないので、回収してサナトリウムで処分するそうだった。


     *


 その日は固いベッドの上で眠りについた。着替えはなかったから、チノパンにブラウスのまんま。こんな樹海の中をさまようなら、もっとアウトドアな格好をしてくれば良かったと後悔していた。ほら、道すがらにワークマンがあったし。あそこでジャケットとパンツくらい買っておけば良かったのだ。でも、後悔先に立たず。考え事をすればするほど眠れなくなる。こういうときは無心でいたほうがいい。心配事は腐るほどあるけど、たいていのことは心配していたほど深刻にはならないものなのだから。それなら、自分が深海を漂う海月か何かだとでも思って、全身を脱力して、すべてを放棄したほうがいい。

 寝息一つすらうるさく聞こえるこの樹海の奥地で、わたしは悟りを開くようにして床についた。


 ところで、


 わたしは、それが夢だとすぐにはわからなかった。

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