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 Fast Forward 2024/10/30


 あの日、富士五胡とは別にができた。その湖を構成する物質がなんなのかは、未だにどの学者にも理解できていない。ただひとつ分かっているのは、それは水ではないこと。マグマが冷えて固まったようなドス黒い姿をしているんだけど、でもそれはマグマじゃない。けどそれは液体で、ドロドロとして常に湖の中を漂っている。

 そして、それに湖に飲み込まれたモノは、色彩を失うという。


 って、何を言ってるんだって話なんだけど。残念ながらそれは本当なんだ。その証拠が麻樹だし、麻樹のお母さんだし。それに最近はわたしもそうだ。

 実を言えば黒湖周辺、半径三十キロ以内は特別警戒区域に指定されている。なぜなら、その周辺は色がないから。光の屈折なのか、なんなのかわからないけど。とにかくその周辺に行くと、突然世界は白と黒で構成される。災害の当時、その様子をカメラで撮った映像がYouTubeにあがると、瞬く間に一千万再生を突破したっけ。原因はわからないが、あの墨のような湖が世の中のありとあらゆる色彩を奪ってしまう。そのせいで富士河口湖周辺はすっかり観光地ではなくなった。残念な話だけど、日本でもっとも有名な山は、災厄の象徴になってしまった。

 

 かいじが甲府につくまで、わたしは一眠りした。やけに頭がクリアで、心は不安なのにそれでも落ちついて眠ることができた。

 甲府駅を出ると、すぐに駅前のJRレンタカーでクルマを借りた。予約していたのは普通のコンパクトカー。トヨタのヤリスだった。

「ご利用は明日二十時まで。二日コースでよろしいですかね?」

 受付のオジサンは慣れた様子でタブレットを操作し、予約情報を確認していく。返却期日は明日まで。返却先はまたこの甲府駅になる。

「クルマは明日の二十時までにこちらまでご返却ください。ガソリンは満タンにしてご返却いただくようにお願いします。何かほかにご不明な点はございますか?」

「いえ、大丈夫です」

「じゃあこちらにサインをお願いします」

 タッチペンを渡されて、タブレットに名前をサインする。真嶋菜帆とだけ。するとサインされたことに反応したように、駐車場から一台のクルマがやってきた。真っ白いトヨタのヤリス。とくに面白みもない普通のコンパクトカー。でも、わたしにとってはとにかく今は富士の山頂近くまで行くことが目的だった。


 それからわたしはコンビニでコーヒーだけ買うと、一人山道を向かった。国道二十号線はいつでもひどい混雑をする。止まっては進んで止まっては進んでの繰り返しにイヤになりながら、やっと甲府南ICあたりで三五八号線へ。古ぼけたほうとう屋の看板を横目にしながら、ぐんぐんと標高を上げていく。高度が上がり、国道を進むにつれて、徐々に道は荒れていった。

 カーナビにセットされた座標。サナトリウムまでは、このまま十五キロほど道なりだった。そのあと精進湖まで行ったら、樹海のほうへ抜けていけと行っている。それ以降は国道でも県道でもない、地元の人間くらいしか知らないような細い道の連続になる。

「そろそろ来る……?」

 カーステレオから流れるラジオが徐々に消えかかる。地方のインディーズバンドが歌う物悲しい曲が流れていた。


 ――あの峠に僕らは独りでも行くよ

 ――あの人を少し切り取ったし、返さなきゃ


 って、ノイズ混じりに聞こえる。それ、まるでわたしのことみたいだ。わたしも麻樹を切り取って、その残滓にしがみついて生きてるようなものだから。そろそろ返さなくちゃいけないのかもって、ちょっと思った。

 なんというかその曲、もし麻樹があのまま音楽をやってたらこうなったのかな、みたいな曲だった。危なっかしい青臭いギター。変則的なオープンコードと、消え入りそうな女性ボーカル。直線的なベースライン……。それらに段々とノイズが入り、砂嵐の向こうへ進み出す。

 音楽という名の色彩も、また白と黒の砂嵐の向こうへ消えていってしまう。麻樹がそうだったように。

 そう言えばあの看護婦、風が強くて影響範囲が広いとか言っていた。でも、もう来るのか? まだ精進湖についたばかりだ。あまりにも早すぎる。

 指先にぞわりとした感覚。薄紅色に塗ったネイルが突然、白と黒に変わった。指先がひどい末端冷え性のように凍え出す。

 ――だめだ、もう来るんだ。

 わたしは水の中に潜るときのように、すぅーっと息を吸った。その次の瞬間だった。

 ラジオが消える。

 ホワイトノイズ。

 トンネルが見える。橙色の光が一瞬だけ煌めいて。そして入る瞬間、わたしはすべての色が消え失せていくのを感じた。

 薄紅色のネイルは鼠色に変わって、橙色をしたトンネルは白い光に満たされる。ラジオは消えて、わたしは遠い故郷に戻ってきた。色のない世界に。

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