15
咳き込んだ。
口の中の泥が勢いよく吹き飛んでいく。頭が痛いし、背中も痛い。でも、生きてた。
どうやらぬかるんだ草むらの上に落ちたらしい。雑草の群れがクッションになって多少痛みを和らげたんだろう。これが倒木の真上だったら即死だった。
わたしは血に濡れた顔を、泥まみれの手で拭った。視界がぼやけてる。血を拭うと、やっとピントが合ってくる。
「あ、これが……」
見えた。
黒い湖。
そこに風はなかった。まったくの無風で、湖面はまるで固形のように穏やかだった。すべてを吸い込むような黒。むかしテレビで見た『世界で一番黒い物体』はあらゆる可視光線を吸い込んでしまうらしいけど、まさにそれだった。
わたしたちの世界から色彩や、魂を奪ってしまう水。それは世界で最も黒い物体。なんで黒いかは誰も知らない。それが人間の目に影響するのか、それとも世界中の可視光線に影響するのか。
「あ、はは、なんだ、こんななんだ、湖って」
たぶんわたしは落ち着きたかったんだと思う。スプリングコートのベルトと、ボタンを外す。ブラウスは血で濡れてたけど、でもまだ泥だらけじゃなかった。
「ははは、こんな真っ黒なんだ」
これがわたしから十九歳の麻樹を奪った湖。
「こんな、こんな……キレイなんだ」
わたしはスプリングコートのポケットからピース・ライトを取り出すと、マッチで火をつけた。心を落ち着けるために、煙をいっぱい肺に取り込んだ。
穏やかな湖。雨は止んでいた。まわりには真っ白いすすき林があって、すっかり秋の装いだ。
そしてその向こうに、あなたはいた。
「麻樹、」
フェンダー・ジャズマスターを肩からさげて、彼はわたしの前に立っていた。
「ひとりで立てるじゃん、あんた」
答えない。電話はしてきたくせに。
「ねえ、麻樹も吸う? ピースだけど。ほら、麻樹はハイライトでしょ? よくレノンのPAさんにもらってたじゃん。わたし知ってたんだから」
答えはない。
「そう。じゃあ、わたしだけ吸ってるよ」
燃えがらになったマッチを湖に投げ入れてみる。波紋はなかった。ただヌルッと音もなく黒の中に吸い込まれていった。
「本当はさ、わたし分かってたの」
答えはもちろんない。
「だからこのマッチも、本当は線香の一本でもあげるために持ってきたのよ。いつもはライター。どこかでもらったコンビニのライターね。ほら、ラブホのライターをこれ見よがしに使ってるバンドマンは、ろくでもないクズしかいないからさ。わたしそうじゃないし」
うん、そうじゃないし。
でも、答えはないんだよね。
「麻樹、ねえ、わたしこれで良かったのかな。わたしさ、ずっと悔しかったんだよ、麻樹のこと。ずっと悔しかった。だけど、それでも前を向こうと思ったの。それなりに努力もした。キレイになったでしょ、わたし? まあでも、ダメだったけどさ。あっ、でも離婚は正解だったと思う。麻樹も結婚相手はちゃんと選ばなくっちゃダメだよ。ショットガン・マリッジはぜったいにダメ。あれはろくでもない男がやることだし、ろくでもない女のやることだからさ」
うん、そうだよ、麻樹。
だけど、答えはないんだよね。
「知ってるよ、答えてくれないって。だけどわたしは、一言欲しかったんだよ、たぶんさ」
それが何かはわからないけど。
それはもしかしたら「もういいよ」の一言だったかもしれない。けど、あのときのわたしがそれで諦めたはずがない。
「十年かかったよ、たぶん。病気だったのはわたしかもしれない」
うん、そうだね麻樹。
ピースが終わっちゃう。次で最期の一本。今のももうフィルターまで燃えそうだ。
泥の上で火を消すと、わたしはもういちど湖に向けた吸い殻を投げた。もちろん波紋はなかった。
「ねえ、麻樹、ありがと。言ってくれて」
立ち上がる。雨は上がって、遠くに日が差すのが見えた。虹なんかない。だってここには色がないんだから。
「わたしも、もういいよ」
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