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 麻樹の部屋。わたしがフェイ・ウォンごっこをして模様替えした彼の部屋。壁にはいつかのマイブラのポスターと、このあいだ持ってきた『恋する惑星』のポスター。前にウォン・カーウァイ・レトロスペクティブがあって、そのときに買ったヤツ。あと中古レコード屋から安く仕入れてきた色んな安レコード。そして――

「……ない」

 医師に連れられて来た麻樹の病室で、わたしが放った第一声はそれだった。

「ないって、何が?」

 一緒についてきていた木下が問う。

 わたしは口をしばらくモゾモゾさせてから、

「ギター。フェンダーのジャズマスター。ほら、あそこ」

 指差した先、空になったハーキュレスのギタースタンドと、JC22が並んでいた。アンプに繋がったシールドは、所在なさげにリノリウムの床に転がっている。

「……麻樹が持ってったのかも」

「まさか」

 医師が一蹴する。

「麻樹君はステージ4。そもそも意識が肉体に残っているかもあやしい。そんな彼が、歩いて出て行ったことすら有り得ないことなのだ。ましてやギターを持って出ていったと? カメラの映像では、彼は手に何も持っとらんかった」

「でも、現に無くなってる」

「ほかの患者が盗っていったのかもしれん」

「ここはステージ4の隔離病棟でしょ? 誰もそんなことはできない」

「じゃあ、誰が……」

「麻樹よ」

 わたしは一歩踏み出し、その空になったギタースタンドに触れる。何もない。別に見えなくなったわけじゃない。

 それから、次に気になったのはレコードプレーヤーだった。麻樹にはレコードがかけられない。なのに、そこには円盤が乗っていた。

「これ、誰がレコードをかけたの? 看護師?」

「専任の看護士はその晩、麻樹の病室には何もなかったと言っておる」

「じゃあ、麻樹がかけたのかも」

 プレーヤーの盤面を見て、わたしはハッとした。

 それは、フェイ・ウォンの『夢中人』だったからだ。


    *


 わたしは大慌てで病室を飛び出した。医師と木下はわたしを追いかけたが、無駄だった。

「どこに行くんです? あてはあるんですか?」

 木下がわたしの肩を掴もうとしたけど、わたしはそれを払い退けた。

「ない。けど、歩きならそう遠くには行けないはず」

「この樹海の中を探すんですか? そんなことしたら、今度はあなたが失踪する」

「したって構わない」

 払いのけ、踵を返す。木下の髭面に面と向かった。

「麻樹を見つけるために此処に来たのよ、わたしは。だから、あいつを見つけなきゃ、来た意味がない……」

「そのためなら死んでも構わない?」

「それで死ねたら本望よ」

「そうですか……」

 静寂。

 老医はわたしを見下すような目をしていた。わたし、相当取り乱していたんだと思う。冷静を欠いたヒステリー女ほど、この世で醜いものはないと、わたし自身そう思うし。

 そのうち静寂を破ったのは、あの医師だった。

「確証はないが、一つアテはある。過去に脱走した患者が何人かいたが、みな黒湖の方角に向かって歩いていた。患者は、湖に何かを求めて向かうのかも知れない。もっとも、脱走した例は少ないため確証はないが……」

「じゃあ湖に向かう。いなかったら、樹海をさまよう。そうするわ」


 そうしてわたしは制止を振り切り、ステージ4の病棟を抜け、受話器に話し続けるリハビリの群れを過ぎ、タブレットしかない受付に別れを告げて、サナトリウムを出た。コートのポケットに突っ込んだキーを手に、ヤリスのドアロックを解除する。

「待ってください!」

 しつこいのは木下だった。

 彼はまたわたしの肩に触れた。振り払っても良かったのだが、あまりのしつこさに振り返った。

「なに?」

「そんなクルマで黒湖に行くのは無謀です。あそこは舗装路じゃない」

「じゃあ歩けと?」

「いえ、僕が運転します」

 彼はその派手なウィンドブレーカーから、無骨な物理キーを引っ張り出した。そしてその鍵の先端を指示棒にして、一台のクルマを指し示す。駐車場の端っこ、古ぼけた物置の隣にクロカンがあった。ずいぶんと老いぼれた三菱のパジェロミニだった。

「僕も探します」

「別に付き合わなくてもいい」

「もともと患者の捜索は、僕の仕事です。むしろあなたがそれに同行すると言った方が良い。それに女性が一人で行くには危険な場所だ。黒湖に行ったことはありますか?」

「ない」

「じゃあ僕に着いてきてください。麻樹君を見つけたいんでしょう?」

 しばらくわたしは考えた。冷静になって、彼の提案は悪くないと断じた。そりゃ、わたしだって怖い。この樹海の中をアテもなくさまようだなんて。それも黒湖なんてグラウンドゼロだ。そんな危険な場所、日本中さがしたって他にない。一人で噴火している火山に向かうようなものなのだから。

「わかった。でも、麻樹のことはわたしの方が詳しい。湖のことはあなたに任せるけど、麻樹のことはわたしが勝手にする」

「もちろん。では、助手席に」

「言われなくてもそうする」

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