9
麻樹の部屋。わたしがフェイ・ウォンごっこをして模様替えした彼の部屋。壁にはいつかのマイブラのポスターと、このあいだ持ってきた『恋する惑星』のポスター。前にウォン・カーウァイ・レトロスペクティブがあって、そのときに買ったヤツ。あと中古レコード屋から安く仕入れてきた色んな安レコード。そして――
「……ない」
医師に連れられて来た麻樹の病室で、わたしが放った第一声はそれだった。
「ないって、何が?」
一緒についてきていた木下が問う。
わたしは口をしばらくモゾモゾさせてから、
「ギター。フェンダーのジャズマスター。ほら、あそこ」
指差した先、空になったハーキュレスのギタースタンドと、JC22が並んでいた。アンプに繋がったシールドは、所在なさげにリノリウムの床に転がっている。
「……麻樹が持ってったのかも」
「まさか」
医師が一蹴する。
「麻樹君はステージ4。そもそも意識が肉体に残っているかもあやしい。そんな彼が、歩いて出て行ったことすら有り得ないことなのだ。ましてやギターを持って出ていったと? カメラの映像では、彼は手に何も持っとらんかった」
「でも、現に無くなってる」
「ほかの患者が盗っていったのかもしれん」
「ここはステージ4の隔離病棟でしょ? 誰もそんなことはできない」
「じゃあ、誰が……」
「麻樹よ」
わたしは一歩踏み出し、その空になったギタースタンドに触れる。何もない。別に見えなくなったわけじゃない。
それから、次に気になったのはレコードプレーヤーだった。麻樹にはレコードがかけられない。なのに、そこには円盤が乗っていた。
「これ、誰がレコードをかけたの? 看護師?」
「専任の看護士はその晩、麻樹の病室には何もなかったと言っておる」
「じゃあ、麻樹がかけたのかも」
プレーヤーの盤面を見て、わたしはハッとした。
それは、フェイ・ウォンの『夢中人』だったからだ。
*
わたしは大慌てで病室を飛び出した。医師と木下はわたしを追いかけたが、無駄だった。
「どこに行くんです? あてはあるんですか?」
木下がわたしの肩を掴もうとしたけど、わたしはそれを払い退けた。
「ない。けど、歩きならそう遠くには行けないはず」
「この樹海の中を探すんですか? そんなことしたら、今度はあなたが失踪する」
「したって構わない」
払いのけ、踵を返す。木下の髭面に面と向かった。
「麻樹を見つけるために此処に来たのよ、わたしは。だから、あいつを見つけなきゃ、来た意味がない……」
「そのためなら死んでも構わない?」
「それで死ねたら本望よ」
「そうですか……」
静寂。
老医はわたしを見下すような目をしていた。わたし、相当取り乱していたんだと思う。冷静を欠いたヒステリー女ほど、この世で醜いものはないと、わたし自身そう思うし。
そのうち静寂を破ったのは、あの医師だった。
「確証はないが、一つアテはある。過去に脱走した患者が何人かいたが、みな黒湖の方角に向かって歩いていた。患者は、湖に何かを求めて向かうのかも知れない。もっとも、脱走した例は少ないため確証はないが……」
「じゃあ湖に向かう。いなかったら、樹海をさまよう。そうするわ」
そうしてわたしは制止を振り切り、ステージ4の病棟を抜け、受話器に話し続けるリハビリの群れを過ぎ、タブレットしかない受付に別れを告げて、サナトリウムを出た。コートのポケットに突っ込んだキーを手に、ヤリスのドアロックを解除する。
「待ってください!」
しつこいのは木下だった。
彼はまたわたしの肩に触れた。振り払っても良かったのだが、あまりのしつこさに振り返った。
「なに?」
「そんなクルマで黒湖に行くのは無謀です。あそこは舗装路じゃない」
「じゃあ歩けと?」
「いえ、僕が運転します」
彼はその派手なウィンドブレーカーから、無骨な物理キーを引っ張り出した。そしてその鍵の先端を指示棒にして、一台のクルマを指し示す。駐車場の端っこ、古ぼけた物置の隣にクロカンがあった。ずいぶんと老いぼれた三菱のパジェロミニだった。
「僕も探します」
「別に付き合わなくてもいい」
「もともと患者の捜索は、僕の仕事です。むしろあなたがそれに同行すると言った方が良い。それに女性が一人で行くには危険な場所だ。黒湖に行ったことはありますか?」
「ない」
「じゃあ僕に着いてきてください。麻樹君を見つけたいんでしょう?」
しばらくわたしは考えた。冷静になって、彼の提案は悪くないと断じた。そりゃ、わたしだって怖い。この樹海の中をアテもなくさまようだなんて。それも黒湖なんてグラウンドゼロだ。そんな危険な場所、日本中さがしたって他にない。一人で噴火している火山に向かうようなものなのだから。
「わかった。でも、麻樹のことはわたしの方が詳しい。湖のことはあなたに任せるけど、麻樹のことはわたしが勝手にする」
「もちろん。では、助手席に」
「言われなくてもそうする」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます