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「だから、旧い友人だって言ってるじゃない。浮気じゃない。わたし、ほっとけないのよ、あいつのこと。親もいないし、昔からの友達だし……。だから、明日には帰ってくるって言ってるでしょ!」
山中湖へ向かう途中のコンビニで、わたしはレンタカーを止めて電話をしていた。相手は旦那。さっきからずっと怒鳴ってる。わたしはそれを右から左へ聞き流しながら、たまに口から紫煙を吐いてた。今日もピースはウマいようでマズい。こういうときに吸うからなおのこと。
やっとのことで電話を切ると、わたしは重いため息と共に、もう一本だけピースを吸った。それからまたレンタカーに戻り、麻樹のいる病棟に向かった。サナトリウム、あのモノクロの世界にある真っ白い世界だ。
あの建物は角がなく、どこもかしこも丸っこい。きっと彼らに教えるためなんだと思う。この世界は角が立ってばかりの、イタズラに傷つけてくるような世界なんかじゃないって。
サナトリウムにつくと、わたしはいつものように受付を済ませた。そこに人はいない。タブレット端末がちょんと乗っていて、そこに『面会』『その他お問い合わせ』とだけ書いてある。それ以外の用が在る人間はここにはいない。こんなところに来るのは、わたしみたいな奇特な遺族だけなのだから。
面会を押し、名前をサインして病棟へ。わたしが向かうのは最深部にあるステージ4の病棟。ここは麻樹みたいなひどい患者がいるところで、入るだけでイヤな気分になる。ほら、普通の病院でも入院病棟とかに入ると気が滅入るでしょ。なんというか、死人の匂いがする。生命活動が明らかに乏しくなった人たちの、独特な匂い。あれがする。それも黒く冷え切って、鼻孔の奥にまで届くようにして。
麻樹の病室は、そのステージ4病棟の入口から七つめの部屋だった。病室は個室で、まあ、それは金があるからじゃなくて。彼らは隔離しなくちゃいけないからだった。
麻樹の部屋はいつきても真っ白。壁も白くて、窓の向こうも白い。木々が生い茂るのが見えるんだけど、それも色がないから。葉の黒い輪郭と影だけが見えて、それ以外は無色透明な風が時折吹くきり。
「麻樹、久しぶり。お見舞いに来たよ」
ベッドで半分身を起こす彼に、わたしは静かに声をかけた。もちろん答えはない。
わたしはお土産で買ってきたお菓子とかお茶とか、あとお酒だとかをとりあえず机の上に置いた。そして、代わりに机の周りにあるものを物色した。
この部屋には、かつて麻樹が好きだったものが少しだけ残っている。例えばギター。麻樹がむかし使っていたのと同じフェンダーのジャズマスターが立て掛けられている。本当は褪せたグレーのようなスカイブルーのボディに、日に焼けたクリーム色のピックガートなのだけど。ここで見るとただのグレーのジャズマスターだった。
「ギター、弾いてる?」
麻樹は答えない。まるでシューゲイザーのギタリストみたいに、俯いたまま押し黙っている。
「そっか。ねえ、何かレコードかけていい? あんた、あれ好きだったよね」
病室の端。本当ならテレビ台とかになっているとこに、麻樹の場合はレコードプレーヤーが置いてある。それもオーテクのそこそこ良いやつ。スピーカーシステムまでそれなりのものが繋がっている。どれもぜんぶわたしが持ち込んだものだった。
棚の中を物色すると、ビーチボーイズの『ペットサウンズ』を見つけた。あの派手な緑色のジャケットもここだと上手に探せないものだ。
「ペットサウンズ、あんたずっと言ってたよね。『こんなポップでわかりやすいアルバムが、良さが分からないとかって言われてる理由がよく分からない』ってさ。わたしもけっこう好きだよ、これ。まあでも、サーフロックみたいなのを期待してる人には肩透かしなのかもしれないし。ポップすぎて逆に苦手なのかもしれないね」
A面に針を落とす。わずかなノイズの後、Wouldn't It Be Niceが流れ出した。
「ほら、ペットサウンズは好きだけど、サーフィンUSAとか、ココモとかそういうのは好きじゃないって言ってたじゃない。まあ、わたしもわかるよ。ちなみにわたしはアレが好きだった。ほら、あのカバー。そう、ママス&パパスの『夢のカリフォルニア』。ここにあるかな?」
レコードの棚からそれらしきものを探す。けど、二、三分ほど探してみても見当たらなかったから、結局諦めることにした。
「あ、こう言いたいんでしょ。それは別にビーチボーイズが好きなわけじゃなくって、ウォン・カーウァイが好きなだけだった。そうよ、わたしは『恋する惑星』のあのシーンが好きなだけ」
そう、いまわたしがやっているのは、考えて見ればフェイ・ウォンがやっていたことと変わらない。好きな相手の目を盗んで、相手が何も言わないことを良いことに、勝手にその人の部屋に忍び込んで模様替えをする。あのジャズマスターも、レコードプレーヤーも、束になったレコードも。壁に貼ったマイ・ブラッディ・ヴァレンタインのポスターとか、いつかのフジロックのTシャツとかも、ぜんぶわたしが持ち込んだ。持ち込んで、勝手に置いていった。これがわたしと麻樹との思い出と言わんばかりに。
だけど、麻樹は何も答えない。十年前のあのときから、彼の時は止まったまま。色彩が戻ることなんてない。彼の心はずっとあの黒い水に繋がれている。
「ねえ、コーヒー買ってきたから。あんたが好きだった安い豆。淹れるけど、飲む?」
もちろん答えない。
だけどわたしは、病室の脇にある小さな給湯スペースを使って、お湯を沸かす。安いドリップパック。二十個入って二百円とかいうやつ。あのころから多少値上がりしたけど、味はたぶん変わってない。
「ブラックで良かったでしょ?」
そう言って、ベッドサイドのテーブルにマグカップを置く。わたしのぶんと、麻樹のぶん。わたしは少しだけ冷めるのを待ってから、じっくりとそれを飲んだ。
それからわたしはしばらく麻樹に向かって一方的な話をし続けた。最近あったこと。仕事のこと。結婚生活が上手く行ってないこと。離婚して東京に出ようかと思ってること。何もかも全部。麻樹は黙って聞いてくれた。時折まつげが揺れるから、少しは反応していると信じていた。
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