3章――①

 時見がやっと一言絞り出せたのは、雨の音を聞きながら数秒ほど呆然としたあと、再び雷が鳴ってからだった。

「閉めるって、一時休業などではなく」

「完全に辞めようか悩んでいる、ということです」

「なんで……」

「僕ももう八十半ばですから。体のあちこちにガタがきておりまして」

 困ったように笑いつつ草栄が腰を叩いた。膝が痛いと漏らしているのも耳にしたことがあり、定期的に整形外科に足を運んでいるのも知っている。大病で入院などしたことはなくとも、細かな不調が積み重なってきたのか。

「とはいえ明日今すぐに、などではありません。スタッフの皆さんの生活もありますから、少なくとも今年いっぱいは続けるつもりです」

「私以外にそれを知っている人はいるんですか。谷萩さんとか」

「いいえ、まだ誰も。他の皆さんには正式に決めてからお伝えしようかと。未確定な状態でお伝えしても、混乱させてしまうだけでしょうから」

 身内の時見すら困惑したのだ。これまで閉店をにおわせるような言動がなかったぶん、衝撃を受けずにすんなり受け入れるスタッフは誰もいないだろう。谷萩あたりは大袈裟なほど驚きそうだ。

 店内に再び沈黙が落ちる。BGMが流れておらず、自分たち以外誰もいない静かなそこは店がいつか迎える最後の姿だ。電気も消えて、椅子やテーブル、カップなどが撤去されてがらんとした幻が目に映った気がして、時見はまばたきをくり返した。

「……残念がるでしょうね。スタッフも、お客さまも」

「僕の勝手に皆さんを振り回してしまって申し訳ないです。怒られてしまうかな」

「誰も店長を――じいちゃんを責める人はいないと思う」

 店長とスタッフの一人ではなく、草栄の孫として言葉をかける。コーヒーを一口飲むと、先ほどより苦みが増している気がした。

「この店をどうするか決めるのはじいちゃんだから、俺や他の誰かがどうこう言えないよ。けど、本当にいいの」

「迷いが無いわけではありませんよ。『悩んでいる』と言ったでしょう? 店を続けたい気持ちがないわけではないんです」

 しかし、と草栄の目が外に向けられた。皺だらけの手はカップから離れず、心細そうにずっと縁を撫で続けている。

「経営がかなり厳しいのも事実です。昔に比べて喫茶店やカフェが増えましたからね。はっきり言って、うちも以前ほど繁盛していない」

 駅前には有名チェーン店がある上、駅の近くには若者向けの洒落た店が年々増えている。その中で〝喫茶店 エスコ〟は最寄駅から徒歩で十五分という少々時間のかかる立地もあって、他店との客の取り合いに負けてしまうのだ。

 ――それだけじゃない。

 浅葱を捜しに来た緋衣が「見つけんの難儀した」と吐露していたように、店が入っているビル自体が住宅街の中にあるからか、新規の客に見つけてもらいにくい。たまたま前を通りかかってふらっと入ってみた、という客も滅多にいなかった。

「でもこの前のゴールデンウィークとか、かなり忙しかったって谷萩さんから聞いたのに。今日も初めての若いお客さまが何人かいらしてたし」

「この時期は皆さんどこへなりとお出かけされますからね。そういった方が足を運んでくださったのでしょう。しかしこれからの平日も同じくらい盛況するかと聞かれれば、僕は『否』だと思います。厳しいまま続けて皆さんに迷惑をかけたり、急な病にかかってなにも指示を出せないまま倒れてしまうより、自分で判断を下せるうちに終わる方が良い」

 祖父の口調は時見というより自分に言い聞かせるようなそれだった。妻の夢を実現させたここを本当に畳むべきか、苦しみ悩んできた重みがじわりと感じられる。

「『ここに来てコーヒーを飲まないと一日が始まらない』と仰って下さる常連さんもいらっしゃいますし、僕としてもお客さまに会えなくなるのは寂しい限りです。四十年以上も続けてきた日常に区切りをつけるのも、ね」

「……誰か、後を継ぐ人は」

「身内に候補がいれば良かったんですが、いませんねえ」

 草栄の子どもは時見の母だけで、母が時見のように喫茶店を手伝っていたのは嫁ぐまでの間だ。現在もたまに草栄の様子を見に顔を出しには来るけれど、スタッフの一人として働いてはいない。

 孫は時見と輝恭がいるが、時見はいずれ実家の寺を継ぐ。一方、輝恭はアイドルとして成功している。どちらも考慮した上で草栄は「身内に後継の候補はいない」と結論付けたようだ。

 答えは半ば分かっていた。なのにわざわざ聞いた己が恥ずかしい。

 ――こんなの、じいちゃんを傷つけただけだ。

「身内以外もいないの。昔から働いてくれてるスタッフさんとか」

「そういった方も僕と同じくらい高齢ですから。……良いんです。無理に後継ぎを見つける必要はありません。始まりがあれば必ず終わりが来ます。〝諸行無常〟は僕よりも時見さんの方がご存知ではありませんか」

 この世のあらゆるものは移り変わり、不変のまま留まることは無い――平家物語でも記された仏教の教えだ。なにも言えないまま、時見は腿の上で両手の拳をきつく握る。

 迷うことなく「俺が店を継ぐ」と言えたら良かった。草栄も時見がそう言ってくれるのを待っていたかもしれない。けれど現実は厳しく、仮に寺を継がなかったとしても、頻繁に体調を崩す現状を考えるとやはり継ぐとは即答しにくい。

 この店を愛してくれている客たちはなんと反応するだろう。残念がるか、寂しがるか。あるいは淡々と受け入れて、閉店したら別の店を行きつけにするだけかも知れない。

 ――浅葱は、どうなんだ。

 カウンター席の正面にある壁、そこにあるクラゲ型の照明に目を向ける。営業中ではないため、今そこに明かりは灯されていない。

 ここが無くなれば当然、浅葱と顔を合わせることは無くなる。姿勢よく食事をする姿も、黙々とノートにペンを走らせる音も、石像のごとく硬直して照明を凝視する横顔も、どれも見なくなるのだ。

 想像しただけで、喉と鼻の奥がきゅうっと詰まる。この気持ちがなんなのか分からなくて、頭が冴えればとコーヒーを飲もうとしたけれど中身はいつの間にか空になっていた。

「雨が落ち着いてきましたねえ」

 草栄が安心したように微笑んで立ち上がる。窓ガラスに当たる雨は、話しているうちにぽつぽつとしたものに変わっている。雷も聞こえなくなり、これなら傘の意味がないほどひどく濡れることは無さそうだ。

「またいつ激しくなってくるか分かりませんし、出るなら今のうちでしょう」

 うん、と声になっていない声で返答して、時見もカップを片手に立ち上がる。草栄が使っていたそれも回収して洗い場に運んでいると、かろん、と鈴の音が背後から聞こえた。蛇口をひねろうとしていた草栄が怪訝そうに手を止める。

「今ドアが開いた音がしたような。鍵は閉めたはずですが」

「俺見てこようか」

 もし鍵のかかりが甘く、誰か入って来ていたのでは大変だ。

 確認しに行くと店内には誰もおらず、ドアの鍵もしっかりかかっていた。強風でドアが揺られたか別の音を聞き間違えたかしたのだろう。

「大丈夫だよ、鍵閉まってる」

 ふり返ってキッチンに大声で伝えれば、水の音に紛れて「なら良かったです」と返ってくる。

 その直後、とんとん、とドアからノックが聞こえた。激しさのないささやかな音で、注意していなければ聞き逃しそうなほどだ。

「……誰かいるのか?」

 返事はない。警戒するあまり声が密やか過ぎたのと、外の雨音にかき消されてドアの向こうの何者かに届かなかったようだ。

 恐る恐る鍵を開け、慎重にドアを手前に引いてわずかな隙間から様子を窺う。外の照明を切ってあるため明かりが無く、人影があることしか分からない。照明のスイッチを入れて改めて何者かを注視した時見ははっと息をのんだ。


 長机に肘をついて指を組み、その上に額を預けて琉佳りゅうかはため息をついた。落とした視線の先にはノートが広げられ、書いては消してをくり返した文がページいっぱいに広がっている。

 一ヵ月前からろくに進んでいない作詞作業である。ボールペンを使ったせいで消しゴムをかけられず、納得のいかないフレーズはペン先でぐちゃぐちゃと押し潰すように黒く塗り消す。その積み重ねでページから白い箇所がどんどん消えていった。

 目頭を揉むべく眼鏡を外せば、視界は水中のようにぐにゃりと歪む。高校の頃から近視と乱視に悩まされているのだ。眼鏡が無ければ数メートル先の景色さえまともに判別出来ず、慣れた土地なら感覚で歩けるのでまだ良しとして、それ以外の場所となるとあらゆる景色がおぼろに滲み、自分がなにを目指して進めばいいのか分からなくなる。

 書きかけの歌詞もそうだ。塗りつぶされたフレーズがあちこちに広がり、一度は納得したそれさえ侵食して染めてしまう。歌詞を通してなにを伝えたいのか、当初は見えていたはずのゴール地点は黒く覆われて見えなくなっていた。

「なーんや落ちこんどるね」

 こつ、と頭頂部に硬い感触が当たる。緩慢に顔を上げると、向かい側から身を乗り出した青士せいじがほんのり笑いながら琉佳の頭に缶コーヒーを乗せていた。

 今日は昼から事務所の会議室にランディエ全員とマネージャーが集まり、夏に開催予定のライブに向けて打ち合わせをしていた。曲はなにを披露するか、衣装はどれにするか提案し合う中で話は制作途中の歌詞に及び、進捗が思わしくないと告げたのが五分前のことだ。

「おー、リューカくんが眼鏡外しとんの久々に見たわ。これ指何本立てとると思う?」

「三本」躊躇いなく答えながら眼鏡をかけ直し、缶コーヒーを受け取る。「さすがにそれくらいは分かる」

「そこまで目ェ悪ないか。それブラックやけど良え? 一応お砂糖入っとるのもうてあるけど」

「こっちでいい。ありがとう。……怒ってないんだな」

「怒る? 僕が? なんで?」

 青士がパイプ椅子に腰かけて、自分用のコーヒーを開けつつ首をかしげた。特徴的な青髪のポニーテールが動きに合わせて揺れる。

「進みが良くないって言った矢先に、お前も亜藍も、マネージャーまでいきなり部屋を出て行ったから。怒らせてしまったかと」

「いきなりちゃうよ。ちゃんと『ちょっと休憩時間にしよか』て言うたよ」

「……知らない」

「『絶対怒られる』思てて、それに気ィ取られて僕がなに言うたかちゃんと聞いてへんかったんやな。それこそ怒るで。怒らへんけど」

「どっちだ」

 とりあえず怒らせたわけでは無かったことに安堵して、琉佳もコーヒーに口をつけた。コクのある香りが鼻を抜け、甘みの一切ない純粋な苦さが口内に広がる。

「じゃあ亜藍あらんは? あいつもどこか行ったきり戻って来てないが」

「『お腹空いた』てマネージャーに愚痴っとったから、二人でなんか買いに行ったんちゃう? コンビニ行くんやったら適当にスイーツ買うてきてーて頼んどいたら良かった」

 ぐでー、と机に突っ伏した青士が、上目遣いに琉佳を窺ってくる。

 切れ長の目に滑らかな鼻梁、紅を刷く必要が無さそうな赤い唇と、その右下にぽちりと落ちた小さな黒子。よく手入れされた長髪は艶めいて癖一つなく、手首から指までのしなやかなラインはまるで芸術品だ。どの瞬間、どの角度、どの表情を取っても画になる。琉佳が黙って凝視していると、青士が「なんや観察されとる気分やな」と頬を膨らませる。

「観察してるわけじゃない。ただ――」

「『見てると落ち着く』んやろ。何回聞いたと思てんねん。悪い気ィせぇへんでええけど」

 嘘では無いのだろう。青士は首筋にかかっていた髪を優雅に払って笑う。それだけの仕草すら無駄なところが一切なく流麗で、琉佳にインスピレーションを与えてくれる。

 昔から美しいものを見ると、頭の中に次々とアイデアが湧いてきた。特に惹かれるのが明かりで、炎であったり電気であったり、光を放ち輝くものに目を奪われる。それを逃がさず捕らえておくかのような照明器具ももちろん好きで、個性的なものであればあるほどいつまでも見ていられるし、どれだけ心が荒んでいたとしても自然に凪いでいく。

 人に対しても同じだ。明かりと違って物理的に光っているわけでは無いけれど、外見や性格など琉佳が〝美しい〟と感じた相手は不思議と輝いて見える。

 その筆頭が青士だ。小学生の頃に初めて会ってから今まで、整った顔立ちとムードメーカーながら飾らない性格に美しさを覚えて、そのたびに詩や物語の一幕が脳内に溢れた。

 ――でも、最近は。

「ほんで、ちょっとは元気んなった?」空になった缶をことことと揺らして、青士が訊ねてくる。「自分で分かってへんかも知れへんけど、打ち合わせ中のリューカくん、ずぅっと死にそうな顔しとったで」

「そんなにか」

「今にもぶっ倒れるんちゃうかってくらいな。目ェの下の隈も濃いし、ろくに寝やんまま作業してんねやろ」

 長い付き合いだけあってお見通しらしい。琉佳が肯定も否定もしなくても、青士は確信をもって責めてくる。

「あかんよ、ちゃんと寝やな。早寝早起きと美味しいご飯に優るもんは無いねんで」

「……すまん。でものんびりもしてられないだろう。俺が書かなきゃ、次に進めない」

「そらそうやけど。こんなつまずいとんの初めてちゃう? いつもやったら僕の顔とか、お気に入りの電気とか見たらすぐポンポン書いとったやん」

 青士が指摘したように、およそふた月ほど前から、美しいものをどれだけ眺めてもなにも浮かばない。

 初めは見飽きたのかと思った。いくら美しくて好きなものとはいえ、心のどこかで変わり映えの無さを覚えていたのではと。

 普段は事務所近くのカフェに足を運んで作業をしていたのだが、ものは試しと違う店に訪れて良さげな明かりのほか感性を揺さぶられるなにかを探してみた。しかし思うような効果は得られず、作業は一進一退のまま停滞した。

 明確な変化を感じたのは三月末のことだ。事務所の後輩に紹介されて向かった喫茶店で、琉佳は新たな〝美しいもの〟と出会ったのだ。

『浅葱さん』と川のせせらぎに似た清澄な声が耳の奥に響く。指切りを理由に何度も絡めた小指はつるりとしていて細く、触れているうちに溶けてしまいそうな儚さがあった。

 あの冷たさが恋しい。顔を伏せて小指を擦っていると、「やっぱアレのせい?」と青士の潜めた声が鼓膜を揺らす。

 アレ――琉佳がスランプに陥る直前から事務所に届き始めたのことだ。琉佳は手を留めて正直にうなずく。

「あんなん気にしたらあかん。っとき」

「そういうわけにもいかない。貴重なアドバイスの一つとして受け入れる必要はある」

「なにがアドバイスや。そんな大層なもん違うやろ」

 穏やかで感情を荒らげることのない青士にしては珍しく、忌々しそうに柳眉を逆立てて吐き捨てる。ファンには決して見せることのない表情で、琉佳ですら片手で数えられる回数しか拝んだことが無い。

「素直なんはリューカくんの良えとこやけど、限度ってもんがあんねん。受け流すもんとそうでないもん、取捨選択せな」

「分かってる。俺なりに考えてるんだ。ランディエにとってなにが最善か――」

「戻ったぞ」

 軽めのノックを三回して、返事もしないうちにドアを開けて亜藍が入ってきた。彼は右手に紙製の小さな箱を、左手に白く細長い封筒をそれぞれ掴んでいる。

 おいでおいで、と青士が穏和な笑みで隣のパイプ椅子を引いて亜藍に座るよう促す。亜藍は浮かない表情のままそこに腰を下ろし、手にしていた箱を慎重に机に置いた。

「なにこれ? なんか買うてきたん?」

「ここ来る前にな。常温で置いとけないから、冷蔵庫借りて冷やしてあったんだ」

「なるほどー。お、この箱リューカくんがよう行く喫茶店のやん」

 琉佳の位置からは見えなかったけれど、青士が「ほら」と動かしたおかげで箱の側面に記された店名がはっきり読めた。ただそれだけなのに、この一ヵ月弱で慣れ親しんだ店の内装と、そこに漂う香りの幻が目の前に広がって懐かしさがこみ上げる。

「お前も行ったのか」

「あ、慌てて家出たから朝ごはん食べ損ねてて、腹減って仕方ないから適当に入った店がそこだったんだよ。へー、琉佳先輩の行きつけだったのかー! 知らなかったなー!」

 妙に早口かつ棒読みな気がしたが、朝ごはんを食べ損ねた、つまり寝坊したことが露見するのが恥ずかしかったのだろう。亜藍は顔を赤くしながら、こっそり箱を開けようとしていた青士の手を叩き落としていた。

「なに入っとるか見ようとしただけやのに」

「俺が買ってきたから俺が開ける! ――けど、その前に」

 亜藍は青士の手が届かない位置まで箱をずらしてから、左手の封筒を机に放った。マネージャーが一度開封したのか、上部はカッターで切られている。表には宛先が印刷されているけれど、裏を見ても差出人は記されていない。

「あ、コラ」

 青士が止めるのも構わず、琉佳は封筒に手を伸ばす。中には折りたたまれたコピー用紙が一枚だけ入っており、引っぱり出して静かに広げた。そこには封筒同様に印刷された文章が連ねられ、事務的な雰囲気があるものの、記してあるのは先日出演した音楽番組の感想――要するにファンレターだ。

 だが好意的な意見は冒頭だけで、読み進めるうちに内容は変わっていく。

〈浅葱琉佳はランディエにふわさしくない〉

 その一文が、琉佳の胸に重たく沈んだ。

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