1章――②

〝喫茶店 エスコ〟は定休日の月曜以外、毎日朝の九時から開店する。開店から十一時半まではモーニングの提供時間で、ドリンクを一杯頼むとこんがり焼けた厚いトーストと日替わりサラダが無料でつくのだ。トーストにはバターとハチミツをお好みでかけられ、シンプルで懐かしい味に根強いファンがついている。

「風邪はもう治りましたか」

 店主の花菱はなびし草栄そうえいに訊ねられ、時見はオーダーを記した紙をカウンターに置いてから「おかげさまで」とうなずいた。彼は時見にとって母方の祖父だ。開店から四十年以上経ち、八十代半ばになった現在も店に立ち続けている。

 草栄は安心したように恵比須顔を浮かべてコーヒーミルのハンドルを回す。ごりごりと豆を挽く音がクラシック音楽に乗り、ログハウスをイメージした店内に広がっていった。

「急に休んでしまってすみませんでした」身内であっても、仕事中は店長たる祖父には敬語を使うのが時見の方針だ。「体調には気をつけていたんですが」

「暖かくなったり寒くなったり、気温の移り変わりが激しかったですからね。無理もありません。お気になさらず」

 草栄の口調も丁寧だが、彼は仕事中に限らず普段から誰にでもこうである。穏やかな声は土に染み入る雨に似て、迷惑をかけたのではと懸念する時見の胸を静かに潤した。

「季節の変わり目は時見さんに限らず、僕でも気候の変化についていけず厳しく感じます。あまり自分を責めてはいけません。子どもの頃に比べれば丈夫になったのですから、まずはそれを誇りましょう」

「お気遣いありがとうございます。しかし」

 ――それに甘えてばかりいられないのも分かっている。

 生まれつき体が弱く、また〝泥〟を視る影響も重なって時見は昔から体調を崩しやすい。成長するにつれ健康維持には人一倍気をつけるようになったが、それでもワンシーズンに一度は寝込みがちだった。

「いずれ寺を継ぐ身として、しっかりしなければならないんです。もっと自己管理を徹底しないと」

「寺を……ああ、なるほど。やはり時見さんが継ぐんですか」

「長男ですから」

 時見の実家は代々続く寺だ。現在は父が住職を務めており、いずれ時見が継ぐ予定だが心配事もあった。

 ほとんど覚えていないが、幼少期に風邪をこじらせて入院したことがある。一時意識を失って命が危ぶまれたのもあって、また同じことが起こるのではという懊悩が常に頭のすみで燻ぶっていた。

「万が一、私が継げない場合の代わりは輝恭ききょうなんですが」

「そうなんですか? しかし輝恭さんはお忙しいのでは。昨晩も音楽番組に出ていましたし」

「らしいですね。両親は観ていました」

 弟の輝恭は学生時代に幼馴染みと二人でアイドルユニットを組み、デビュー以来精力的に活動し続けている。当初、彼の選んだ道を家族で応援していたのは母だけで、時見と父は「もしかしたら輝恭が後継者になる可能性もあるのだから」と反対する立場だったのだが。

「驚きましたよ。テレビの前で二人してペンライトを握っているんですから。まったく、父はいつの間に輝恭を認めたのか」

「時見さんはご覧にならなかったんですか」

「腹が立つのが分かっているので、観ないことにしています」

 きらきらと派手な衣装を身にまとい、輝かしい照明の中で歌って踊る弟の姿は生命力に溢れている。強気な言葉と笑顔が眩しければ眩しいほど、時見はなんのしがらみも無く生きる輝恭に苛立ちを覚えた。

「すみませーん」

 店内にはテーブル席とカウンター席があり、だいたい半分ほど埋まっている。そのうちテーブル席の客に呼ばれ、時見は意識を切りかえてオーダーを取りに向かった。席にいたのは近くに住む年配の婦人グループで、時見が口を開くより早く「久しぶりじゃないの」「ちょっと聞いてよ。うちの旦那がね」と代わるがわるに言う。

「おばさまたち相変わらずですねー」

 婦人グループから解放されたのは十分後だった。どうにかドリンクを聞きだして調理担当のスタッフに伝えに行くと、別の客の会計を済ませた谷萩にそう労われた。

「次々に話が変わるから、まったく口を挟む隙が無かった……」

「あたし以上にお喋りですからね、あのおばさまたち」

「お喋りな自覚はあったのか」

「お兄ちゃんに『話がころころ変わり過ぎてついていけない』ってよく呆れられるので。弟にいたっては『姉ちゃんうるさい』ってそもそも聞いてくれません。ちゃんと聞いてくれるのお母さんか店長か、磯沢さんくらいです」

 今まで話してくれた内容を全て覚えているかと聞かれたら正直怪しい。「ちゃんと聞いてくれる」と思ってもらえているのはありがたいけれど。

 ちん、とトースターの音が鼓膜を揺らす。「これカウンターの六番さんにお願いします」と別のスタッフからモーニングセットの乗った盆を渡され、時見は指定された場所に目を向けた。

 六つあるカウンター席のうち、会計から一番遠い位置にあるのが六番だ。そこに腰かけていたのは浅葱だった。なにやら俯いて熱心に手を動かしている。

「失礼いたします。モーニングセットをお持ちしました」

 時見が声をかけると、浅葱はゆるりと顔を上げ手元に広げていたなにかをさっと脇に寄せた。手のひらサイズのリングノートとボールペンだろうか、ちらっと見えたページは文字で埋まっていた。

 浅葱が注文していたのはフレーバーティーだ。桜とイチゴの香りはこの時期限定である。ティーカップと茶葉が入ったポット、トーストとサラダを順に並べてから「ごゆっくりどうぞ」と言おうとして、時見は口を噤んだ。

 視界の端で、一瞬だけ泥が揺らいだ気がしたのだ。

「どうしましたか」

 硬直した時見に、浅葱が怪訝そうに首をかしげている。

「あ、いえ」

 泥がどこから漂っているのか気になるが、この場で確認するわけにもいかない。「なんでもありません」と誤魔化して浅葱を見ると、瞳にほのかな困惑が揺れていたがすぐに消える。ほっと安心して今度こそ「ごゆっくりどうぞ」と言い切り、時見は早歩きで離れた。

「浅葱さんて綺麗ですよねー」

 もと居たレジ付近に戻ると、谷萩が惚れ惚れしたように手で頬を包んでいた。

「綺麗って、ああ、顔が?」

「違いますよ。食べ方です」

 浅葱はぴんと背筋を伸ばしてから合掌すると、数秒目を伏せてからサラダにフォークを突き刺す。のんびりとレタスを咀嚼する姿は妙に画になり、姿勢の正しさも重なって確かに綺麗だった。

「いつまでも見てたくなっちゃいます」

「お客さまをあまりじろじろ見るのは感心しないけど」

 時見の苦言に、谷萩は「心得てます」とばかりに胸を張る。

 浅葱はトーストを頬張りながら、どことも知れない一点をじっと見つめていた。こちらに意識は向けていないだろう。

 ――……少しだけ、なら。

 泥がどうしても気にかかり、時見はわずかに眼鏡をずらした。瞬間、店内に散らばるそれが一気に明白になり、思わず眉を寄せてしまう。

 先ほどの婦人グループが喋るたびに出てくる泥は愚痴の象徴だ。抱えている不満の量に比例して泥も大きくなるけれど、彼女たちの場合は団子並みに小さなものがぽろぽろと零れている。

 小さいからと言って安心できるわけでもない。泥は最終的に互いが引き寄せあい、より大きな泥と化して不満の矛先にまとわりつく。塵も積もれば山となる、だ。

 他にもちらほら泥を吐いたり、あるいはまとう客がいるが、特別おかしいわけではない。人は誰しも他人に不満を抱えたり、抱えられたりしているものだ。

 当然、浅葱もそうなのだけれど。

 ――なんだ、あの量は。

 彼の右腕は大量の泥に覆われて、完全に見えなくなっていた。

「あれ? 眼鏡外して平気なんです?」

 谷萩が心配そうに問いかけてくる。時見は彼女を一瞥して曖昧にうなずき、浅葱に視線を戻して眉間のしわを深めた。

「いつも思うんですけど、眼鏡かけたら呪いが視えなくなるのって、なんか水の中でゴーグルするのと似てますよね。なにも無いとぼやけるけど、あったら一気に視界がクリアになる的な。磯沢さんの眼鏡って呪いが視えないようになにかしてるんです?」

「少しだけ度は入ってるけど、特になにもしてないよ。レンズが一枚あればそれだけで防げる。……それより谷萩さん。浅葱とかいう彼、アイドルなのか」

「へ。あーえっと、どうだったかなー」

 口笛を吹こうとしているのか、谷萩は唇を尖らせているものの一向に鳴る気配がない。はぐらかし方としても口笛としてもあまりにお粗末だった。

「嘘つきは舌を抜かれるぞ」

「って言われても。だって磯沢さん、その話題好きじゃないって結構前に言ってませんでした?」

「確かに得意じゃない」

 アイドルと聞くと弟が脳裏によぎって、反射的に苛立ってしまうのだ。だから出来るだけ連想しないようにその話題は避けていた。

 しかし今は違う。「教えてほしいんだ」と頼めば、谷萩は迷ったように唇をへの字に曲げてから口を開いた。

「〝ランディエ〟っていう三人組のアイドルユニットがあるんですけど、浅葱さんはそのメンバーなんですよ。デビューしたの二年前だったかな? 衣装と曲が中華っぽい雰囲気で、あたしは結構好きです。作詞はほとんど浅葱さんが担当してたような」

「ずいぶん詳しいんだな。ファン?」

「そんな大層なものじゃないですよ。あたしよりお兄ちゃんの方が詳しくて、色々話されてるうちに興味が出たんでシングルの配信いくつか買ったってだけで。あとで聴いてみます?」

「機会があれば」

 弟とその幼馴染以外に芸能人の知り合いがいないためはっきりした比較は出来ないが、一般人に比べて芸能人は泥が多い傾向がある。テレビや雑誌を通じて人の目に触れる数が増えるだけ、他者から向けられるネガティブな感情も増えるのかも知れない。

 そう考えれば、浅葱の腕を覆う泥が多いのもどうにか納得できる。時見は眉間を揉み、眼鏡をかけ直してため息をついた。

「さすがにあれは、ううん……」

「え? もしかして浅葱さん誰かに呪われてたりします?」

「恐らく。谷萩さんみたいに特定の誰かからか、不特定多数からかは判別出来ないけど」

 だいたいこれくらいの量だと手ぶりを交えて説明すれば、谷萩の表情が渋くなる。

「ヤバそうな量じゃないですか。あたしよく分かりませんけど、呪いって放置しといて大丈夫なものなんですか」

「よくはない。例えば浅葱みたいに腕があれだけ覆われてると、痛みとか怠さとか、悪影響が出てもおかしくないから。食事や会話をきっかけに体内に入ったりすると精神にも問題が出かねないし、出来るだけ早く取った方がいいとは思う」

 泥は基本的に時間とともに薄れてなくなるが、浅葱のそれが自然消滅するとすれば短く見積もって半年だろう。それを待つ間に泥が増えれば振りだしだ。

「谷萩さん、彼と話したことあるんだろ。会計の時にでも『神社に行ってお祓い受けてこい』って伝えてくれないか」

「無理ですよ」谷萩が顔の前で手を振って即答する。「話したことあるって言っても『良い天気ですね』とかその程度ですもん。いきなり『神社行ってこい』はさすがに不自然すぎます」

 ごもっともな反論だ。浅葱も不審がってまともに受け取らないに違いない。

 浅葱は重たそうに右肩を回している。なにかしら違和感を覚えているのは明白だった。

「……それとなく触るしかないか」

 幸いサラダの皿がすでに空になっている。回収を口実に近づき、偶然を装って軽く触れるだけでも多少は効果があるだろう。

「失礼いたします」緊張した足取りで浅葱に近づいて、時見は彼の右側に立った。「空いたお皿をお下げしてもよろしいですか?」

 しかしどれだけ待っても浅葱は反応を示さない。思考の沼に入りこんでいるのか、一点をじっと見つめたまま固まっている。

 普段なら怪しむところだが、今はかえって好都合だ。泥の薄れ具合を確かめるため眼鏡をずらし、「お客さま?」と声をかけつつ彼の肩に手を添えるようにして触れる。

 泥は時見の手を中心に、波紋のごとくざあっと引いた。その瞬間に我に返ったのか、浅葱が深く息を吸うのが聞こえた。彼は何度か目をまたたいて、ようやく時見がそばにいることに気づいたようだった。

「なにか御用でしたか」

「お皿をお下げしようとお声がけしたんですが、聞こえていらっしゃらないようでしたので少し肩を叩きました。申し訳ありません」

「こちらこそ無視してしまってすみません」

 どうぞ、と差し出された皿を受け取って、去り際に浅葱の右腕をもう一度確認する。泥はまだかなり残っているが、泥が動くたびにもとの腕が覗く程度には薄れたようだ。

 ――やっぱり一度できれいさっぱり消えるわけないか。

 ――今のところ週に三、四回は店に来てるし、このまま継続して祓えればなんとか……。けど適当な理由をつけて触るのも難しい。さっきみたいに呆けていてくれれば楽なのに、毎回そうもいかないだろうし。

 小さく唸りながら、他の席にもあった空き皿を回収する。

 その背中を、浅葱の目がずっと追っていたことには気づかなかった。

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