松が繭を破るとき

小野寺かける

1章――①

 暗闇が苦手だ。自分という存在が黒く塗りつぶされて、この世から消える恐怖に苛まれてしまう。


 甲高く耳障りな機械音が響いて、磯沢いそさわ時見ときみは重いまぶたを開けた。

 ベッド横の小窓の外はすでに明るい。枕元に置いた目覚まし時計のやかましさにかき消されかけているが、スズメの可愛らしい囀りも飛び交っている。

「……うるさい」

 べち、と半ば力任せに時計を叩いて音を止め、慎重に体を起こす。屋根裏を改装した自室は天井が斜めになっており、勢いよく起きると頭をぶつけかねない。初めて一人部屋を与えられた中学生の頃は何度痛い思いをしたことか。ここで寝起きするようになって十五年ほど経つが、年に一度くらい未だにぶつける。

 背中にべっとりと嫌な汗をかいていて、不快感に眉を寄せた。暦の上では春だというのに寒気が居残り、羽毛布団と毛布を手放せない日々が続いていたが、いきなり季節が変わったらしい。フローリングの床に素足をつけてもひんやりせず、暑さに堪えられなかったのか、普段の寝相は良いはずなのに布団が半分以上落ちていた。

 ――いや、汗の原因は気温だけじゃないな。

 数分前まで見ていた夢を思い出しそうになり、慌てて首を振る。

 光が無く、上下左右の感覚もあやふやになる暗闇には自分一人しかいない。呼びかける声は反響することなく消え、ひとまず前に進もうとしてもなぜか足が動かない。ふと視線を落とすと、足首に黒い泥のようなものが絡みついている。

 それが這いあがってきて、全身を覆いつくされて悲鳴を上げる――子どもの頃からくり返し見ている夢だ。

「顔洗うか……」

 眼鏡ケースを掴んで独り言ち、部屋を出てそのまま洗面所に向かう。

 鏡を覗きこむと、やつれた表情の男と目が合った。紺色を帯びた黒髪は寝ぐせで方々に散り、眉間には深いしわが刻まれている。その下の黒々とした瞳に活力は無く、目元の隈が疲労を物語っていた。

 ――我ながら死人みたいな顔だ。

 お世辞にも肉づきが良いとは言えない輪郭はほっそりしており、学生の頃には〝骸骨〟と悪意に満ちたあだ名をつけられたこともある。女子からたまに羨ましがられる肌は白く、血の気は感じられるものの健康的とは言い難い。

「あら、起きてたの時見」

 鏡にひょいと母が映りこむ。「おはよう」と朗らかに笑う顔は時見とあまり似ていないが、柔らかく垂れた目尻に血筋を感じた。

「あんたにしては珍しく寝ぐせ酷いじゃない。ちゃんと髪乾かして寝たの?」

「乾かした、はず」

「〝はず〟じゃ駄目よ。濡れたままだと風邪引くんだから。やっと治ったばっかりなのにぶり返したらどうするの。それにそろそろ美容室行ったら? 前髪鬱陶しくないの」

「分かってるって。髪もそのうち切りに行く」

 おざなりな返事に母は「まったくもう」と肩をすくめて、洗面所の脇にあるトイレに入っていった。恐らく母もこのあと身支度をするのだろう。いつまでも突っ立っていたのでは邪魔になる。手のひらいっぱいに溜めた冷水で顔を洗うと、気分も思考もいくらかすっきりした。

 濡れた顔をタオルで拭っていると、「そういえば」とまた母に話しかけられた。用を足して手を洗いに来たようだ。

「今日の昼くらいに輝恭がちょっと家に寄るみたいだけど、あんたどうするの」

 七歳年下の弟の名前に、時見の頬がじゃっかん引きつった。

「寄ったところですぐに帰るんだろ」

「夕飯ぐらい食べていきなさいって連絡はしてあるわよ。まあ多分、忙しいからってすぐに帰っちゃうでしょうけど」

「だったら俺には関係ない。夕方まで仕事だから。もし夜まで居座りそうなら一報入れてほしい。帰る時間ずらす」

「あんたも頑固ねえ。いつになったら仲良く出来るの」

「あいつがあんな仕事続けてる限りは無、」

 無理、と言いかけて、時見は顔を拭い終わった姿勢のまま固まった。突然言葉が途切れて不審に感じたのだろう、母が首を傾げながらこちらに目を向ける。

 正確に言えば、向けているはずだ。

 母の顔は、黒く淀んだ泥のようなものに覆われて全く見えなくなっていた。

「時見?」

 肩をつつかれてようやく我に返り、「なんでもない」と取り繕ってから慌てて眼鏡をかける。途端に母の顔を覆っていた泥は見えなくなり、きょとんとした表情がはっきり分かった。

「なに、やっぱりまだ体調悪いの?」

「大丈夫。ちょっと寝ぼけてただけだ。母さんこそ微妙に顔色悪いけど」

「あー最近あんまり眠れてなくて。職場で色々あるから、そのストレスかも」

 母はホームセンターでパートとして働いているが、最近になって店長が変わったり、仕事内容が変わったり、その他人間関係で困りごとがあると父を相手に日々愚痴っている。

 ――ってことは、母さんも誰かから愚痴を吐かれてる可能性があるんだな。

「ちょっとじっとして」時見は母の肩に手を伸ばし、埃を払うようにさっと振るう。「ゴミついてた」

 礼を言う母の顔を、眼鏡をわずかにずらして窺った。

 泥は完全に無くなってはいないが、先ほどに比べて眼鏡越しでなくとも表情が分かる程度に薄れている。また適当な理由をつけて触れればあと二、三回で完全に消えるだろう。夜にでも試してみなければ。

 朝食と歯みがき、仕事着を兼ねた白いワイシャツと黒いスラックスに着替えを済ませてからカバンを肩に提げて外に出る。すっきりと青い空を見上げれば、緩やかな風に押されて雲が流れていく。ちか、と視界の端でなにか瞬いた気がして目を向けると、本堂の反った屋根に朝日が反射していた。主棟の上にスズメが数羽留まり、気持ちよさそうに日差しを浴びている。

「おはよう」声をかけてきたのは作務衣姿の父だ。箒を手にしているため、山門から本堂へと続く石畳の掃き掃除をしていたらしい。「今から仕事か。昼頃に輝恭が来るって」

「知ってる、さっき母さんから聞いた。俺には関係ない」

「また、というか今回も顔合わせないつもりか。せっかくみんなで昼ご飯食べようと思ってたのに」

 やれやれと苦笑する父に無言で背を向けて、時見はさっさと山門を出る。五分ほど歩けば最寄りのバス停があり、ちょうどバスが到着していた。車内はスーツ姿のサラリーマンが目立ち、学生が少ないのは春休み真っ只中だからだろう。時見は運転席側で空いていた最後部の席に腰を下ろした。

 夢のせいで眠りが浅かったのか、バスの揺れが心地いいせいか、大きなあくびが漏れる。目的地は終点だからと時見は眠気に任せて目を閉じた。


 自分が視ている世界は他と違う、と気づいたのは幼稚園の頃だ。

 友だちと喋っていた時に、不意に彼の肩に乗る黒い塊を見つけた。手のひらほどの大きさの〝それ〟は泥に似てうねうねと常に形を変え、生き物のように脈打っていた。

「かたにへんなのついてるよ」と時見が指摘しても、友だちは左右の肩を確認してから「なにもないじゃん」と笑うだけだった。

 本人がそう言うのならそうなのかも知れない。一度は気にしないことにした時見だったけれど、翌日、翌々日と日を追うごとに友だちの肩にある〝それ〟は大きくなる。だというのに友だちは気にした素振りも無く、いつも通り遊んでいた。

 もしかしてあの黒い泥は自分にしか視えていないのか。不安になって先生や両親に相談した結果、予想は確信に変わってしまう。

 ――あの時は子どもながらに絶望したものな。

 バスから電車に乗り換えて三十分。時見は職場の最寄り駅の改札を通って、入り口付近に設けられたベンチに腰を下ろした。バスで思いのほかぐっすり眠ってしまった上に、電車で人混みに揉まれたのもあって頭が少々ぼんやりする。一六三センチという男にしては小柄な身長ゆえ、通勤時間帯は特に押し潰されそうになるのだ。職場に向かう前に休憩を取りたかった。

 駅構内は人々が忙しなく行きかう。腕時計を気にしながら早歩きをするサラリーマン、キャリーケースを転がしながら談笑する若いカップル、部活に向かうであろうジャージ姿の学生、券売機の前で目的地の料金を確認する老人。

 一見なんの変哲も無さそうな彼らであっても、もしかすると例の泥がまとわりついているのかも知れない。休憩するつもりだったのに結局そんなことを考えてしまって、いまいち気が休まらずにため息をついた。

「あれー、磯沢さんじゃないですか」

 不意に溌溂とした声に呼ばれて顔を上げると、正面から黒いお下げ頭の少女がこちらに小走りで向かってきた。時見と同じシャツにスラックス姿の彼女は、緑を帯びた黒色の大きな瞳に快活な光を浮かべて「おはようございます」とはにかむ。

「おはよう。谷萩さんも今日は朝から出勤だったのか」

「そうですー。部活入ってないんで、今のうちが稼ぎ時、みたいな」

 少女――谷萩やはぎ柚澄ゆずは張り切るように自身の二の腕を服の上から叩く。

「ていうかこんなとこ座ってなにしてたんです。誰かと待ち合わせとか?」

「いや、久しぶりの人混みに少し疲れて。ちょっと休憩してたところだ」

「なるほどー。あ、もしかしてあたし邪魔しちゃいましたかね」

「そんなことない、大丈夫。私もそろそろ行こうと思ってた頃合いだから、むしろちょうど良かったよ」

「そうです? なら安心しました。せっかくですし一緒に行きません?」

 特に断る理由もなく、時見はうなずいて立ち上がった。

 ここから職場まで徒歩でだいたい十五分ほどだ。もともとお喋りが好きな性格なのか、谷萩は道沿いに植えられた桜の樹を見上げて「もうすぐ咲くと思うんですよ」と枝の先を指さしたり、先日発売されたコンビニスイーツが美味しかったなど、次々に話題をくり出してくる。彼女と初めて会った一年前には弾丸トークにたじろいだけれど、今は完全に慣れた。

「そういえば体調はもう大丈夫なんですか?」

 大きな通りから外れて住宅地に続く道を曲がったところで、谷萩が声のトーンをおさえて訊ねてくる。世間話ついでに心配してくれているのではないと分かる表情に、時見は柔らかく微笑んだ。

「一週間近くも大人しく寝てればさすがにね。すまなかった、急に休んで迷惑をかけて」

「気にしないでください。磯沢さんが抜けた穴はみんなでカバーしましたし、あたし的にはお給料ちょっと増えたんでラッキーって感じです」

「……そう、か」

「けど良くなったって言っても、無理はしちゃ駄目ですよ。〝呪い〟が視えてるぶん、磯沢さんは気分悪くなりやすいでしょうし」

 自分より一回り以上も年下の少女に気を遣われるとは。ありがたさもあるが、それよりも情けなさの方が大きい。「気をつけるよ」と苦笑するしかなかった。

 自分の目に黒い泥が映ることを、時見は基本的に他人に教えていない。伝えたところで信じてもらえないのは幼少期に経験している。その中で唯一の例外が谷萩だ。

 彼女が働き始めて間もない頃だっただろうか。出勤早々、谷萩がやけに嬉しそうな顔をしていたためなんとなくどうしたのか訊ねたところ、クラスメイトの男子から貰ったという誕生日プレゼントを見せてくれたのだが。

『見てくださいこれ。可愛くないですか?』

『かわ……いい……? え? ぬいぐるみ、か?』

『キモカワ系ってやつです。ナマコに目と手足が生えたキャラなんですけど、これは黄色い子なのでキナマちゃんって名前がついてます。今結構ブーム来てて』

『いや、その』

 女子高生の流行りについていけずに戸惑っていると思われたのだろう。谷萩はキナマちゃんとやらを見せつつキャラクターの詳細なプロフィールを教えてくれたのだが、時見はそれどころではなかった。

 谷萩が手にしたそれが眼鏡のフレームから外れた位置まで動くたびに、例の泥がどろりとまとわりつくのが視えたからだ。

 泥は人だけではなく時に物も覆ってしまう。キナマちゃんに付着したそれはもとのぬいぐるみがどこにあるのか分からないほど分厚く濃く、明らかに異常と分かる。

 時見の表情があまりに険しかったようで、谷萩も異変を感じたらしい。「この子そんなに気持ち悪いですかね」と不安そうな彼女に、実は、と説明したのがきっかけだ。

 意外だったのは、谷萩が意外にあっさり信じてくれたことである。

『キナマちゃんにそんな変なのついてるんですか。なんでだろ』

『……私が嘘を言っているとは思わないのか』

『んー、だって磯沢さんがあたしに嘘つくメリットなくないですか? それに磯沢さん嘘つくの下手そうだし。むしろその泥がなんなのか気になります』

『私も正直よく分かってないんだ。悪口を言っている時に泥も吐き出されてるのを見たことがあるから、恐らくそういうネガティブな言葉とか思いとか形になったものなんじゃないかと予想してるけど』

『ネガティブな……なんかそれって呪いみたいですね。あれ、それつまりキナマちゃんも呪われてるってことでは?』

 普段は時見が触れれば泥は薄くなるが、谷萩からぬいぐるみを受け取ってみたものの効果を感じられない。

 手のひらに違和感を覚えたのは、なんとなくぬいぐるみの腹を揉んだ時だった。

「ほんとびっくりしましたよ。まさか中にあんなの入ってるなんて、普通は気づきませんもん」

 当時を振り返って背筋に悪寒が走ったのだろう。谷萩が肩をすくめて腕を擦る。

 彼女の許可を得てキナマちゃんを解体したところ、綿と一緒にこぼれ出て来たのは人間の爪だった。あれには時見も驚いて息を飲んだのを覚えている。

 のちに谷萩がプレゼントをくれたクラスメイトを問い詰めた結果、自分がやったと白状したという。クラスメイトは谷萩に恋心を寄せており、ネットで見かけた「意中の人を独り占めに出来るおまじない」としてぬいぐるみに自身の爪を潜ませたそうだ。

「磯沢さんが気がつかなかったら今も手元にあったのかもーって考えると、鳥肌たっちゃいます」

「新学期からはその子と別のクラスだと良いな。さすがに教師もそのあたりの配慮はしてくれるだろうけど」

「めっちゃお願いしてます、頼むから一緒のクラスにしないでくれって。でも未だに不思議なんですけど、なんで磯沢さんが触ると呪いって薄くなるんです?」

「さあ、よく分からない」

 はぐらかしているのではなく、本当に分からない。

 寺の長男として生まれたのが関係しているのかとも思ったが、少なくとも父や祖父に泥を祓うような能力は無かった。視る能力――霊感らしきものだって両親や弟も持っていない。

 家族の中で自分だけがおかしい。寂しさと孤独感が胸に押し寄せ、ちりちりと痛んだ。

「わー、もう並んでる」

 地面に落ちかけていた視線が、谷萩の声のおかげで前に向く。

 二人の勤務先である〝喫茶店 エスコ〟は閑静な住宅街の中にある。ぱっと見はなんの変哲もない小ぢんまりとした三階建てのビルだが、一階に喫茶店が入っている。開店までまだ三十分ほど時間があるけれど、飴色の扉の前にはちらほらと客が並んでいた。

 従業員用の出入り口に向かう道すがら、時見と谷萩が挨拶をすると返事や会釈で応えてくれる。客の多くは近所の住民で、年配層が多めの印象だ。

 その中で一人、色々な意味で目立つ男が立っていた。

 身長は時見より十センチほど高いだろうか。歳は二十代前半に見える。褐色肌に珊瑚色の髪、ウェリントン型の眼鏡は群青色、耳につけた吉祥結びを模ったと思しきピアスは露草色と、全身の色彩が鮮やかなのが良くも悪くも目を惹く。男は扉の周囲をじっと見つめて微動だにしない。

 初めて見かけたのは三ヵ月前だっただろうか。それから大体週に三、四回のペースで来店しているはずだ。服こそ違うがいつも同じ黒いリュックを背負っているため、記憶によく残っていた。

「あっ、浅葱あさぎさんだ。おはようございます」

 谷萩に声をかけられて、浅葱と呼ばれた彼はぺこりと頭を下げた。吊り気味の眉と引き結ばれた唇に意志が強そうな印象を受け、谷萩を真っすぐ見つめる狐色の瞳に生真面目さを感じた。

 浅葱は時見に視線を移すと、「どうも」と頭を下げてくる。芯の通った、低く温かい声だった。

「谷萩さんの知り合いだったのか」

「え?」列を通り過ぎてから訊ねてみると、谷萩が明らかにきょとんとした。「違いますけど、名前くらい知ってますよ」

「? なんで」

「だって浅葱さん、アイド……」

 なにかを言いかけた口の形のまま、谷萩は忙しなく目をまたたいて固まった。

 数秒待った末に、彼女はぱんっと手を叩く。

「順番待ちの名簿です! あれに名前書いてもらったことがあって」

「名簿? けどうちそんなの使うほど、」

「とりあえず入りましょう。開店前の準備しなきゃいけませんから!」

 ほらほらと時見を手招きして、谷萩がビルの裏手にある従業員用の出入り口を開ける。

 ――明らかになにか隠してるな。

 谷萩はなんと言おうとしたのだろう。「アイド」から続く言葉に一つ、強烈な心当たりがあるけれど。

 ――多分〝アイドル〟と言おうとして止めたんだろう。

 ――俺がそれを嫌いなのを知ってるから。

「磯沢さーん、ドア閉めちゃいますよ」

 焦れたように谷萩が唇を尖らせている。「今行く」と返事をして、時見は浅葱が並んでいる方向を一瞥してから店に入った。

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