1章――③

 翌日以降も、浅葱はやはり定期的に来店した。日によって来店時間は異なるが、決まってカウンターの六番席に座り、食前と食後にノートを広げてなんらかの作業をするのが店でのルーティンらしい。

 泥は薄くなるどころか濃くなる一方で、いたちごっこが続いている状態だ。触れる時間を長くすればそのぶん祓える量も増えるだろうけれど、いかに自然と触れられるか図りかねている。

「失礼いたします。デザートセットをお持ちしました」

 時見は浅葱の前にチョコレートケーキとアイスのダージリンを置いて、定位置であるレジ付近に戻る。本当は手が当たったふりをして少しでも泥を祓うつもりだったのだが、タイミングを逃してやり損ねた。

 ランチタイムを過ぎた店内に客は少なく、浅葱を含めても五人しかいない。どの席も注文を済ませており、新たな客が来ない限りしばらく呼ばれることもないだろう。お冷を入れるグラスを拭いたり、ディスプレイ用のマグカップを整えたりしながら、さり気なく浅葱の様子をうかがった。

 ――なにか良い方法はないものか。

 今のやり方ではあまりに効率が悪すぎる。かと言って「あなたの腕に呪いの泥がまとわりついているので祓いたい」なんて正直に伝えるとなると、浅葱が賢い大人なら霊感商法を疑うはずだ。最悪の場合は店に二度と来なくなるかもしれない上、おかしな店員がいると吹聴されかねない。

 今の時代、噂は簡単に広がるだろうし、語り手次第では尾ひれだってつく。時見だけがダメージを受けるならともかく、店にも悪い印象がついてしまっては困る。嫌な想像ばかりが頭の中を巡って、時見は深いため息をついた。

 相談出来て、かつ話題も思いついてくれそうなのは谷萩なのだが、あいにく今日は休みで助言を得られない。前もってコミュニケーションのパターンをいくつか聞いておくべきだった。

「浮かない顔をしていますね」

 草栄が音もなく隣に立ち、時見の顔を見上げてくる。加齢とともに背中が曲がり、いつの間にか祖父の背は時見よりも低くなっていた。それを実感するたび一抹の寂しさが胸を撫でる。

「なにか悩みごとですか」

「まあそんなところです。次のコースターの絵柄はどうしようか、とか」

 冷たいドリンクの注文が入った際には、グラスの下に紙製のコースターを置いている。絵柄は季節ごとの花で、以前は草栄が描いていたのだが店を手伝い始めた頃から時見が担当するようになった。

 草栄の問いかけに嘘はついていない。本当に次はなにを描くか悩んではいるのだ。

「そうですねえ」祖父はふっくらした顎を撫でながら、ゆらゆらと首を左右に傾ける。「去年の夏はナデシコを描いてくれましたし、定番のヒマワリはいかがでしょう」

「ヒマワリは一昨年描いたので、出来れば他のものにしたいんです。夏の花もたくさん種類がありますし、毎年なるべく違う花を描きたくて」

「ふむ。いくつか候補は考えているんですか」

「今のところキンギョソウとアジサイの二つで悩み中です。ただアジサイは梅雨のイメージが強くて、夏を通して使うのは向いていない気がして」

「僕は別に構わないと思いますが……まだ時間はありますし、時見さんが納得のいくまで考えてはいかがでしょう。楽しみにしています」

 期待されるのは素直に嬉しい。ありがとうございます、と礼を述べた己の頬は明らかに緩んでいた。

 ふと浅葱に目を向けると、姿勢の良さを保ったままフォークを片手に硬直していた。

 ――またか。

 日々観察して気づいたのだが、浅葱は時々ああして固まる。急に電池が切れたおもちゃのようにどことも知れない一点を凝視し、かと思えば突然動き出してノートを広げ、なにやら書いてからまたぴたりと止まるのだ。

 泥の悪影響が出ているのか、もとからの癖なのか分からない。なんにせよ肩を叩くまで無反応な状態は時見にとって数少ないチャンスだ。ケーキの皿はまだ空いていないが、お冷の補充を理由に近づけば問題ないだろう。

「失礼いたします、お客さま。お冷はいかがですか」

 返事が無いのは想定済みだ。このまま肩を叩いて泥を祓えばいい。

 時見が触れようとした直後、不意に浅葱が勢いよく俯いてノートになにやら書き始めた。なんの前触れも無かったため、驚きすぎて危うくピッチャーを落としそうになる。

「びっ……」

 ――びっくりした。

 いきなり動くなと言ってやりところだが、もちろん言葉は飲みこんだ。じっとしていて欲しかったのはこちらの都合であり、それを知る由もない以上、彼がなにをしようと勝手だ。

 ひとしきり書けばまた止まるはずだ。それを待とうとしたけれど、浅葱の顔がこちらに向けられて時見は今度こそ「うわ」と声を漏らしてしまう。先ほど飲みこみきれなかった動転が耳に届いたようだ。

「すみません、なにか御用でしたか」

「ああ、いや」動揺をすぐに鎮めて、時見はピッチャーを彼の前に掲げた。「お冷をお入れしようかと思って」

「ありがとうございます。お願いします」

 ――泥を祓うのは無理そうだな。

 浅葱が我に返っている状況では肩に触れにくい。別のタイミングを見計らうしかなかった。

 落胆を隠しながら水を注ぎ終え、ついでに他の客のお冷も確認すべく視線を巡らせる。

「ちょっといいでしょうか」

 浅葱に呼び止められて、時見は「はい?」と踏み出しかけていた足を引っこめた。

「ご注文の追加ですか?」

「そうではなく。いきなり聞かれても困るかもしれないんですが、お聞きしたくて」

「……なにを?」

 もしや時見にやたら肩を叩かれると勘づいて、それを指摘するつもりだろうか。ピッチャーを持つ手が強張る。

「店員さんは、花ならなにがお好きですか」

 飛び出したのは予想外の問いかけで、理解するのに数秒かかった。

「は、花ですか」

「季節とか種類とか、なんでもいいので」

「と言われても」断りを入れていた通りあまりにいきなりすぎて、すぐに答えられない。「私の好きなものでいいんですか。店長とか、他のスタッフではなく」

 こっくりと浅葱が深くうなずく。

 花自体はこれまでに何種類も見てきたが、その中で好きなものとなるとなんだろう。数秒悩んだ末に、時見はどうにか一つ絞り出した。

「……ハスかな、と。見た目が好きなんです」

 水の上に高く茎を伸ばし、二十枚前後の花弁が開くさまは優美の一言に尽きる。個体や品種によって白色だったり、ピンクの色のグラデーションがかかっていたり、花弁の形にも違いがあったりして、どれだけ見ていても飽きないのだ。

 また仏教では蓮は極楽浄土に咲く花とされ、極楽を表した絵に描かれるほか、仏像の台座として使われることが多い。寺で生まれ育った時見も必然的にそれらをよく見かけている。

 蓮、と浅葱は口の中で花の名前を転がすと、おもむろにズボンのポケットからスマホを取り出した。手元がよく見えないが、検索画面を表示しているらしい。

「花言葉が結構あるな。名前をそのまま使うと収まりが悪い……別名はなんだ。蜂巣はちす水芙蓉すいふよう……」

「あの、お客さま?」

 浅葱は画面をスワイプする一方、もう片方の手でノートにすらすらと文章を書きつける。時見の存在はすでに意識の外に追いやられたらしい。このまま放置するのも、なぜ急に花を聞かれたのかも気がかりで、彼の肩を軽く叩くとすぐに我に返ってくれた。

「失礼しました。ご協力ありがとうございます」

「お力になれて良かったです。私もちょうど花に関することで悩んでいたので、他人事に思えなかったものですから」

「そうなんですか」

「おかげさまで私としても手がかりが得られました」

 蓮の開花時期は七月から八月と夏の盛りだ。コースターに描く題材としても申し分ない。候補として胸の中に留めておいた。

 ひとまず肩に触れて泥は祓えた。とはいえ微々たる量なのは確かで、このまま会話を続ければもう少しだけ祓えるかもしれない。またとないチャンスを逃すわけにはいかなかった。

「差し支えなければ、私からも一つお聞きしたいことが」

「なんでしょう?」と首をかしげる仕草が、家で飼っている柴犬になんとなく被る。

「お客さまは今のようになにか書いては、ぴたっと固まることが多いでしょう。どうしたのかな、といつも気になっていたんです」

「固まる……固まる?」

 浅葱は口元を手で擦り、思案するように俯く。

 ――まさか無自覚だったのか。

「先ほども私が声をかけるまで、正面をじっと見たまま微動だにしていませんでしたが」

「正面……ああそれなら、あれを見ていて」

 カウンターの正面にはマグカップ、グラスといった食器類のほか、コーヒーミルや紅茶の茶葉を詰めた瓶など、様々なものを並べた棚がある。しかし浅葱が「あれ」と指さしたのは、棚より少し上の壁に取りつけられた照明だった。

 真鍮製のランプシェードはふわりと膨らんでおり、どことなくクラゲに似ている。麻の葉模様の透かし彫りも精緻で、職人の素晴らしい技術力がうかがえた。

「俺ああいう照明器具、というか明かりを眺めるのが好きなんです。自分でもよく分からないんですけど、なんだか落ち着く気がしていつまでも見ていられる。アイデアを思いつくのも、明かりを見ている時がほとんどで」

 浅葱がノートを開いてぱらぱらとめくる。ページの大半になにかしら文章が記してあるが、具体的な内容までは分からない。

「年明けの頃からよく来店されてますが、いつもここに座っておられるのはこれを見るためですか。ライトは他にもあるのに」

「もちろん他のも好きですよ。レジのデスクライトはステンドグラス風のシェードがお洒落ですし、天井から下がってるものもカンテラみたいなデザインで癒されます。けど見ていて一番落ち着くのは、壁についてるそれだから」

 透かし彫りの隙間からこぼれた光は深いオレンジ色で、揺らめく炎の色合いに近い。いつだったかのテレビ番組で焚き火の癒し効果を謳っていたのを思い出し、時見の勝手な予想だが、浅葱が明かりに惹かれるのはそれに近いものがあるのだろう。

「変なのかなと自分でも思います。昔からの友人にも『虫みたいやな』と揶揄からかわれる」

「別に変だとは思いませんが……虫? なぜ」

「気になる明かりがあると、そっちに引き寄せられて行ってしまうから。でも最近は調子が悪いみたいで、明かりを見てもなかなかアイデアを掴めないんです。何個か思い浮かぶ気はするのに、掴む前に手からすり抜けてしまう」

「それでさっき私に花はなにが好きか聞いたんですか」

 自分一人で考えていたのではあやふやなものも、外部から一言あるだけで明確な形になることもある。浅葱はただでさえよい背筋を正して時見に頭を下げてきた。

「利用してしまったみたいで申し訳ない。不愉快でしたか」

「そんなことは。言ったでしょう、お力になれて良かったと」

 社交辞令ではなく本心だ。時見が微笑みかければ、浅葱の唇がほんのりと弧を描く。よく見なければ分からない、すぐに溶けて消える雪のような淡い笑みだった。

「アイデアは形になりそうですか」

「提案頂いたものを無駄にはしません。必ず形にします」

 きりりと表情を引き締めて決意したかと思うと、浅葱は「そうだ」と一瞬だけ目を丸くして右手の小指を立てた。

「せっかくですし指切りしましょう」

「は?」

 思わぬ提案に、接客中の態度を忘れて素っ頓狂な声を上げてしまう。

 時見の困惑を意に介した素振りも無く、浅葱は真顔で指を近づけてきた。

「約束です。あなたと俺と、二人だけの」

「……お前、人たらしの才能あるだろ」

「え?」

「いえ、なんでも」

 営業スマイルを顔に貼り直して、時見は己の右手に視線を落とした。

 ――泥も祓えるし、ちょうどいいか。

「構いませんよ、約束しましょう」

 うなずきながら浅葱の小指に自身のそれを引っかける。かすかに触れた彼の肌は温かく、胸の内に秘めた情熱の一端を感じた気がした。

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