1章――④

「浅葱さんとお話するようになったんですねー」

 エプロンの紐を後ろで結びつつ、谷萩が意外そうに目を丸くする。出勤中に桜の近くを通ったのか、頭の上に花びらが一枚ついていた。時見はキッチンのスタッフに常連客の注文を伝え、谷萩に花びらの付着を指摘してから腕を組んだ。

「話をするようになったというか、向こうがやたら話しかけてくるんだ」

 目元に浮かんだ隈をこすり、時見は疲労を逃がすように肩を落とした。視線の先、いつもの席に腰かけた浅葱は、黙々と桜風味のロールケーキを口に運んでいる。

 浅葱と〝約束〟をしたのが一週間半前だ。あれ以来、注文を聞きに行く際や会計時などに声をかけられるようになり、つい数分前も雑談を交わしたのである。

「なに話すんです? お互いの趣味とか?」

「そんなお見合いみたいな……。別に大した内容じゃない」

 谷萩は以前、浅葱とは天気の話題くらいしかしたことが無いと言っていたが、時見も大差ない。おすすめのケーキがなにか聞かれることもあれば、ブレンドコーヒーに使われる豆の種類を訊ねられたこともある。プライベートに関することは今のところ聞かれた覚えはなかった。

「けど指切りっぽいのしてましたよね」

「それも盗み見してたのか」

「人聞きの悪い言い方しないでくださいよ。磯沢さんがケーキ持って行ったまま戻ってこないから、なにしてるんだろってこっそり覗いただけです」

 そういうのを一般的に盗み見と呼ぶのではないか。壁や衝立があるわけでもなく、やましいことをしていたわけでもないため、目くじらを立てるとかえって余計な想像をされそうだった。

「少し前、アイデアを出すのに協力したんだよ。その時に『提案を無駄にしないよう約束する』って指切りしたんだけど、なぜか話すたびに『今日もしましょう』って言われる」

「毎回ですか? そういうのって普通はじめに一回やって終わりなイメージあるんですけど」

「他の人と指切りしたことないからなんとも」

 時見としては泥を祓う口実が出来るため、今のところ断らずに受け入れている。

 眼鏡を外して確認してみれば、浅葱の右腕を覆っていた泥は数日前に比べてかなり薄くなった。まだ二の腕周りにまとわりついてはいるものの、あの程度であれば街中で見かける規模と大差ない。危機感に急かされて祓うほどのものでもなく、時間の経過とともに消えるのを待てば良さそうだ。

 カウンター席に座る他の客にコーヒーを差し出すついでに、浅葱の様子を窺う。表情が見えないのは彼が俯いているからだ。手元がはっきりしないけれど、ノートに文章を書き連ねているのが容易に想像できる。

 ――アイデアを掴めずにいたのは、高確率で泥の影響を受けていたんだろう。

 浅葱は不規則な感覚で顔を上げては固まり、また俯いてペンを走らせている。硬直時間は以前に比べて短く、それだけ頭の回転が速くなったに違いない。

 となれば。

「谷萩さん、相談したいことが」

「ちょっと待ってくださいねー」

 レジのすぐ隣にはケーキのショーケースがある。谷萩はその上にシールやイラストでデコレーションした「お持ち帰り出来ます!」のPOPを置いて、会心の笑みを漏らしていた。

「お待たせしまた。相談って?」

「出来るだけ自然に浅葱から距離を置く良い方法はないかな、と」

「えー?」

 数秒前の笑みはどこへやら、谷萩が眉根を寄せて首をゆるゆると振った。

 声が大きいと口で伝える代わりに、自身の唇の前に人差し指を立てる。谷萩はハッと口を噤むと、声量を落としてひそひそと続けた。

「なんでですか。せっかくお話するようになったのに」

「だからだよ。私がアイドル苦手なのは知ってるだろ。あいつが悪いわけじゃないけど話してると、こう……胃のあたりがむかむかして」

「条件反射ってやつです?」

 エプロンの上から腹を擦り、時見はぎこちなくうなずいた。

「泥も様子見で大丈夫そうなくらいになったし、理由をつけて接する必要が無くなったんだ。だからその、なるべく接触したくないというか」

「じゃあ仕方ないですね分かりました、って納得するわけないでしょう? 年上の人にこんなこと言いたくないですけど、特定の人を苦手だからって避けるのは接客業として良くないと思います」

「……仰る通り……」

「あたしだって苦手なお客さまは居ますけど、出来るだけ平等に接客してますよ」

「……そうだな……」

 ぐうの音も出ない上、己の大人げなさが恥ずかしくなって時見はその場にしゃがみたくなった。実際にやれば草栄や他のスタッフから体調不良を心配されかねないため、どうにか膝に力をこめて堪える。

「一応聞きますけど『生理的に無理! 顔も見たくない!』みたいなレベルで浅葱さん自体が嫌いなわけじゃないんですよね」

「そこまで嫌いだったら泥も見てみぬふりしてるよ」

「じゃあ別にいいじゃないですか。『アイドルの浅葱さん』じゃなくて『ただのお客さまの浅葱さん』て思えば済みそうですけど」

 アイドルだと思うから苦手意識が芽生えるのなら、思わなければいい。谷萩から彼がアイドルだと教えられるまでは他の客にするのと同じように接していたのだから、己の中の認識を変えれば済む。

 頭では分かっていても、なかなか切り替えるのが難しそうだった。

「あとほら、ランディエの曲って聴いたりしました?」

「ラン……」

 どこかで聴いた名前の気がするが、なんだっただろう。

 すぐに答えられず口ごもって天井を仰げば、谷萩が不満そうに唇を尖らせる。

「浅葱さんがいるユニットですよ。この前聞かれた時に教えたのに」

「ご、ごめん。完全に忘れてて」

 せっかくの厚意を無碍むげにしたようなものだ。下手に言い訳をせず正直に謝ると、谷萩は「あとでケーキ一つ奢ってくれるなら」と大目に見てくれた。

「むしろ良かったかもしれないですけどね。曲聴いてたら『浅葱さんがこれを歌ってるのかー』って実感しちゃいますし。まあ歌ってる時と喋ってる時って全然声の印象違うんですけど」

「そうなのか? ああ見えて荒っぽいとか、怒鳴る感じとか」

「なんですかその偏ったイメージ」

 違います、とでも言いたげに、谷萩は舌を何度か打ちながら人差し指を振る。

「浅葱さんって普通に喋る時の声は低くてなんかモソモソしてますけど、歌うとガラッとイメージ変わるんです。しっとりしてて色っぽい、みたいな。初めて聴いた時は『え? 本当にこの人からこの声が?』ってびっくりしましたもん」

「……そんなに?」

 時見の相槌を、興味が湧いたと受け取ったのだろう。谷萩の大きな目にきらきらと眩い光が宿り、興奮したように口角が吊り上がった。

「気になりますか? せっかくですし、あとでオススメ教えるので覚えておいて、ちゃんと聴いてください」

「いや、でも」

 聴いてしまったらいよいよ浅葱をアイドルとして見てしまう。しかしここで谷萩のオススメを断れば、すでに面倒くさい大人と思われていそうなのに、その印象に拍車をかけかねない。

 迷った末に、時見は「じゃあ一曲だけ」と勢いに負けた。谷萩が水を得た魚のごとく、一曲だけで良いと言ったのにあれこれと曲名を挙げてくる。

「元気になれる系だったら『変わらぬ愛』と『春風に泳ぐ』が好きなんですけど、リラックス出来る系なら『陽炎かげろう鬼灯ほおずき』も良いんですよー。バラードっぽいのなら『ハナカイドウ』も捨てがたいかも。たまにちょっと怖くてぞわっとする曲調のもあって『夢におとなう蝶の影』なんかストーリー仕立てで……」

「ストップ! 次々に言われても覚えられない!」

 ファンというほど大層なものではないと聞いた覚えがあったが、語る際の熱量はファンと呼ぶにふさわしいものだ。

 ひとまずポケットからメモ帳を取り出して教えてもらった曲を書き留める。あとで知ったことだが、谷萩が教えてくれたのは現時点でリリースされていた楽曲すべてで、つまり彼女が以前言った「いくつかシングルの配信を買った」は「全曲買った」の意味だった。

 一通りオススメを教えて満足したようで、谷萩の表情は〝やりきった感〟に満ちていた。

「確か『陽炎と鬼灯』なら動画サイトにあったはずなんで、他の曲に比べて聴きやすいかもです」

「リラックス出来る系って言ってたな。寝る前に聴いたらちょうどいいか」

「ぴったりですよ。なんなら良い感じに子守唄に……」

「あの、すみません」

 控えめな声に呼びかけられて、時見と谷萩はそろってそちらに目を向ける。

 いつからいたのか、レジの前で浅葱が伝票を二人に差し出していた。

 店内に客が少ないとはいえ、会話に夢中になり過ぎた。時見が慌てて「失礼しました」と伝票を受け取る隣で、谷萩が驚きをおさえながらレジを打ちこむ。デザートセットはケーキと紅茶を一種類ずつ好きなように組み合わせて七五〇円である。

 浅葱は慣れた手つきでトレイの上に小銭を置きながら、再び「すみません」と訊ねてきた。

「気のせいでなければ、さっき『陽炎と鬼灯』について話してませんでしたか」

「あ、その、えっと」

「話してましたよー」時見が逡巡している隙に、谷萩があっさり肯定して浅葱にレシートを渡す。「浅葱さんのユニットのオススメ曲はなにかって聞かれたので、あたしが好きなやつ教えてたんです」

 浅葱は意外そうに一瞬だけ目を丸くし、時見と谷萩を交互に見やってくる。妙に恥ずかしい気がして、時見は視線から逃れるように顎を引いた。

「あなたは俺が何者なのかご存知なんですか」

「ランディエの浅葱さんでしょう? 知ってますよ」

「……驚きました。他のメンバーに比べて、俺はあまり一般の人に気づかれないので」

 髪色といいピアスといい、目立つ要素ばかりなのにか。それだけ残り二人の印象が強く、浅葱は埋もれがちということかも知れない。

「曲はよく聴いて下さるんですか」

「毎日じゃありませんけどね」

 そこはお世辞でも「毎日です!」と言っておいた方が浅葱は喜びそうなものだが。そこまで考えたところで、谷萩に「嘘をつくと舌を抜かれる」と忠告じみたことを言ったのは自分だったのを思い出す。

「そうですか、ありがとうございます」礼を述べる浅葱は特に傷ついていないらしい。「他の方にオススメまでしてくださって。『陽炎と鬼灯』は俺もよく出来たと思っているので嬉しい」

「良い曲は色んな人に広めて損はないですもん。次の曲も楽しみにしてます」

 イエイ、と谷萩がピースサインをしてみせると、浅葱の頬がほのかに綻んだ。

「ありがとうございます。そう言っていただけるのは励みになる。曲はすでに出来てますし、あとは俺が作詞するだけなのでもう少し頑張らねば。いただいたアイデアも無駄にしないように」

 ――そういえばユニットの曲の作詞はほとんど浅葱が担当している、と谷萩さんが言ってたな。

 店に来るたびにアイデアを探り、ノートに書き連ねていたのはそれか。密かな謎が明らかになって胸がすっきりする。台詞の後半は確実に時見に向けられたもので、真摯な決意が言葉の節々から滲んでおり、なぜかこちらが面映ゆくなる。

 会計を済ませて帰ると思いきや、浅葱はなかなかレジの前から動かない。視線はケーキが並ぶショーケースに注がれていた。

「これテイクアウトも出来るんですか」

「大丈夫ですよ。どれか買われます?」

「俺がよくここに来ていると友人に言ったら羨ましがられたので、土産にしようかと。種類が多いので迷いますね」

「一番ノーマルなのはショートケーキですかねー。店長厳選のイチゴ使ってるので間違いなく美味しいですよ。あとチーズケーキも人気高いです。浅葱さんがさっき食べてたロールケーキは今しか出してませんし、まあとりあえず、お友だちが喜びそうなものを選んだらどうでしょう?」

 谷萩のプレゼンでよりどれを頼むか迷ったようで、浅葱は小さく唸りながらショーケースを凝視したまま固まった。作詞中と同じ熟考モードに突入したとみえる。

 二人で彼に構っている必要はない。時見は谷萩に対応を任せて、席に残された食器の回収に向かう。

 浅葱がケーキを注文したのは、他の客が三人ほど会計を済ませてからだった。ショートケーキとロールケーキが一つずつ選ばれ、時見は谷萩に呼ばれて持ち帰り用の箱に詰めるのを手伝った。

「またいつでも来てくださいねー。次はぜひ、お友だちも誘って」

「忙しい奴なのでなかなか難しいかも知れませんが、タイミングが合えば連れてきます。多分あいつもここを気に入ってくれると思う。……そうだ」

 浅葱は谷萩からケーキの箱を受け取って大事そうに持つと、すいと時見に向き直った。

「先ほど『陽炎と鬼灯』を薦めてもらっていましたよね」

「ええ、まあ。他の曲に比べて聴きやすいから、と」

「もし他のも気になったら言ってください。CD持って来ます」

 感想を聞かせてくれと言われないか身構えたけれど、そうではない安心感にほっとする。もし感想を求められた場合、好みと違う楽曲だった際の説明に困るからだ。

 今度こそ浅葱が店を出ようとするのと、出入り口のドアが開くのは同時だった。ドアの上部に付けた鈴がまろやかな音を響かせる。

 入ってきたのは山吹色の髪をした若い男だ。白いVネックのシャツに裾の長い黒いカーディガンと、服装はシンプルなのに髪色の効果か派手に見える。指には指輪、首にはチョーカー、耳には稲妻型のピアスと装飾も多く、眼差しの鋭さも相まって近寄りがたい厳つさがあった。

 いらっしゃいませ、と出迎えた谷萩はまったく動じていない。男は「おう」と短く答えて店内を見回してから彼女に問いかける。

「じいさんいるか」

「じいさん?」

「店長だよ。草栄そうえいじいさん」

「店長ならキッチンにいる」

 時見は谷萩より先に答えて、男を真っ向から睨みつけた。体の横に垂らした拳に、自然と力がこもる。

「なんでお前が来た、輝恭」

 若い男――弟である輝恭が、時見に対して「あ?」と眉を跳ね上げた。明らかに友好的な雰囲気ではなく、谷萩が戸惑ったように二人の間で視線を彷徨わせる。

 しかし彼に訊ねたのは時見だけではなく、困惑しているのも谷萩だけではなかった。

「どうして磯沢先輩がここに」

 浅葱の口からこぼれた一言に、時見は「えっ」とも「は?」ともつかない声を漏らして何度も目をまたたいた。

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