2章――①

 湯上りでしっとり濡れた髪が頬に張りつく。前髪はいよいよ目の下まで伸びてしまい、視界の妨げと化していた。洗面台の鏡の前に立っているのに、自分の姿がほとんど見えないほどだ。時見は首を振って適当に髪を払ってから、手にしたドライヤーのスイッチを入れた。

「本当に髪切らないとな……」

 どうにもその気力が湧かないのは、幼少期から行きつけだった馴染みの散髪屋が昨年末に閉店したからだ。高齢の店主が入院したのがきっかけで、後継ぎもいなかったために店じまいしてしまった。

 なら他の散髪屋なり行けばいいだけの話だが、いかんせん時見は他の店に行ったことがない。初めは母がよく行く美容室のチラシを渡されたけれど、白い床に木目風の壁、整然と並んだ椅子や鏡ほか、美容室と言うよりお洒落なカフェじみたスタイリッシュさに戸惑いが勝って予約出来なかった。

 一応チラシは捨てずに残してある。しかし多分、電話をかけることは無い。

 髪が長いと洗う時間もドライヤーをかける手間も長くなる。面倒くさがって中途半端な乾かし方をするとまた母に見咎められるだろう。

 ――だったら坊主にすりゃいい、とか輝恭に言われたこともあったな。

 脳裏に弟の馬鹿にしたような顔がよぎり、喉の奥から「ぐう」と声にならない音が漏れる。あの時は「なんだその言い方は」と苦言を呈したのをきっかけに口喧嘩に発展したのだったか。

 今日も危うくそうなりかけたのを思い出し、時見の表情がどんよりと沈んだ。


 喫茶店に輝恭が現れて苛立ちを覚えてすぐ、浅葱が彼を「磯沢先輩」と呼んだことで、時見の思考は驚愕に染まった。

 一方、輝恭も浅葱を見て「浅葱じゃねえか」と瞠目していた。

「お前今日打ち合わせ入ってたんじゃねえの?」

「午前中に終わりました。そのあとフリーだったのでここに。作業は最近、家よりここの方が捗る」

 聞いたわりに輝恭の返事は「ふうん」とあまり興味が無さそうだった。

「……お前ら知り合いなのか?」

 驚きを悟られないよう、時見は努めて普段通りのトーンで二人に問いかけた。微妙に声が裏返った気もするが。

「知り合いっつーか、事務所の後輩なんだよ、そいつ」

「事務所? なんの」

「俺がいる芸能事務所以外にあるかよ」

 はっ、と鼻で笑う輝恭に、時見は眉を寄せた。

「なんだ、その馬鹿にしたような言い方は。いつも言ってるだろ、お前の言葉遣いは乱暴すぎる」

「別に俺がどう喋ろうが勝手だろ。兄貴に指図される筋合いは無え」

「いいや、ある。お前は俺の代わりに後を継ぐかもしれないんだぞ。檀家と接する時にもそんな話し方をするつもりか」

「よくもまあ何回も同じこと言って飽きねえな。百回は余裕で聞いてんぞ。あのなぁ、俺は兄貴の代替品じゃねえ。後を継ぐ気はみじんも、」

「ちょっといいでしょうか」

 時見と輝恭の目の前に手をかざして、言い合いを中断させたのは浅葱だった。彼はそのまま視線で店内と谷萩を順に示す。

「他のお客さんがなにごとかと気にしてます。あとその子もびっくりしてるので、お二人とも少し落ち着いてはどうでしょう」

 開店してすぐや昼のピークに比べて少ないが、客はゼロではない。彼らは怪訝そうに、あるいは煩わし気に時見たちをちらちら見やっている。

 浅葱に水を差されなければヒートアップしていただろう。時見は「失礼しました」と客たちに頭を下げてから、彼にも同じように詫びる。輝恭は腕を組んで仏頂面をしていたが、時見に促されて「悪かった」と谷萩に謝っていた。

「ほぇ」半ば気の抜けた声を出して、彼女もはっと我に返る。「ちょっと色々驚いてはいますけど、まあ、はい。お気になさらず。で、店長でしたっけ。あたし呼んで来ます」

 キッチンに去る間際、谷萩が時見の耳に口を寄せて「その間に仲直りしといて下さいね」と囁く。仲直りもなにも、弟とはかれこれ十年以上険悪なのだけれど。彼女はそれを知る由も無いのだから、はっきり「無理だ」と首を横に振れなかった。

 三人とも口を開くことなく、客の話し声や時計の秒針、食器の擦れる音だけが淡々と流れていく。

 最初に沈黙を破ったのは浅葱だった。

「磯沢先輩も今日は休みなんですか」

「これからラジオの収録。移動ついでに寄っただけだ。お前は? よくここ来てんのか」

「落ち着けるカフェを探していたら紹介されて、しばらく通ってます。ケーキが美味しいのと、あと好きなものがたくさん出来たので」

 浅葱は心なしか嬉しそうに店内を見回す。カウンター席から見える照明のほか、気に入ったものを一つずつ確認しているらしい。

 視線が輝恭に戻る直前、一瞬だけ時見も捉えられたようだったが、単に流れで視界に入っただけだろう。

「あと他の店に比べて俺に気づくお客さんがいないおかげで、ゆっくりアイデアを練れます」

「あ、そ。よく分かんねえけど良かったな」

「磯沢先輩もよく来られるんですか。それとも俺と同じで紹介されたとか」

「いや? じいさんに頼みがあんだよ」

「じいさんじゃなくて店長と呼べ。仕事中なんだから」

 時見が口を挟むと、輝恭はあからさまにむっと唇を歪める。いつもなら口答えしてくるのだが、先ほど注意されたのを思い出したのかうるさそうに肩をすくめただけだった。

「お待たせしました」

 コーヒーの香りと谷萩を伴って、草栄がキッチンから現れた。彼は輝恭を見上げて、皺に埋もれて細くなった目をさらに細めて笑う。

「お久しぶりですね、輝恭さん。テレビではよく見かけますが、直接会うのはいつ以来でしょう」

「去年の正月ぶり。じいさん、またちょっと縮んだか?」

「寄る年波には勝てませんので」

 草栄は苦笑しながら腰を軽く叩く。それを見つめる輝恭の目には、懐かしさと寂しさが混在している。普段から接している時見でさえ低くなったと感じるのだから、約一年ぶりに再会した輝恭はより強く感懐かんかいを覚えるはずだ。

「ところで僕になにか用があるそうですが」

「おう。これ適当に貼っといてくれねえかなと思って」

 輝恭がカーディガンのポケットから取り出したのは、四つ折りにされた紙だった。草栄が広げたそれを、時見と谷萩は左右からそれぞれ覗きこむ。

 コピー用紙ほどの大きさのそれには、リボンとヒールが特徴的な靴の黒いシルエットと稲妻模様、さらに羽ばたく蝶がランダムに印刷され、上部に〝S&S ライブ開催決定〟の文字が躍っていた。

「夏にやる予定のライブのチラシ。まだ具体的な日付も時間も決まってねえんだけど、余裕持って宣伝しといて悪いことねえし」

 チラシには出演者の情報と大まかな開催時期のほか、事務所のホームページと思しきURLやSNSのアカウント名が記載されている。「ふむ」と柔らかくうなずく草栄の横で、谷萩がきょとんと首をかしげた。

「S&Sって? 輝恭さんの事務所の名前って〝靴と雷〟じゃありませんでした?」

「『事務所の名前をそのままライブのタイトルにするのは味気ない。英語読みにしてお洒落にしよう』って所長がほざいた結果だ。俺はそのままで良いだろって言ったのにあの野郎、人の話聞きゃしねえ」

「言葉遣い!」

 時見がすかさず注意を飛ばしても、輝恭はなにくわぬ顔で「べっ」と舌を出すだけだ。

 昔はもっと可愛らしかったはずなのに、背が高くなるにつれて態度まで大きくなったように思う。時見の後ろを純粋について回っていた幼少期の面影はどこにも無い。

「なにはともあれ分かりました。少しでも宣伝のお手伝いになるのなら、どこか見えやすい位置にでも貼っておきましょう」

「助かる。もしチラシのことでなんか聞かれたらSNSかホームページ見ろって言っといてくれ。新しいデザインのが出来たら兄貴にでも預ける」

「よろしくお願いしますね」

 最後の一言は輝恭というより、時見に向けられたものだろう。「捨てたり破ったりせず、しっかり届けてください」と視線が語っている。いくらなんでも預かったものを粗末に扱いはしないが、言外に釘を刺される程度には兄弟仲の悪さを把握されていた。

 ――そこに関して信用されてないのが、あまりに情けない。

 目的を果たしたのか、輝恭が颯爽とカーディガンの裾をひるがえす。

「んじゃ俺、そろそろ行くわ」

「おや、もう? せっかくですし、お茶を飲んでいかれては」

「そうしてぇのはやまやまだけど、外で人待たせてんだ。また時間ある時にでもゆっくり来る」

 輝恭は草栄と谷萩にひらひらと手を振り、浅葱に「またな」と声をかけてから時見には一瞥もくれずドアを開ける。

 少しだけ眼鏡をずらして弟の背中を窺うと、少しも泥が蠢いていない。見間違いを疑ってさっと店内に視線を巡らせたが、客や空中など泥はあちこちに見受けられた。

 ――なんであいつは、泥を欠片もまとってないんだ。

 ぎい、と小さな音を立ててドアが閉まる。その間際に見えた輝恭の姿は、名前にたがわない輝きを放っているようだった。


 髪を十分に乾かして歯みがきも済ませてから、時見は自室のベッドに倒れこむ。眠気は感じているけれど、このまま眠りに落ちるのが怖い。今日もいつもの――子どもの頃から幾度となく見ている、泥に絡まれる夢に溺れるのが嫌だった。

 なんとなくだが、自己嫌悪を強く感じた日は全身を覆う泥が重いように思う。どれだけ叫んでも目が覚めず、いざ起きても寝る前以上の疲労を覚えて朝から鬱々とするのだ。

 眠りたい。眠りたくない。相反する思いを抱えてしばらく布団の上でぼんやり天井を眺める。

「……そういえば」

 ふと谷萩の言葉が耳の奥で蘇り、時見は寝転びながら顔の前にスマホを掲げて動画サイトのアプリをタップした。検索欄を表示してから数分ためらい、決心の末に「ランディエ 陽炎と鬼灯」と打ちこむ。

 昼間に谷萩が色々薦めてくれた中で、リラックス出来るとして挙げられていた曲だ。寝る前に聴くのがぴったりだと言っていたし、今の状況に最適な気がしたのだ。

 検索結果にサムネイルがいくつも表示されたうち、恐らく一番上にあるのが公式の動画だろう。画像の中心で鬼灯が内側からほのかに光を放ち、その周囲で曲名が滑らかな円を描いていた。

 ――少し聴くだけだ。

 眠れないから。薦められた以上は聴かないと失礼だから。自分への言い訳を胸のうちで列挙しつつ、震える指でサムネイルをタップする。

 いきなり曲が流れるかと思いきや、無音の状態でまず映ったのは三匹の青い蝶だった。一匹ずつ大きさと翅の形が違うため、それぞれ別の種類なのだろう。暗闇を背景に三匹が遊ぶように舞うと、その軌跡に曲名と鬼灯、次いで作詞作曲を担当したであろう者の名前がぼんやり浮かび上がる。

 それが消えて曲が流れ始める寸前、はたと思い立ってスマホの画面を胸に伏せた。

 こうすれば歌っている浅葱を見ずに済む。谷萩が「浅葱さんって普通に喋る時の声は低くてなんかモソモソしてますけど、歌うとガラッとイメージ変わるんです」と言っていたほどなのだから、音声だけ聴けば浅葱をアイドルとして認識する確率を落とせるのではないか。

「いやでも、それはそれで浅葱に悪いような……」

 考えあぐねる時見の鼓膜を揺らしたのは、凛と高らかな鈴の響きとしっとり撫でるような弦楽器の音色だった。イントロは十五秒ほど続いただろうか。夏から秋へと移り変わる涼やかな夜に、ひと気のない森にぽつんと立つ情景が頭の中に広がる。

 続いて聴こえたのはぽろぽろと弾むピアノの音色と、高音と低音から成る幻想的なコーラスだ。なんと言っているか分からないため、少なくとも日本語ではない。英語とも異なる発音だ。

 ――雰囲気的に中国語か、韓国語か。

 結論付ける前に、今度こそ聞き慣れた日本語が流れてきて、時見は歌詞に意識を集中させた。

 語りかけるような落ち着きのある声、若々しくエネルギッシュさが隠しきれていない声、低くたくましい頼りがいのある声。誰か一人が主旋律を歌い続けるわけでは無く、ハモリも代わるがわる担当するのがランディエのスタイルらしい。

「……これのどれかが浅葱なんだよな」

 無意識のうちに呟いたけれど、実際にどれが浅葱なのか全く分からない。

 しっとりしていて色っぽいと評した谷萩の言葉通り、本当にガラッとイメージが変わるのだ。なんとなく浅葱らしき歌声の予想はついているが、会話の際の印象が違いすぎて確証が持てない。

 より深く声に耳を傾けようと、時見はスマホを胸から頭の横まで移動させた。

 歌詞から察するに恋愛と別れがテーマだろう。恋焦がれる想い人がいるけれど、相手は遠い昔に自分のもとを去ってしまって会えはしない。忘れることが出来ない苦しさを乗りこえて、新たな未来に歩み出す希望と決意が切なく綴られている。

 悲哀に満ちてばかり聴こえないのは、美しく温もりのあるコーラスの影響か。繊細なハーモニーは確かに癒される。

 ――俺が知ってるアイドルとは違う。

 輝恭のユニットは雷をモチーフとしており、そのせいか荒々しく勇ましい曲が多い。テレビ番組で取り上げられるのもそういった曲がほとんどであり、アイドルイコール輝恭の図式が出来上がっている時見の中で、いつしかアイドルの曲とはぎらついてやかましいものばかりの印象がついていた。

 しかしランディエの曲はほぼ真逆だ。傷ついた心を癒し、潤してくれる。

 ――輝恭が雷なら、ランディエは雨だな。

 他の曲からはまた違った印象を与えられそうだ。元気になれる系、バラード系、ストーリー仕立てと、谷萩が紹介してくれた曲の系統は多岐にわたる。

「名前なんだったか……春風とか、花とか夢とか……ううん……」

 何度目かの「陽炎と鬼灯」を聴きながら、口の中でもごもごと唱える。

 考えがまとまらない。まぶたが重い。深く息を吸ったのを機に、時見は自然と目を閉じていた。

 徐々に霞みがかる意識の中、最後に聞こえたのは包みこむようなテノールボイスだった。

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