4章――②
狭い空間に人が密集し、熱とにおいがこもっている。先日のカフェに比べて天井が低いのは地下ゆえだ。BGMも流れているはずだが、雑音と化した数多の話し声にかき消されてほとんど聞こえない。時見は人が少ない位置を陣取っておこうと、人ごみの最後方にある白い壁にもたれ掛かった。口もとを覆った手の下からため息がこぼれる。
――まさかこんなに人が多いとは。
時見のすぐ脇には、満面の笑みを浮かべた緋衣のポスターが貼ってあった。両手で抱えたハート型の赤い風船の表面には「HappyBirthday」と記され、背景も色とりどりのガーランドやランディエを象徴するような青い蝶の飾りなどで賑々しい。
地下には続々と人が集まり、そのほとんどは若い女性だった。カバンや服装、アクセサリーから察するにランディエ、特に緋衣のファンなのは間違いない。自分がここにいるのは場違いな気がしてくるが、かと言って立ち去るわけにもいかない。
カフェで谷萩やランディエの三人と話してから数日後の日曜日である。時見は緋衣が言っていた〝ランディエ単体のイベント〟に足を運んでいた。てっきりライブでもやるのかと思っていたのが、ポスターを見る限りどうやらランディエというより緋衣の誕生日を祝うイベントらしい。であれば緋衣のファンが圧倒的に多いのもうなずける。
女性たちの手元を見れば、某大型書店のロゴが入ったレジ袋を提げている。ここの上のビルは一階から五階まで丸ごとCDや書籍を取り扱う書店で、そこで各々買い物をしてから地下のイベントスペースに来ているようだ。
香水や体臭の入り混じった複雑なにおいに頭がくらくらする。眼鏡をかけていなければどれだけの泥が視界に映るのか、想像したくもない。時見は深く息を吸わないよう心がけながら、さり気なく周囲を見回した。
――まだいなさそうだな。
こんな人ごみに足を運んだ目的はただ一つ、浅葱を呪う何者かに声をかけるためだ。
今のところ目当ての人物は見当たらない。まだ来ていないだけなのか、それとも今日のイベントにはそもそも来ないのか。
――けど緋衣から『ランディエが出るイベントには必ずあいつ来てる』って聞いたしな。
会場には百人以上もの客が集まっている。この中から特定の一人を見つけるのは骨が折れそうだ。助っ人として谷萩を呼ぶことも考えていたが、彼女はあいにくシフトが入っており、そうでなくても万が一を想定して同席してもらうのは避けるのが無難だった。
――まあどうにか見つかるだろう。相手の顔は分かってるし。
――それに女性が九割の集団に男がいたら、いやでも目立つ。
「皆さま大変長らくお待たせいたしましたー!」
緊張でやや強張った男の声が聞こえ、前方の集団がわっと盛り上がった。
時見からはよく見えないが、人の壁の向こうに小さなステージが用意されているらしい。その端に司会者と思しき男性が立ち、カンペに目を落として懸命に進行していた。
「それではこれより『緋衣青士ファースト写真集〝SEIZI〟発売記念イベント』スタートいたします! まずは主役にご登場いただきましょう、どうぞ!」
「どうもー」
気の抜けた声とともにステージの袖から緋衣が現れる。途端、女性たちの黄色い悲鳴が溢れかえった。きんきんと鼓膜を揺らすそれに思わず耳を塞ぎそうになり、時見は思いきり顔を顰めてどうにか堪える。
緋衣は首筋が露わな黒いシャツに白いカーディガンというシンプルないで立ちで、一見すると私服の派手さがどこにも無いが、よく観察すればファンたちに振っている手にシルバー系の指輪やブレスレットがいくつもついている。ピアスも普段より大振りに見えるし、体のあちこちが重くならないのだろうか。
時見の疑問が通じたとは思えないが、ステージ上の緋衣と目が合った。彼はこちらの姿を認めると、軽やかにウインクをしてみせる。その後一瞬だけ、笑みはこちらに向けたまま視線をすいっと右に振る。時見もつられてそちらに目を向け、少し背伸びをしてから「あっ」と小さく声を上げた。
目当ての人物だ。時見同様、人ごみの最後方からステージを窺っている。ここからの距離は五メートルも無さそうだ。壁沿いに進めば、ステージに夢中な客たちにそれほど迷惑にかけずに済む。時見は極力壁に背中をつけたまま、ずいずいと近づいた。
「こんにちは」
どうにか真横に到着して、顔を見上げながら声をかける。
目当ての人物――
「あなたはどこぞの喫茶店の」
「お久しぶりですね。覚えていてくださったとは光栄です」
「仕事がら人の顔と名前を覚えるのが身に付いてるので。あなたも青士を見に来たんですか」
周囲の客に配慮してだろう、房崎は控えめな声量で問うてくる。視線はずっと前方の緋衣に据えられたままだ。ステージの緋衣は司会の男性と軽妙なトークを展開しており、二人の後ろに設置されたスクリーンには写真集の表紙や、抜粋されたページが大々的に映し出されている。
「先日ランディエのお三方とお話しする機会がありまして、その際に近々イベントをやると伺ったのでせっかくならと。アイドルのイベントですし歌を披露するのかと勝手に思っていたんですが、違うんですね」
「今日のは青士の写真集発売記念イベントですよ。さっき司会がそう言ってたでしょう」
そんなことも聞いていなかったのか、と言いたげに面倒くさそうな口調で彼は続けた。
「ついでにあいつの誕生日も近いんでね。まとめてお祝いって感じなんじゃないですか」
「それでポスターにハッピーバースデーと……房崎さんも緋衣さんをお祝いしに?」
「祝いにっていうか、あいつが出るイベントは全部来るようにしてるんで」
「熱心なんですね。そういえば緋衣さんとは高校の頃から仲がよろしいと伺いましたが」
「ええ、まあ。すみません、ちょっと黙っといてもらっても? 気が散るんで」
房崎はイラつきを隠そうともせず、腕を組んで眉を寄せていた。「失礼しました」と謝ってから、時見も一旦ステージを見る。トークのテーマは冒頭から一貫して写真集に関したものだ。
「今回は様々な場所でロケを
「そうなんですよー。高校は僕がアイドルになろと思ったきっかけの場所やし、撮影させてもらえへんかなーて駄目もとで聞いたら『ええよ』て言うてもらえて。教室とか、あと部室とか色んなとこで撮りましたよ。あ、そうそう。僕、高校ん時茶道部やったんですよ。意外でしょ」
「確かに意外ですね。茶道部の部室でってことは、着物姿でのショットもあるんですか」
「何枚かありますよ。ほらこれとか」
緋衣はステージ上で写真集を開き、お気に入りの一枚を会場全体に見せつける。スクリーンにもきりりと引き締まった表情で茶を点てる着物姿の彼が映し出されていた。長い髪は邪魔にならないようまとめられ、普段の印象と百八十度違う。
「どれも良く撮れてますね。緋衣さんも撮られ慣れている感じがしますし」
時見の呟きに「そりゃそうでしょう」と房崎がくつくつ笑った。なんとなく馬鹿にされている感じがする。
「あいつ中学生の時にモデルでデビューしてますからね。撮られるのなんて慣れっこのはずです」
「おや、そうだったんですか。今もモデルは続けておられるので?」
「してますよ。本業アイドル、兼業でモデル、みたいに」
「兼業……お忙しいでしょうに。どちらか一つにはしなかったんですね」
「モデルの撮影で世話になったカメラマンがあいつの曲聴いて、そこから縁が色々つながってアイドルデビュー出来たらしいんで。だからまあ、アイドル一本で行くより、いくつかの場所で活躍した方がそのぶんチャンスも広がりやすいってのが青士の言い分」
「ふむ、なるほど……」
笑顔の下には緋衣流のしたたかさが潜んでいるのか。時見はアイドルとモデルの二足の草鞋がどれだけ大変なのか分からないが、両立させられるだけの努力をしているのだろう。
「カメラマンが聴いた曲というのは『還らぬ魂の舞踊』なんでしょうか」
時見の問いに、房崎が数秒黙りこんでから「さあ」と首をかしげた。
「よくご存じですね、その曲。かなり前のやつなのに」
「紹介されたもので。歌詞をつけたのは房崎さんとも聞きました」
「そうですよ。青士の曲を聴いてたら思い浮かんだんで、そのまま採用してもらってね。いい歌でしょ」
「曲は、ね」
含みを持たせた言い方に上手く引っかかってくれたようだ。房崎の眉がひょいと吊り上がる。
「さて、今日はゲストにお越しいただいております!」司会者のアナウンスに、ファンたちが一層色めき立った。「緋衣さん、お二人をステージに呼んでいただけますか」
「そうやね。だいたい誰か予想ついとるやろし、せっかくやで僕と一緒に呼んだろに。せーの」
亜藍くーん、琉佳くーん、と緋衣やファンたちの声が重なった。次いで『春風に泳ぐ』のイントロが流れ始めると、ステージの上手と下手それぞれから亜藍と浅葱が登場した。二人の装いは青士とおそろいで、違いはアクセサリーくらいだ。三人そろって改めて挨拶をして手を振れば、会場もますます盛り上がる。
「呼ぶのが遅ぇんだよ! いつ呼ばれるんだって琉佳先輩とずっとそわそわしてたんだぞ。まさか俺らのこと忘れてたわけじゃないよな」
「半分忘れとった」てへ、と舌を出した緋衣の脇腹に、亜藍が鋭い拳を叩きこむ。「痛い痛い、冗談やて。ひどいわー。泣いてまうわー」
「白々しいぞ青士」
「リューカくんまでそういうこと言うー!」
テンポの良いやり取りに、客たちからは笑い声も上がる。互いをよく知っているからこそ生まれる気安さは、見ていて心地のいいものがあった。
不意に浅葱と目が合う。彼ははっとしたように眼鏡の奥で目を丸くした。時見が房崎と並んで立っていることに驚いたのだろう。しかしその反応をすぐに消し、ステージに意識を戻したのはファンの前に立つプロとして流石だった。
時見は眼鏡を外し、何度か瞬きをしてから会場全体をざっと見る。人が多いわりに泥は思っていたほど多くない。浅葱にまとわりつくそれも、昨日まで時見が時間をぬって祓った効果もあり平時に比べれば薄かった。
ただ一ヵ所だけ、泥が濃く、重く沈んでいる箇所がある。
時見の傍ら、つまり房崎の周辺だ。彼の目はただでさえ細いのに、ステージを睨みつけているせいでより鋭利になっている。
「『還らぬ魂の舞踊』を聴いたって言いましたよね」
ステージ上には誕生日ケーキが登場していた。先ほどまでの怒りはどこへ行ったのか、亜藍が晴れやかにバースデーソングを歌い上げて、浅葱が手拍子をすればファンたちもそれに倣う。会場はこれ以上なく和やかで明るいのに、房崎の声は冷たく暗い。
「じゃあランディエの他の曲は? 確か『陽炎と鬼灯』は聴いていたんでしたか」
「あとは『春風に泳ぐ』も。どちらも好きな曲です。歌詞もね」
「……俺の方が絶対にいい詩を書ける」
どろり、と。
房崎が喋るたびに、煮凝りのような泥がこぼれ出た。
「ランディエに、というか浅葱さんに苦情の手紙を送っていたのはあなたでしょう」
時見はカバンから封筒を一つ取り出し、房崎に向けて揺らす。時見が触ってもなお封筒に残っていた泥が、するすると逃げるように離れて房崎からこぼれた泥と合流した。
泥は引き寄せあって大きくなるが、周囲に漂うもの全てと混ざるわけでは無い。例えばAが発生源の泥はAの泥としか引き合わず、Bが発生させた泥とは交わらないのだ。封筒から離れた泥が房崎の方へ漂ったということは、発生源が同一である証拠だ。
「浅葱さんを歌詞担当から追いやって、自分がそのポジションに収まるつもりだったんですか。昔の歌詞の方が良いと訴えるファンを装って」
「なんのことだか」
房崎は汚いものを除けるように封筒を手で払う。ぺし、と軽い音がファンたちの「誕生日おめでとう」のコールに紛れた。
「職場の高校生から聞きましたが、世間には『意中の人を独り占めに出来るおまじない』があるそうです。方法は単純。『相手に送るプレゼントの中に、自分の体の一部――爪でも髪でも体液でも、なんでもいいので潜ませておく』だけ。そうすると相手の夢にプレゼントの贈り主が現れたりして、いずれ相手は贈り主のことばかり考えるようになっていく、というおまじないだとか」
「へえ、いかにも高校生のガキが好みそうなおまじないだ」
「ご自身が実践しておいて言いますか」
時見はカバンからテディベアのキーホルダーを取り出して、房崎に見せつけた。「なんでそれを」と口走ったあと、彼は小さく舌打ちをして視線を逸らす。
この中に入っていた髪は黒かった。ちょうど房崎の髪と同じくらいに。
「緋衣さんがアイドルとしてデビューしたのは二年前だそうですね。歌詞担当に浅葱さん、ダンスと造語担当に亜藍さんを迎えて。あなたはそれが羨ましかったんですか? 自分以外の人間が緋衣さんの曲に歌詞をつけて、これだけ多くのファンを獲得したことが」
「……気が散るんで黙っといてくれって、さっき言いましたよね」
「そうですね。謝りはしましたが『では黙ります』と答えた記憶はありません」
時見の言葉にイラつきが頂点に達したのか、房崎がテディベアをひったくって掌で握りつぶす。ぎゅち、と聞こえた音から力の強さが察せられた。
「あなたは緋衣さんの隣で歌い、歌詞も綴る浅葱さんを羨んだんでしょう。タイミングが違えば、そこに立っていたのはあなたかも知れなかったのに。だから『房崎さんの歌詞の方が良い』と訴えるファンの皮を被って手紙を送り、緋衣さんが自分に意識を向けてくれるようにとおまじないに縋った。そうすればいつか、自分が浅葱さんの代わりにステージに立てるのではないかと思って」
「適当を並べるのがお上手ですね。全部あなたの想像でしょう」
「ええ。今述べたのはただの予想です」
手紙は直筆ではない上に差出人が不明だし、泥も時見しか視認できないため房崎が差出人だと断言するのは困難だ。本人が認めないのは予想の範囲内で、しつこく認めさせようとすればトラブルも起きかねない。これ以上追及する気は無く、泥の発生源が同じだと判明しただけでも十分な収穫だ。
「ほんなら今日集まってくれたみんなに、最後にお知らせっていうかお願いしたいことあるんやわ」
イベントも終盤にさしかかったようで、ランディエの三人はステージの端に避けると「スクリーンを見てくれ」とファンに指示した。
そこに「S&S ライブ開催決定」と表示された。どこかで見た一文だと記憶を辿って、以前、輝恭が持ってきたチラシと同じだと思いつく。違うのは「八月二十二日」と日付が追加されている点だ。
「ちょっと先なんだけど、事務所のユニット総出でライブやることになったんだ」
亜藍からのお知らせに、ファンたちが口々に「わーい」と嬉しそうに手を叩く。
「ほんでみんなにちょっとお願いしたいことあんねん。僕ら今までいっぱい曲出してきたやん? やから『どれ披露したらみんなが喜んでくれるやろか』って悩んでんねん。ほしたらアランくんがな、『アンケート取ったらええやん』て言うて」
どん、と太鼓を叩くような効果音と共に、スクリーンの画像が切り替わる。〈歌唱曲アンケート実施決定!〉となんともシンプルな文字が躍っていた。
「二曲くらい披露すると思うんだが、それをファンの皆さんに決めていただきたい。アンケートフォームはイベント終了後に開設するから、一人につき二曲まで、俺たちに歌って欲しい曲を送ってくれるだろうか」
淀みなく滑らかに、浅葱が背筋を伸ばして頼む。ファンたちの拍手の大きさから、了承したのがよく伝わった。
「これで房崎さんの歌詞がいいか、浅葱さんの歌詞がいいか、ファンの皆さんが求めるのはどちらなのか分かるんじゃないでしょうか」
ステージを見たまま固まっていた房崎を見上げて、時見は封筒を真っ二つに破った。
「今回のアンケートで房崎さんが歌詞を担当した曲を希望する声が多ければ、浅葱さんは歌詞担当を降りるそうですよ。場合によってはランディエを抜けるかも、と。そうはならないと思いますが」
「……どうだか。俺の歌詞の方が青士の曲に合っているのは間違いない。そうに決まってる」
「房崎さんがどう思おうが、結果を出すのはファンの皆さんです」
「それでは以上でイベントを終了いたします!」
司会者が高らかに宣言すれば、ファンたちが名残惜しそうに「えー」と肩を落とす。
「このあとは写真集購入特典のツーショット撮影会を実施いたしますので、イベント前に写真集を購入されたお客さまは、準備が整うまでこのまましばらくお待ちください。特典付き写真集はまだ販売しておりますので、ご希望のお客さまは一階の書店にてお買い求めくださいね。それではランディエの皆さま、今日はありがとうございましたー!」
会場にアナウンスが響きわたり、ファンたちが一斉に拍手をした。ステージ上の三人もめいめいに手を振り、「気ィつけて帰ってなー」などと一言残しながら順番に袖へと引っこんでいく。その間際、また浅葱と目が合った。イベントが楽しかったのだろう、彼の唇は幸せそうな弧を描いている。浅葱の周囲には今にもまとわりつきそうな泥が漂っていたが、春の日差しに似た柔らかな笑みに弾かれて霧散する。
くそ、と房崎が吐き捨てた悪態は、ファンたちの歓声にかき消されていた。
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