4章――③

 天気の崩れる日が増えてきたと思ったら、ついに昨日、梅雨入りが発表された。湿気でじめじめしと鬱陶しい気温から逃れるためと、休日であることも重なって昼過ぎの〝喫茶店 エスコ〟はそれなりに客が入っている。時見はいつもの婦人グループのテーブルにアイスコーヒーとデザートのセットを人数分届けて、定位置であるレジまで戻りがてらぐるりと店内を見回した。

「明日久しぶりに晴れるみたいですねー」

 ショーケースの周りに飾るようと思しきPOPを量産しながら、谷萩が嬉しそうに切り出した。「そうだね」と時見はうなずいたが、彼女は怪訝そうに口をすぼめる。

「ずっとどこ見てるんです? ――ああ、浅葱さんですか」

「えっ、あ。いや、別に」

 図星だった。慌てて誤魔化そうとしたものの、うまい言い訳が思いつかない。

 カウンター席の一番端、六番の席には浅葱が座っている。手元のノートに向かって一心不乱にペンを動かし、かれこれ四時間が経過していた。傍らに置いてあるアイスコーヒーの氷はすっかり溶けている。

 谷萩は背伸びをして、時見の肩越しに浅葱を確認したようだ。その表情はどことなく心配そうだ。

「浅葱さんが呪われてたのって、もう大丈夫そうなんですか」

「ああ、それならなんともない。泥がまったく付いてないわけじゃないけど」

 ランディエもとい緋衣の写真集発売イベントが行われてから一ヶ月が経過している。浅葱宛に手紙を送っていたのが房崎だと時見が見抜いたことは、イベントが終わってすぐに伝えた。

 長年の友人が浅葱を妬み、羨んでいたと知った緋衣は多少なりとも衝撃を受けたようで、悔しそうな、苦しそうな表情で「そっか」とだけ呟いていた。その後、緋衣と房崎の間で何度か話し合いが行われたそうだが、時見はその詳細を知らない。ただそれ以降、差出人不明の手紙や贈り物が途絶えたと報告を受けた。

「ってことは浅葱さんも呪われなくなって、本調子に戻ったって感じなんですかね。あれ、でも泥はまだちょっと付いてるんです?」

「ゼロじゃない。けどあれくらいならそのうち消えると思う。泥がまったく付いてない人のほうが珍しいし」

「そういうものなんですか。あれですね、ずっと泥の具合見てたから浅葱さんの方に目が向いちゃうの癖になってるんですね」

「そう。そういうこと」

 谷萩の中で適当な答えが見つかったのなら、それに乗っからない手はない。

 実際のところは別の事情があるのだが。

 ――いつ伝えればいいんだ。

 ティータイムのピークを過ぎて、店内の客は次第にまばらになっていく。空いたテーブルの後片付けを進めながら、時見は何度目か分からないため息をこぼしてさり気なく浅葱の背中を見る。

 浅葱からの告白に対する返事を、時見はまだ出せていない。

 自分の中で答えはまとまっているのだ。しかし浅葱が仕事の都合でなかなか来店しなかったり、来た日に限って時見が休みだったりとすれ違いが続き、結局今日までずるずると先延ばしになってしまった。

 ――浅葱の手が空いたら声をかけるつもりだったのに、作業しっぱなしだしな。せっかく集中してるのに邪魔するわけにはいかないし。というかそもそも仕事中に伝えられるほど簡単な答えでもないような。

 連絡先を聞き、互いにとって都合のいい時間を決めて、そこで返事をするという発想は、残念ながら今の時見には無かった。

「いらっしゃいませー。何名さまですか?」

 店のドアが開いて、谷萩が朗らかに対応する。「二人です」と答えたのは二十代くらいの若い女性だった。テーブル席へ案内される際に挨拶がてら顔を見てみたが、恐らく初めてここに来た客だろう。

 ゴールデンウィークを境に新規客を見かけることが増え、今も常連に混じって二、三組はそういった客がいる。リピーターは今のところ見かけないのが厳しい現実だった。

「ご注文がお決まりの頃にまたお伺いしますね」

「あっ、頼むものは決まってて」お冷を置いて去ろうとした谷萩を、女性の一人が呼び止める。「デザートセットを二つお願いしたいんですけど」

「かしこまりました。デザートとドリンクはどれになさいますか?」

「んーと……ねえ、青士くんが食べてたのってどれだったっけ?」

 知っている名前が聞こえて、テーブルを拭いていた時見の手が一瞬止まる。不審がられないよう一旦レジまで戻り、それとなく女性たちの方を窺った。

 二人はスマホを片手に画面をスワイプして、谷萩となにやら言葉を交わしている。しばらくして戻ってきた谷萩がキッチンに注文を伝えるのを待ってから、時見はひそひそと話しかけた。

「さっき緋衣さんの名前が聞こえた気がしたんだけど」

「あそこのお客さんですよね。ランディエのファンらしいですよー。それでうちに来てくれたみたいで」

「……ごめん。ランディエのファンだからうちに来たっていうのが、いまいち繋がらない」

「けっこう前ですけど、お土産にって浅葱さんがケーキ買ってったの覚えてます? あの時、緋衣さんがケーキの写真撮ってSNSに載せてたみたいで」

 彼の投稿にファンは「美味しそうですね」「どこのケーキですか?」など様々なコメントを残した。数日後、緋衣はまた「この前食べたケーキが美味しかったので、メンバー御用達の喫茶店に行ってきたよ」と載せたのだが、その際にここの店名も記したようだ。

「それだけであんなにお客さんが増えてたのか?」

「SNSの拡散力とか話題性って意外と馬鹿に出来ませんよー」

 説得力のある台詞に、時見は唸るしかなかった。

 気になることはもう一つある。

「ランディエのファンなのに、あそこに浅葱がいることに気づいてないのか?」

 髪の根元が黒くなりつつあるが、浅葱の髪色は相変わらず派手で目立つ。だというのに、女性客たちが騒ぐ気配はない。

「どうなんでしょう」谷萩が腕を組み、首をかしげて唇を尖らせる。「浅葱さんだって気づいてるけどプライベートだから話しかけないのか、本当に気づいてないだけなのか」

「確かにいつだったか『他の二人に比べて気づかれない』って言ってたしね」

 ――浅葱としては、気づいてもらえた方が嬉しいんだろうか。

 ノートばかり見ていて疲れたのか、浅葱がアイスコーヒーに手を伸ばす。彼はコップの下に敷いてあったコースターを視線の高さまで掲げて観察しつつ、コーヒーを半分ほど減らすとまた作業に戻っていった。

 結局、浅葱は閉店時間ぎりぎりまでペンを走らせていた。十七時を過ぎたあたりから雨脚が強まったのもあって客はほぼ残っておらず、谷萩も帰ってしまったため店内を賑やかしているのはBGMと雨音、ペン先がノートを引っかく音だけだ。

 時見は浅葱の横に立ち、肩を叩こうとして躊躇った。作詞に熱中する横顔を見ていたい気持ちもあるけれど、このままでは店を閉められない。悩んだ末に「浅葱さん」と呼びかけながら肩をつつく。

「閉店時間ですよ。作業を切り上げていただかないと」

 浅葱が反応したのは十秒ほど待ってからだった。ゆるりと顔を上げて左右に視線を振り、ようやく時見がそばにいると気づいたらしい。

「すみません、御用でしたか」

「閉店時間だと申し上げました。もう浅葱さん以外のお客さまはいませんよ」

「……今何時ですか?」

「あと二分で夕方の六時です」

 時間の経過さえ忘れるほど没頭していたのか。呆れるあまり笑ってしまう。浅葱は申し訳なさそうに頬をかくと、名残惜しそうにノートを閉じた。少しだけ盗み見たページは文字でぎっしり埋まっていたが、以前と違って塗りつぶされている箇所は少なかったように思う。

「煮詰まっていた歌詞は完成させられそうですか」

 時見の問いに浅葱がほのかに微笑む。

「磯沢さんにアイデアを頂いていたものなら、すでに出来上がりました。今は亜藍がダンスの振り付けを考えている最中で」

「そうでしたか。いつ発表するんです?」

「八月のライブで披露出来たらな、と。ランディエは三曲やっていいと所長から言われているので」

 ライブでなにを披露してほしいか、とファンに頼んだアンケートはまだ応募が続いている。今月末で締め切って、来月上旬ごろには結果を公表するそうだ。一曲目と二曲目はそこで決まった曲、三曲目に新曲を発表する予定なのだろう。

 浅葱の口ぶりから察するに、途中経過の段階でも浅葱が歌詞を担当した曲を求める声が多く届いているに違いない。

「では先ほどまで書いていたのは?」

「また別の歌詞です。手紙が届かなくなってから、びっくりするくらい頭の中がすっきりしていて。この席に座っているのもあるんでしょうが、次から次に書きたいものが思い浮かんでくるんです」

「それは良かった。ですが時間も考えていただかないと」

「本当にすみません。ケーキを食べたところまではちゃんと時計を見ていた気がするんですが……開店直後からずっと居座ってしまった。ご迷惑でしたよね」

「店長や他のスタッフがどう感じていたかは知りませんが、少なくとも私は迷惑ではありませんでしたよ。客席も満席なわけではありませんでしたし、あなたがなにかに夢中な姿を見るのは好きなので」

 え、と浅葱が何度か目をまたたく。鳩が豆鉄砲を食ったような表情におかしさがこみ上げて、時見はくすくすと肩を揺らした。

「そういえば私が蓮を提案した時に名前をどう使うか悩んでおられましたが、結局どうされたんです?」

「あ……ああ、それなら酔芙蓉にしました。その方が歌詞的に収まりの良い箇所がいくつかあったのもありますが、単に蓮と表現するより美しい気がして。蓮と言えば」

 浅葱はコースターを掌に乗せ、壊れ物を扱うようにそうっと時見に差し出してくる。

「これの新しい絵柄、蓮になさったんですね」

 コースターの中央にはヴェールのような花弁が美しい蓮が堂々と描かれている。時見渾身の一作だ。納得のいく出来になるまで何日も掛かり、危うく締め切りを破りかけたのは秘密である。

 ただ満足のいく出来になっただけあり、草栄や年配の常連客からよく褒められた。綺麗だと賞賛されるたび、妥協しなくて良かったと心の底から思う。

 コースターの表面をそうっと撫でて、時見は少しだけ胸を張った。

「綺麗に描けているでしょう? 浅葱さんに花を問われなければ、私もこれを思いつくことは無かった。ありがとうございました」

「お互いさまです。こちらこそありがとうございました。アイデアを提供してくれたことも、ずっと泥を祓ってくれていたことも。このコースターは持って帰っても大丈夫なんでしょうか。部屋に飾っておきたくて」

「構いませんよ。よろしければこれも一緒にお持ち帰りください」

 時見はエプロンのポケットから取り出したものを、浅葱の手に乗せた。

 丸くカットされた白いそれはコースターだが、描いてあるのは蓮ではない。茎から丸みを帯びた葉がいくつも生えた植物で、大部分は緑だが先端にかけて赤く色づいている。葉に包まれていて分かりにくいが、丸っこい蕾もしっかり描いてあった。

 これはなんだ、と浅葱の眉が不思議そうに寄せられる。

「リューカデンドロンという名前の植物です。ご存じありませんか」

「名前くらいなら。俺の名前とよく似ているなと思ったので」

「私もそう思ったんです。だからこれを作った。先に言っておきますが、この絵柄はこの一枚しかありません。浅葱さんだけの特別なものです」

 眼鏡を外してから、時見は改めて浅葱を見た。彼の表情はレンズ越しでなくてもはっきり分かり、目元が喜びと驚きで朱色に染まっている。汚してしまわないようにか、コースターの端を摘まみながら「ありがとうございます、大切にします」と喜ばれれば、こちらとしても贈った甲斐がある。

 ――こんな風に笑うんだな。

 泥の影響を受けていた時は、淡く消えてしまいそうな笑い方が多かった。けれど今の笑顔はほんのり甘く、温かで安心感が漂う。

 さー、とキッチンから水音が聞こえてくる。草栄が洗い物を始めたのだろう。しばらくホールに顔を出しはしないはずだ。

「浅葱さん」

 コースターを持ったままの浅葱の手に己の手を重ねて、時見は真っすぐに目を見つめた。

「ここは……〝喫茶店 エスコ〟はお好きですか」

「? もちろん。明かりを見ていると落ち着きますし、紅茶もコーヒーも美味しいので好きです。というのは半分建前で、磯沢さんにお会いできて嬉しいのが本音ですが」

「正直で良いですね。ですが喫茶店は他にもあるでしょう。私に会おうと思えば予定を組めばどうにもでなる」

「それはそうですが、俺はここであなたを見るのが好きなんです。働いている時の貴方は活き活きしていて、楽しそうで、なにより美しい」

 飾り気のない直球の言葉と、揺るぎない情熱を秘めた視線が時見の胸に突き刺さる。

 顔が熱い。きっと首のあたりから耳の先までリンゴのごとく紅潮しているに違いなかった。

 細く息を吐いて、浅葱の手から頬へするりと手を移す。「泥がついていましたか」と訊ねる彼になにも答えないまま、時見は意を決して顔を寄せ、唇に口づけた。

 柔らかな感触が重なったのは一秒にも満たない時間だった。それでも顔から火が出そうな上、浅葱の反応が恐ろしくてすぐに距離を取り、目をそらしてしまう。

「……その、遅くなってしまいましたけど。これが私の答えです」

 怖々と浅葱を窺えば、ぽかんと口を開けて自身の唇を指でなぞっている。一瞬過ぎてなにをされたのか、理解が追いついていないらしい。

 彼は想いを言葉にしてぶつけてきたのに、自分は行動で示すだけというのもフェアではない。時見はパンクしそうになりながら、必死に言葉を紡いだ。

「……仮に緋衣さんや亜藍さん、輝恭みたいなアイドルが集合していて、そこに浅葱さんもいるとします。こんな言い方をすると浅葱さんに失礼かもしれませんが、多くの人は緋衣さんたちに目を奪われて、あなたに声をかけるのは二の次でしょう」

「まあ、そんな気はします」特に傷ついているわけでは無いのか、浅葱は静かにこっくりうなずく。「青士や亜藍、磯沢先輩ほど、俺はアイドルらしく輝いているわけでは無いんだと思います」

「私は――俺はそうは思わない。浅葱さんには浅葱さんの輝きがある。例えアイドルが百人いてあなたが埋もれそうになっていたとしても、ファン全員があなたに気づかなかったとしても、俺は絶対に浅葱さんを見つける」

 だからつまり、と息を吸い、時見は浅葱の頭を引き寄せて胸と腕で優しく包みこんだ。そのまま耳元に唇を寄せ、限界まで声を潜める。

「それくらいには、あなたが好きです」

「……磯沢さん」

 頼りない声音で浅葱が名前を呼ぶ。恐る恐る背中に回された腕はかすかに震えていた。

「磯沢さん、好きです」

「存じてます」

 浅葱の頬にもう一度触れて顔を上げさせる。どちらからともなく唇を寄せて、一つに重なった影が店の床に落ちた。

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