4章――④

 蝉の鳴き声で目を覚まし、朝食を摂るべく一階に下りると、居間の座椅子に輝恭が腰かけてテレビを見ていた。時見の眉間にしわが寄ったのを、自分が歓迎されていない証とでも受け取ったのだろう、弟は仏頂面でこちらに一瞬だけ目を向けてすぐテレビに向き直る。

「……なんでお前がいるんだ?」

「実家に帰ってきちゃ悪いかよ」

「そうは言ってない。捻くれた捉え方をするな。お前はいつもいつも……」

「朝っぱらからうるせぇっつの」

 時見の小言を呆れたように遮って、輝恭がテレビの音量を上げた。ちょうど番組が切り替わるタイミングだったらしく、日傘を差したアナウンサーの「おはようございます! 今日は八月十七日、パイナップルの日です!」と元気な挨拶が必要以上に大きく聞こえた。

 もう八月も中旬を過ぎたことに、時間の流れの速さを痛感する。梅雨が明けてからというもの酷暑続きで、何度体調を崩しそうになったか分からない。体調管理が功を奏して今のところ倒れていないのが、去年までの自分と比べるとほぼ奇跡に近かった。

 時見はキッチンでトーストしたパンとフルーツ入りのヨーグルトを調達し、輝恭から少し離れた位置に座った。いつもであれば視界に入れないよう十分距離を取るはずなのに、自分に寄ってくるとは思っていなかったのか、輝恭が眉を寄せる。キッチンで洗い物をしていた母が「あら」と驚く声も聞こえた。

「ンだよ。まだなんか文句あんのか」

「別に。俺もニュース見ようと思っただけだ。で? 最初の質問の答えは?」

「盆の期間中に帰ってこれなかったから顔出しに来た。それだけ」

 世間が連休を謳歌している間も、弟がなにかと忙しくしているのは母から伝え聞いていた。昨日は丸一日休みだったそうだが、連日の疲労を癒すべく家から一歩も出なかったという。

 時見は時見で、寺の行事が慌ただしかった。盆に向けて飾りや供え物を準備したり、父に代わって門徒の人々に説法を説いたりと目まぐるしい日々が続いた。さらに八月に入ってから盆までの期間限定で小学生向けにお経の読み方を教える取り組みがあり、例年は父の補佐をしていたところ今年から時見が一人でこなすことになったのも、多忙の一因だった。それらがようやく落ち着いたのが昨日のことだ。

 ――しばらく店に顔を出せてないけど、大丈夫だろうか。

 脳裏をよぎったのは草栄や谷萩をはじめとするスタッフだけではない。

 カウンターの六番席に腰かけて、黙々と手を動かす横顔がしばらく離れなかった。

 ――まあ浅葱も忙しいみたいだし、店には来てないかもしれないが。

 告白して交際することになったのを機に浅葱と連絡先を交換したのだが、最近は余裕が無くて通話どころかメッセージのやり取りすらまともにしていない。したとしても「おはようございます」「おやすみなさい」程度だ。

 それに寂しさを覚えるほど子どもではないけれど、少しだけ物足りなさもある。

 不意にブブッと振動音がした。スマホに通知が来たらしく「そろそろ行くか」と呟きながら輝恭が立ち上がる。「なに、もう行くの」と母がキッチンから問いかけた。

「予定入ってんだ。あんまりゆっくりしてられねえ」

「……ライブのリハーサルか?」

「なんでライブやること知ってんだ」

「お前がじいちゃんの店にチラシ貼れって言ったんだろうが」

 現在〝喫茶店 エスコ〟のレジカウンターには、輝恭から預けられたライブのチラシというよりポスターの最新版が貼ってある。貼った位置が良かったのか目を留めてくれる客もいて、時見もたまに「弟がライブをやるそうで」と答えていた。

 なんとなく眼鏡を外してみれば、輝恭の腕まわりに泥がぼんやりまとわりついている。以前は欠片も見当たらなかったのに、やはり芸能人である故か、多少なりとも誰かしらからネガティブな思いを向けられているのだろう。

「……アイドルはまだ続けるのか」

「またそれかよ」鬱陶しそうに呟いて、輝恭ががしがしと頭をかく。「そもそも辞めるって言った覚えはねぇぞ」

「捻くれた捉え方をするなってさっき言ったはずだ。俺はただ心配してるだけで」

「兄貴が心配してんのは俺じゃなくて自分と寺だろ。いいか、俺は後を継ぐ気は」

「ない、だろ。知ってる。……悪かった。今までお前に押しつけようとして」

「あ?」居間を出ていこうとする姿勢のまま輝恭が固まった。「なんだいきなり。なんか悪いもんでも食ったのか」

 人が謝っているというのになんだその解釈は。反射的に声を荒らげそうになるのを抑えるようにトーストを齧って、飲みこむまでの間に言葉を整理する。

「俺も昔ほど体調崩してるわけじゃないし、お前を俺の代わりとして見るのを止めようと考え直しただけだ。お前はお前、俺は俺だから」

「なに当たり前のこと言ってんだ」

「その当たり前に気づくのが遅かったから謝ってるんだろうが」

「謝ってる奴の態度じゃねえけど」

「やかましい。とにかく俺が責任をもって後を継ぐ。寺も、店も」

 草栄が店仕舞いしようとしているのを輝恭は知らなかったのだろう。きょとんと目をまたたく彼に祖父が考えていたことをかいつまんで説明して、次いで自分の決心を告げた。

「エスコを愛してくれてるお客さんは大勢いる。もちろんスタッフも。あの店の雰囲気だからこそゆっくり出来るって人もいるし、俺は店も思いも受け継いでいきたくて」

「好きにすりゃいいと思うけど、寺と両立出来んのか」

 血がつながっていると懸念も似るのだろうか。時見の考えを伝えた時、草栄から真っ先に心配されたのもその点だ。

 寺の住職と喫茶店の店長を兼任する――つまりそれぞれの責任が丸ごと時見に圧し掛かってくるのだ。それが負担になって体調を崩してしまい、どちらかが、あるいはどちらも疎かになってしまわないか、というのが草栄の意見だった。

 しかし。

『確かに私は病弱のきらいがありますし、心配されるのも当然でしょう。ですがなにごともやってみなければ分かりません。私に出来うる努力や工夫は全て試すつもりです。無鉄砲で無責任と思われるかも知れませんが、どうか一度、私を信じていただけないでしょうか』

 閉店後に深々と頭を下げた時見に、草栄は初めこそ厳しい表情を浮かべていたが、やがてふわりと微笑んでうなずいてくれた。祖父も本心では店を残したかったのだろう。

「とはいえ店の経営が厳しいのは事実だし、考えないといけないことは山ほどあるが」

「ま、良いんじゃねえの。それが兄貴のやりたいことで、自分で選んだ道なら」

 ふうん、と素っ気ない相槌ばかりで興味が無さそうだったわりに、輝恭の唇には笑みが乗っていた。

 気のせいだろうか。彼の腕にまとわりついていた泥がわずかに薄れている。

「アイドルを続けるのかって聞いたな。世間から認められる限り、俺はこの道を進み続けてやる。俺は誰の代わりでもない〝磯沢輝恭〟で、俺を求めるファンが一人でもいて支えてくれるんなら、それに応えるまでだ」

 力強い言葉が述べられるとともに、泥が輝恭から離れていく。

 どうして今まで気づかなかったのだろう。泥を生むのはネガティブな思いでも、反対に消し飛ばすのはポジティブな思いであることに。いくら暗い感情を向けられたとしても、輝恭は名前で示すがごとくそれらを弾いて来たに違いない。

 自分にまとわりつくものだけでなく、彼を応援するファンたちのぶんも。

「兄貴もそうすりゃいいんじゃねえの」

「俺も?」

「檀家でも客でも、あんたに居てほしいって奴を大事にすりゃいい。そういうのはだいたい相手に伝わるし、そうすりゃ向こうもこっちを大事にしてくれる。単純そうで意外と難しいけどな。んじゃ、外で連れが待ってるから行くわ」

 ひらひらと手を振って輝恭が出ていく。

 その背中はいつかと同じように眩く輝いて見えた。


「今日やけに輝恭先輩の機嫌良ぇなーて思とってんけど、なるほどなー。磯沢さんと仲直りしたんが理由やったんか」

 テーブル席の窓際を陣取った緋衣が、生クリームたっぷりのショートケーキを口に運びながらしきりにうなずく。その隣に腰かける亜藍は「食いながら喋んな」と彼を小突こうとして避けられ、二人の対面に居る浅葱は無言でガトーショコラを頬張っていた。

 夏休み期間ということもあり、ティータイムのピークを過ぎても〝喫茶店 エスコ〟の店内にはなにもない平日に比べて賑わっていた。

「仲直りというほどのものでもないですが」と苦笑しつつ、時見は三人の前にコースターを並べて、そこへ縦長のグラスを置いていく。中には青色と白色の二層に分かれたドリンクが入っており、たっぷりの氷と相まって夏らしい涼やかさがあった。

 新作メニューを考えたので飲んで感想を聞かせてほしい、と浅葱に連絡したのが七月も終わりがけのことだ。来たるライブに向けて打ち合わせやレッスンだけでなく別の仕事も続いていたようで、「やっと時間が確保できました」とメッセージが届いたのが今日の昼過ぎである。

 事務所での打ち合わせ終わりだとかで、緋衣と亜藍まで来るとは思わなかったが、それだけ多く感想を聞けるということでもある。得体の知れないドリンクに対して首をかしげる三人に、時見は「バタフライピーラテです」と正体を教えた。

「バタフライピー?」

 なにそれ、と言いたげに緋衣がグラスを引き寄せた。からん、と氷がぶつかり合って清らかに響く。

「ハーブティーの一種です。花びらに含まれる成分の影響で青いんですが、例えば」

 時見はもう一つ別の、青一色のドリンクをテーブルに置いた。グラスの縁にはレモンが一切れ添えてあり、果汁を絞って軽くかき混ぜれば青から紫へと色が移り変わる。おぉ、と緋衣と亜藍が同時に感嘆した。

「このように面白い変化が楽しめるドリンクなんです。皆さんにお出ししたのはミルクを加えてラテにしたものでして、これを新たにメニューとして出そうかと。よろしければ忌憚のないご意見をお聞かせください」

「ほんなら遠慮なく」

 緋衣が飲み始めたのをきっかけに、浅葱、亜藍と順にドリンクに手を伸ばす。ストローでかき混ぜれば、分かれていた二色が一つになってまろやかな水色になった。

 どんな感想がぶつけられるのか、緊張で冷や汗が止まらない。それを悟られないよう出来るだけ表情を引き締めていたつもりだが、何度か頬が引きつりそうになった。

 ふと浅葱を見れば、目を閉じてじっくり味わってくれている。視線を感じたのか蕩けるような笑みを向けられて、緊張が和らぐどころか照れくさくなり、耳を赤くしたまま視線をそらしてしまった。

「不味くはない」最初に口を開いたのは亜藍だった。空になったグラスを揺らして「不味くはない」とくり返す。

「不味くはない……と言いますと」

「『めっちゃ美味い!』とはならねえって感じ。なんか、あっさりしてるっていうか」

「ちょっとそっちのミルク入ってない方飲んでもええです? ――うん、あれやね。ハーブティー単体そのものがあんまり味あらへんのかな。香りもあんまり……? 見た目は綺麗なんやけど。リューカくんどうやった?」

「まろやかな甘みがあるなと。これは牛乳の味ですか?」

「そうですね。あと練乳も加えてあるんですが……あっさりしているとなると、少し足りなかったかも知れません」

 草栄にも少し前に試してもらっていたのだが、感想は「ちょうどいいお味ですね」だった。が、そもそも草栄の好みが薄味なのを失念していた。多くの客に明確に「美味しい」と感じてもらうにはまだまだ試行錯誤が必要そうだろう。時見はエプロンのポケットからメモ帳を取り出し、三人の意見を書きこんだ。

「ありがとうございました。参考にさせていただきます」

「お力になれたのなら幸いです。しかしなぜ急に新作メニューの開発を?」

「今後も店を残していくためには、集客のための変化も必要かと思いまして」

 新進気鋭の話題カフェと違って、エスコで提供しているメニューは季節限定のものを除いてほとんど変わらない。それを〝レトロ喫茶〟として好意的に受け取る客もいれば、反対に〝ちょっと古くさい〟と感じる者もいる。

 昔ながらのものも残しつつ、時代に即した新たな風も取り入れるべきではないか。そう考えた結果、時見はメニュー開発に着手したのだ。

「店のSNSも始めたんです。投稿はほとんど谷萩さんに任せきりなんですが、映え写真というんですか、彼女はああいうのを撮るのがとても上手くて。時々『SNSで見ました』というお客さんも来て下さるんです」

「へー。良かったやないですか」

「アイデアを思いつけたのは皆さんのおかげです」

 青士がSNSに店のことを書いてくれなければ、そこを利用しての集客は考えつかなかった。ランディエが青い蝶をモチーフとしていることから「そういえば蝶の名前で青いお茶があったような」と連想することが出来た。彼らと――浅葱と関わっていなければ、どれにも辿り着けなかったに違いない。

「あ、ほんならさ。せっかくやし僕らとコラボすんのはどうです?」

 名案でしょうとばかりに、緋衣がぱんっと手を叩く。

「コラボ、ですか」

「バタフライピーラテと、僕らが好きなデザート組み合わせた特別セット作るんですよ。緋衣セットやとちょっとネーミングがダサいし……あれや、カラスアゲハセットでどうやろ。アランくんやったらルリタテハセット、リューカくんやったらアオスジアゲハセットかな」

 ぽんぽんと出てくる緋衣のアイデアを急いで書きとめつつ、時見は目をまたたいた。

「そのカラスアゲハとかルリタテハとかは、蝶の名前ですか」

「俺たちそれぞれの衣装のテーマにしてる蝶です。どれも青っぽい蝶で、俺のアオスジアゲハはこれですね」

 これです、と浅葱が蝶の画像を表示する。瞬間、時見の口が「あ」の形で固まった。

 ――夢で見たことがある。

 そこに写っていたのはいつぞやの夢に現れて、泥を溶かしていった蝶だった。浅葱の衣装の袖口を見た時に蝶の柄と似ていると思ったが、テーマにしているのなら当然だ。

 ――そうか。あの蝶は浅葱の象徴だったのか。

 ランディエとコラボするなら口約束ではなく、彼らの事務所に正式にオファーする必要があるだろう。輝恭が副所長を務めているからと言って、それに甘えるつもりはない。互いにメリットのある案を練っておかなければ許可は下りないだろう。

 仕事が増えて大変なのは確かだが、それ以上に期待と夢が膨らんでいた。

「そういえばずっと気になっていたんですが。緋衣さんと亜藍さんの髪が青いのはユニット名にちなんだものだと分かるんですけど、なんで浅葱さんだけ色が違うんです?」

「房崎さんが琉佳先輩だけその色にしたんだよ」

 時見の問いに答えながら、亜藍が憎々しげにストローでグラスをかき回す。

 聞けばランディエの三人は長らく房崎にカットやカラーをしてもらっていたそうだ。当初は浅葱の髪も水色に染まるはずだったが、直前になって房崎から「君はこっちの方が似合うよ」と珊瑚色にされたらしい。

「今考えたらあれも琉佳先輩だけ省くつもりだったんだろうな。けど琉佳先輩もこのままでいいかって変えてねえし。いいのかよ、それで」

「今さら変えてもな。これに馴染んでるから問題ない」

 後ろ髪を摘まんでうなずく浅葱に、亜藍が「俺は問題なくない!」と反論する。今からでも青くして統一感を持たせたいのだろう。

「磯沢さんはどうですか」

「はい? 私ですか?」

 浅葱に訊ねられて、時見は自分自身を指さした。青く染めるべきか否か、どちらがいいか、という意味での「どうですか」か。

 であれば答えは一つだ。

「そのままでいいと思います。この色もよくお似合いだと思いますから」

「うっそだろ。いや似合ってるのは似合ってるけど、でもさあ」

「まあええやん。リューカくんがこのままでええて言うんとるんやで」まだ不満そうな亜藍を宥めて、緋衣が机にのっぺりと頬を押しつける。「あー、次こんなにゆっくり出来んのいつやろ」

 ライブは五日後に迫っている。リハーサルや他のユニットとの最終打ち合わせなどやることがたっぷり控えているほか、合間に別の仕事やオーディションの予定もいくつか入っているという。

「ひと段落したらいらしてください。モーニングでもランチでも、ティータイムでも。いつでもお待ちしております。私も今度のライブに足を運ばせていただきますので」

「おっ、そうなんですか。嬉しいですー」

 チケットを取るかかなり悩んだのだが、谷萩から「行って後悔か行かずに後悔か、どっちかですよ」と発破をかけられたのもあり、思い切って購入したのだ。さすがに一人で行く勇気はないため、彼女に付き添ってもらうのだけれど。

 支払いを済ませた三人が出ていくのを見送りながら、時見は浅葱を呼び止めそうになった。いささか痩せたように見えるが大丈夫か、泥はまとわりついていないか、ライブで披露する曲は決まったのか――話したいことは色々ある。しかし彼もそうとは限らない。まっすぐ家に帰って休みたいと思っていたなら迷惑になってしまう。

 悩んでいるうちにドアが閉まってしまう。そういえば浅葱は一度も振り返らなかった。やはり早く家に帰りたかったのだろう。ため息をついて仕事に戻りかけた時、再びドアの鈴が鳴る。

「磯沢さん」とドアの隙間から、浅葱が呼んでいた。

 店内はかなり落ち着いている。時見は草栄や他のスタッフに少し抜けることを告げて外に出た。店の前には浅葱しかおらず、二人には先に帰ってもらったという。

「どうされましたか」

「もう少しだけあなたとお話ししたかったんです。ご迷惑でしたか」

 ――なんだ、浅葱もだったのか。

 いえ、と首を横に振って浅葱を見上げる。あまり長く店を抜けるわけにはいかない。話せても五分くらいか。

「今度のライブ、楽しみにしています。酔芙蓉以外になにを歌うかは決まったんですか」

「ええ。どれかは内緒ですが、きっと磯沢さんの好きな曲ですよ」

「それはもうほとんど答えを言っているようなものだと思いますが」

 ですね、と揃ってくすくす笑う。

 他愛のない、穏やかな時間がこんなにも甘いとは思いもしなかった。

 ――俺は多分、浅葱が女性だったとしても恋をしていたんだろう。

「浅葱さん。かなり前ですが、俺とあなた、二人だけが知る約束をしようと言ってくれたのを覚えていますか」

「もちろん。なにか思いつきましたか」

「ええ。……俺の光であり続けてくれませんか」

 浅葱がそばで輝きを放ってくれるからこそ、時見は泥に埋もれずにいられる。闇の中で道を見失いそうになっても、浅葱が照らしてくれるおかげで目指すべき場所が分かるのだ。

 する、と右手の小指に浅葱の小指が絡まった。時見の指の形を確かめるように、しっかりと。

「磯沢さんのおかげで、俺は今ここに立っていられます。あなたに会わなければ俺はきっと、暗い繭の中で腐って死ぬ蝶と大差なかった。磯沢さんの方こそ代わりなんていない、俺にとっての光です」

「っ……」

 その言葉がどれだけ嬉しいか、浅葱は知っているだろうか。目頭がじんわり熱くなり、今にも涙がこぼれそうになる。

「なのでこうしませんか。互いが互いにとっての光になる、と」

「良いですよ。約束しましょう」

 俺は必ずあなたの光になる。

 時見の震える声と、浅葱の甘やかな低い声が重なる。絡んだままの指を解いて、互いの熱が残る指先にそっと口づけたのが約束の証になった。

 そろそろ店に戻らなければ。別れの挨拶は名残惜しくなるだけだと分かっている。だから言葉にしない。

 時見が店に入ろうとすると、背後から「磯沢さん」と呼びかけられた。

「あなたを好きになって本当に良かった。愛してます」

「え。はっ!?」

「ではまた、ライブの日に」

 真っすぐな言葉をぶつけられて、時見は喘ぐ魚のごとく口をはくはくさせながらしゃがみこんだ。そんなこちらの気など知った様子もなく、浅葱は清々しい笑顔で背を向け、駆け足で去っていく。その姿はまるで、大空を自由に舞う蝶に似ていた。

 顔を真っ赤にして涙目のまま動けず、なかなか戻ってこないため様子を見に来た草栄に体調不良を疑われる羽目になることを、時見はまだ知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

松が繭を破るとき 小野寺かける @kake_hika

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ