2章――④
体温計の液晶に表示された数字を見て、時見は唇をへの字に歪めた。その拍子に頭と喉がずきりと痛み、布団の上に両腕を投げ出す。
ゴールデンウィークに浮かれる人々を翻弄するように、不安定な気候が続いている。春を忘れていきなり夏が来たと思えば急激に寒くなり、翌日にはまた穏やかな陽気が戻るめちゃくちゃさが四月下旬からくり返され、果たして見事に体調を崩した。
風邪の引き始めはいつも喉の違和感から始まる。今回も異変を覚えた時点で薬を飲んだのだが、効果を得られたとは言い難い。
「頭痛い……」
絞り出した声はがさついて明らかに不調と分かる。鏡を見れば恐らく普段より数倍肌が青白いだろう。
これでも三日前よりましになったのだ。咳はほとんど出なくなったし、一時は三十八度まで上がった熱も平熱近くまで下がった。眠っている間に母が用意してくれたのか、ベッド脇にはスポーツドリンクとゼリー飲料、風邪薬を並べた盆が残されている。
薬を飲むためにもゼリーくらい胃に入れておこうか考えたところで、枕元のスマホが鳴動した。短さから考えてメッセージの着信だろう。亀にも劣る緩慢さで体を起こせば、寝てばかりだった体が鈍く軋んだ。
ず、とゼリーをゆったり吸いこみながらスマホを確認する。時刻は十二時を少し過ぎたあたりで、朝食代わりのヨーグルトを食べてから五時間近く眠っていたことを知った。
『体調はいかがですか』
メッセージの送り主は草栄だった。ゴールデンウィークも終わりがけの端午の節句当日とあり、喫茶店の客入りはなにもない平日に比べて多いはずだ。忙しい合間を縫って連絡してくれたのだろう。
約一ヵ月前にも体調不良に陥った際、祖父に「自己管理を徹底しないと」と宣言したのにこのざまだ。草栄だけでなく、他のスタッフにも迷惑をかけてしまった。歯がゆさに唇を噛みながら、一文字ずつぽつぽつと返信を打ちこむ。
『だいぶ快復してきました。お休みを頂いてしまって申し訳ありません』
『気になさらないでください。少し前から顔色が悪そうでしたし、法事の補佐などで疲れも重なったのでしょう。念のため土曜日までお休みして日曜日から復帰してください。代わりに出勤してくれる方には僕から連絡しておきます』
『お手数をおかけします。よろしくお願いします』
似たようなやり取りを何度草栄としてきただろう。欠勤を連絡して怒られたことはなく、谷萩をはじめとするスタッフも慣れたように時見が抜けた穴を埋めてくれる。
その優しさとありがたさが、遅効性の毒のごとくじくじくと心を蝕む。
――いてもいなくても問題ない。
学生の頃にアルバイト先で言われた台詞を思い出して、抱えた膝に額を押しつける。
どこの店だったかは覚えていない。ただ、体調不良で数日休んでから復帰して、それを店長に詫びた際に言われたのだ。
『磯沢くんの代わりはいるから、いてもいなくてもどっちでもいいんだよね』と。
半分も減っていないゼリーに蓋をして、ぼす、と枕に頭を預ける。
――〝磯沢時見〟じゃなければ駄目なものなんてない。
草栄の店には優秀なスタッフが揃っており、寺の後継ぎ候補も輝恭がいる。頭のすみで分かっていたことではあった。自分の身になにかあったとしても、代わりの誰かが時見のいない場所を補うことで世界はつつがなく回るのだ。
「……ありがたいことだろ。店も、寺も、俺にしか出来ないことなんてあったらむしろ困る」
自分自身に言い聞かせるように呟き、手で顔を覆って固く目を閉じる。数秒もしないうちに意識は水底へ沈むように遠くなり、我に返った時には暗闇の中に放りだされていた。
光が無く、前後左右の間隔が掴めない。はっきり見えるのは自分の手や体だけだ。誰かいないか呼びかけたところで返事はなく、暗闇に囚われているのは自分だけだと痛感する。前へ踏み出そうとした足首には泥が絡みつき、ぞぞ、と少しずつ上ってくる。
泥は汗ばんだ手に似て生温かく、湿っぽい。不愉快なそれはいくら払いのけてもまとわりついて、時見を取りこもうとする。
恐らくいつもの夢だ。子どもの頃からくり返し見ているけれど、毎回取り乱してしまう。
歳を重ねるごとに、目覚めるまでの時間が長くなっているように思うのだ。目覚めたいと思っても願いは叶わず、そのたびにまさか夢ではなく死後の世界なのではと戦慄する。
いつしか脚は完全に泥に覆われ、暗闇と同化していた。感覚も無くなって、いよいよここから逃げられない。それでも抵抗を試みて体をよじり、腕をがむしゃらに振り回してみたが、泥はまるで嘲笑うように揺れてまとわりついてくる。
――怖い、気持ち悪い、苦しい。
みっともなく叫んだところで、助けてくれる誰かはいない。
泥はやがて首、そして顔に到達した。瞬間、頭の中に得体の知れない感情が渦巻く。
憎しみ、怯え、屈辱、恐怖、怒り、妬ましさ。時見がこれまで祓ってきた泥に含まれていた、ありとあらゆる負の感情が膨大な波となって押し寄せてくる。気を抜くとどことも知れない彼方へ
――死にたくない。
このまま目覚めずに死んでしまうのではないか。そんな恐ろしさをかき消すためにも、獣のような咆哮を上げながら、どうにか右腕を泥から引っ張り上げて前に伸ばす。
けれど結局、最後は頭の先まで隙間なく泥に覆われ、悲鳴を上げて目を覚ますのだ。
しかし、今回はいつもと様子が違った。
――なんだ?
伸ばした腕の先で、ふとなにかがきらめいた。
ふよふよ、ひらひらと、時見の目の前を行き来するそれは光の
光は当てもなく
「……蝶?」
時見の無意識の問いかけに対し、それは「そうだ」とうなずくように宙返りする。
青い光をまとって舞っていたのは黒っぽい蝶だった。近くで見ると思っていた以上に素早く羽ばたき、忙しなく時見の周囲を飛んでは次々に泥を溶かしていく。時見を覆っていたそれも蝶から逃げるように剥がれては、光の粉を落とされてなす
全身を包みこんでいた不快感や苦しさはいつしか消えて、暗闇には時見と蝶だけが残された。
――こんなこと初めてだ。
半ば呆然としながら頭上を仰げば、蝶はすいすいと目まぐるしく舞っている。
そっと手を出して待ってみると、程なくして蝶が手の甲に留まった。動いていた時には分からなかったが、黒い翅には青緑色の太い模様が縦に走っていた。
「助けてくれたのか」
問いかけに、蝶はゆらりと
不思議だ。蝶に触れられている箇所を中心に、柔らかな温もりが広がる。
これと同じ温かさを、つい最近どこかで感じた気がした。
「ありがとう」と感謝を伝える前に、蝶は再び宙を舞った。そのまま光の粒になるほど遠くまで離れると、目が潰れかねない強烈な光を放って、あたりの暗闇を一掃する。
咄嗟に目をつぶって、そろそろと瞼を開けた時には、見慣れた天井が目の前にあった。それほど長い時間眠ったわけでは無かったようで、小窓から差しこむ日差しはほんの少しだけ角度を変えていた。
体を起こすと、あの夢を見た後にいつも残っていた倦怠感がどこにもない。気分も重たくなく、心なしか体調も良くなっている。
「……さっきのは」
まだ温もりが残っている気がして、右手の甲に視線を落とす。そこに泥はもちろん、蝶の影も無い。
あれはいったいなんだったのだろう。同じ夢をくり返し見てきた中で初めての変化だった。混乱はしたけれど、それ以上に安堵の方が強い。
不意にスマホがメロディーを奏でる。メッセージの着信音だ。画面に表示された名前は「谷萩さん」である。
『お疲れさまです。谷萩です』
時間帯から考えるに、昼のピークを終えて休憩しているのだろう。微笑んでお辞儀をするナマコのキャラクターのスタンプが挨拶に続いた。
『お休みのところお邪魔してすみません。日曜日に復帰するってさっき店長から聞きました。今日の体調はどうですか?』
時見が挨拶を打ちこもうとしている間に、次のメッセージを受け取った。若者だからか、彼女は文字を打つのが恐ろしく速い。
『ご心配とご迷惑をおかけしました。ほとんど良くなったけど、まだ少し喉が本調子ではないかも』
『気にしないでください。困ったときはお互いさまです。もし今、テレビ見れるくらい体調が良くなってたら、ぜひ見てほしいものがあったので連絡しました』
――見てほしいもの?
新聞のテレビ欄は毎日見ているが、寝込んでいる場合はその限りではない。連休中ゆえスペシャル番組を放送しているテレビ局が多そうなことは予想がつくけれど。
文字で聞くよりスタンプを送った方が手っ取り早い。時見は「?」を浮かべて首をかしげる柴犬のそれをタップした。
『ゴールデンウィーク特別企画って感じで、今日は昼間から歌番組の生放送やってて、それに浅葱さん出るんです。もうすぐ出番来ますよ』
かなり古びてはいるが、未だ現役の小型テレビがバックルームに設置されている。どうやら谷萩はそれで番組を観賞しているようだ。
『そうなんだ。なんでわざわざ教えてくれたんだ』
『磯沢さんに伝えておいてくれって浅葱さんに頼まれたんです。磯沢さんが休んでる時に一回だけお店に来たんですよ』
仕事が立て込んでいたのか、浅葱は緋衣たちと帰った日以来、店に来ていなかった。
谷萩によれば、時見に渡したいものがあると言って、欠勤していると伝えたところなにかしらの包みを置き、伝言を託してすぐに帰ってしまったらしい。包みの中身は借りる約束をしていたCDだろう。
『すぐ連絡するつもりだったんですけど、忙しくて完全に忘れててさっき思い出しました』
ごめんなさい、と汗を散らして土下座するナマコのスタンプが送られてきた。今の谷萩はこれと同じ表情を浮かべていそうだ。
『いいよ。とりあえず、その番組を見ればいいのかな』
『体調が平気そうだったら、ぜひ。ちょうどCM入ったところなので、それ終わったら出番みたいですよ』
ありがとう、と返信してから、時見は眼鏡を手にのそのそと一階に降りる。一ヵ月前なら「気が向いたら」と受け流して観なかったかもしれないのに、足は自然と大きめのテレビがある居間に向いていた。寝込んでばかりが退屈で、無意識に娯楽を求めていたのかも知れない。両親は出かけているようで、家の中にひと気はなかった。
好都合だ。もし母がいれば「体調もう大丈夫なの」「あんたがこの系統の番組見るなんて珍しいじゃない」など質問ぜめにされかねない。一応、各部屋を見て回って両親がいないのを再確認してからテレビをつける。
「生放送……歌番組……これか」
新聞のテレビ欄で番組を確認してリモコンを押せば、ちょうどCM明けのスタジオが映るところだった。普段は父が使っている座椅子に腰かけて、時見はじっと画面に視線を注ぐ。
進行役と思しき若い男女のタレントが笑顔で拍手し、「番組もいよいよ中盤までやってきました」「早いですねー」とコメントする。画面の右上部には次に歌うアーティストが表示され、ランディエと確かに記されていた。
寝起きでまだ頭が完全に覚醒していないせいか、眼鏡をかけてもなお視界はぼやけるし、タレントたちのトークが耳に入っても右から左に流れていく。
「さて、お次はランディエの皆さんです」トークタイムを終えて、女性タレントが時おり手元のカンペに目を落としながらユニットの紹介を述べた。「今回はファンの間でも特に人気の高い一曲を披露していただけるということです!」
「『ユニット名にふさわしい演出にも注目してほしい』とのことですが、どんなパフォーマンスを披露してくれるのか楽しみですね」
「ここでメンバーの緋衣さんから豆知識を頂いております。『ランディエは中国語で〝青い蝶〟って意味なんです』だそうですよ。へー、知りませんでした!」
――青い蝶?
はっとした時見の脳裏で、夢に現れた蝶がひらりと舞った。
「それでは歌っていただきます。『春風に泳ぐ』です。どうぞ!」
男性タレントが盛大に紹介してすぐ、画面が切り替わる。明るいスタジオから一転、映し出されたのは薄ぼんやりとした闇に沈む円形のステージと、その周囲で無数に揺れる青や水色の光の群れだ。
光の正体はファンたちが灯すペンライトだ。二胡が奏でるしめやかなイントロに合わせて、一切の乱れなく揺れている。『陽炎と鬼灯』と違うのは、エレキギターらしき音色がアクセントになっている点か。
息を吸う音が聞こえると同時に、まろやかな色合いのスポットライトがステージを照らす。その中心には中国の民族衣装――
まず切り抜かれたのは知らない青年だった。〝アラン〟と呼ばれていた、時見が顔を合わせたことのないメンバーだろう。肩にかかる程度まで伸ばされた髪は緋衣よりも青みが濃く、耳には扇らしき形の赤いピアスが揺れている。長いまつ毛の下の大きな瞳は夜の訪れを思わせる紺青色で、自信に満ちた光を湛えていた。エネルギッシュな声には聴き覚えがあるが『陽炎と鬼灯』に比べて大人しめの印象があった。曲によって歌い方を変えているのかも知れない。
次に映ったのは緋衣で、先日店で会った時と変わらない笑顔で初恋の喜びをメロディーに乗せている。ファンや視聴者に向かって差し出された手の先は青い。マニキュアを塗っているのか。
――青い蝶だから、髪も服も爪も青いのか。
――あれ、でも浅葱の髪は青くないような。
店で何度も見たから覚えている。彼の髪は黄色みも感じる強い赤、海原を彩る珊瑚色だ。
《ひと目見て感じた 君ほど美しい人を 僕は知らない》
告白めいたフレーズを歌い上げたのはその浅葱だった。少々強張った顔つきは感情豊かとは言い難いが、テノールボイスは甘くうららかで、まさしく花の香りを運ぶ春の風だ。この詩も彼が綴ったのだろうか。黒い革手袋に包まれた手が、宙を泳ぐ蝶のようにひるがえる。
「うん?」
一瞬映った浅葱の袖口のデザインに、時見は首をかしげた。
――あそこの模様、どこかで見たような。
――そうだ、夢に出て来た蝶に似てる。
画面は三人まとめて収めたものに変わり、彼らは息の合ったダンスを披露していた。体を激しく動かすようなものではなく、リズムに合わせてステップを踏んだり、胸に募る想いを解放するように腕を広げたりと、見ていて良い意味で力の抜ける動きだ。
曲はサビに突入する。それを待っていたように、ステージの周囲で揺らぐものがあった。
ステージだけでなく、スタジオ全体に無数の青い蝶が降りそそいでいる。本物ではなく、紙かなにかで作った偽物だろう。浅葱たちのダンス、ファンが振るペンライト、スタジオの空調など、各所から発生した風に乗って自由に飛び回っている。
やがて床に落ちるのは儚さを感じるが、一瞬の美の演出として最高だった。
《微笑みは日差し 言葉は風 君はまるで春風の化身 僕の心を抱きしめる》
《どうか知ってほしい 僕が抱く愛しさ その大きさを》
《君でなければ 駄目なんだ 君だからこそ 心惹かれてしまうんだ》
盛り上がりは最高潮に達し、三人の幻想的な歌声がスタジオいっぱいに広がる。
二胡の余韻を残して曲が終わると、ファンたちが一斉にペンライトを激しく振った。横並びになった三人の立ち位置から考えて、リーダーはアランなのだろう。「ありがとうございました!」と満面の笑みでカメラに向かって手を振っている。
緋衣もファンに手を振ったり、ウインクしたりとサービスを欠かさない。画面越しにも分かるほど、あちこちから黄色い声が上がっていた。
浅葱はといえば、下手くそな笑顔で四方へ順に会釈するだけだ。他の二人が嬉々としているぶん、ぎこちなさが際立っている。
泥の影響を疑って、時見は眼鏡をずらして彼を窺った。しかしカメラに泥は映らず、どれだけの量がまだ浅葱に残っているのか掴めない。
――この前会ってから泥を祓えてない。もしかしてあれよりも増えたせいで、上手く笑えないとか。約束のこともあるし、顔を合わせてちゃんと確認してやらないと。
次の出番のアーティスト名が画面の右上に表れ、浅葱たちは歓声を浴びて手を振りながらステージを降りる。
時見はテレビを切り、しばらく座ったまま固まっていた。
浅葱の歌声が耳の奥でずっと響いている。不器用な笑顔もまなうらに焼き付いて離れず、胸がじんわり熱くなる。
アイドルに対する苦手意識は知らないうちに消えていた。浅葱の活躍を進んで観るだけでなく、泥の心配までする己の変化に戸惑って、時見は悔しさとも羞恥ともつかない感情を吐き出すように低く呻く。
熱はもう下がったはずなのに、顔がまた熱くなっていた。
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