2章――③

 やけに親しみを感じる笑みだ。けれど知り合いの覚えがない。

 男は谷萩に席を案内されるより早く、するすると滑るように時見たちに近づいてくる。警戒も露わに眉をひそめた横で、浅葱が「セイジ」と呟くのが聞こえた。

「やーっと見つけたわ」時見の真後ろに立った彼は手を伸ばし、浅葱の髪を気安くかき回す。「連絡しても全然出ぇへんし、事務所にも家にも居らへんねんもん。僕めっちゃ捜しまわったんやで」

 浅葱はされるがままで大人しく、ただ小声で「すまん」とだけ謝る。

「スマホ見てなかった」

「そんなことやろおもたわ。ちゃんと見やなあかんよ。僕もアランくんも心配すんねんで」

「すまん」

「ん。許したろ」

 最後に後頭部を指で弾いて、男がようやく浅葱から手を放す。

 誰なのだ、この男は。浅葱の口調は時見と接するそれと違っていくぶん砕けており、気心の知れた相手なのは察知したが。

 おずおず振り向くと、こちらを見下ろす彼と目が合う。切れ長の目はどことなく狐に似て、口の右下にぽつんとある黒子は妖艶な色っぽさを放っていた。よく見れば長い髪はポニーテールで結わえてあり、菱形の飾りがついた赤い紐が髪の青さを際立たせている。

 色とりどりのビジューがついた柄シャツ、スカートと見間違えそうな裾の広いパンツ、蝶が連なったブレスレットなど、浅葱や輝恭とはまた方向の違う派手な外見だ。男は唇に再び笑みを刷き、「こんにちは」と時見に挨拶を述べる。

 静謐ながらよく通るその声は、どこかで聴いた覚えがあった。

「ごめんな、僕なんかお邪魔してしもた?」

 男が控えめに指さしたのは、小指同士を絡めたままの時見と浅葱の手だった。時見は慌てて手を引っこめ、ぎこちなく首を横に振る。浅葱は指を解かれた姿勢のまま、残念そうにしばらく固まっていた。

「セイジ、なにやってるの?」

 新たな声が聞こえて視線を振ると、もう一人の男が長髪の彼の肩に腕を回していた。

「俺たちの席はあっちだって。ほら行くよ」

「えー、ちょい待ってやー」

 抗議もむなしく、セイジと呼ばれた男は窓際のテーブル席に引きずられていく。

 つむじ風のごとき数秒の騒がしさだった。二人が席に着くのを見送ってから浅葱に目を向けると、散々乱された髪を手櫛で整えている。

「お騒がせしてすみません」

「いえ全然、お気になさらず。えっと、さっきの人は……」

「以前、俺を虫に例えた友人がいたと話したのを覚えてますか。それがあいつです」

 名前を緋衣ひごろも青士せいじといい、浅葱と同じユニットに所属しているそうだ。浅葱より一つ年上で、ランディエでは主に作曲を担っていると教えてくれた。

 ――じゃあ緋衣を連行していったもう一人は。

 記憶が定かならランディエは三人組だ。単純に考えれば、彼が残りの一人なのだろう。

 確信が持てないのは顔をまったく知らない上、少しだけ聞こえた声に心当たりがないからだ。

「あなたを捜してここに来たようなことを仰っていましたけど」

「みたいですね」

「そんな他人事みたいに……連絡だってもらっていたんでしょう」

「家を出たらすぐにマナーモードにしてしまうので」

 だったら仕方ないか、とはならない。バイブの設定はしてあるようだが、カバンに放りこんだ状態だとなにかしら通知があった際の振動にほぼ気づかないらしい。それならズボンのポケットにでも入れておいた方が得策な気がした。

 春らしい穏やかな気候とはいえ、あちこち捜しまわるのは骨が折れただろう。すぐ後ろの席に座っている緋衣を見やれば、谷萩が持ってきたお冷を一息に煽っていた。

 芸能人ゆえの勘の良さか、注目されているのを感じ取ったようだ。時見に気づくと愛想よく笑い、ちょいちょいと手招きをした。

 ――俺に向けられたものじゃないな。

「あなたを呼んでいるようですよ」時見が浅葱の肩を軽くつつくと、彼はおっとりと緋衣の方に振り向く。「なにか話があるようですし、行かれては」

「そうみたいですね。少し席を外します」

 浅葱が緋衣のもとに向かうのをなんとなく目で追う。あの背中にも、おぞましい量の泥がまとわりついているのだろうか。

 ――あれだけの泥となると、特定の誰かから執着されている線が強そうだ。

 よく似た事例として谷萩が挙げられる。彼女が以前クラスメイトからもらった誕生日プレゼントには異常な量の泥が付着していたが、「意中の人を独占できるおまじない」として爪が潜んでいたのが原因だった。

 特定のものをどうにかしたい、というのは執着心として最も分かりやすい。恋愛や羨望、嫉妬など、どんな感情がきっかけにせよ強い執着は苦しみを育む種になり、苦しみはネガティブな思いそのものとして泥を生む。

 つまり浅葱も、何者かから強く執着されている可能性が高いのだ。谷萩の時のように思いのこもった物体を取り除くことで解決すればいいが、全身を覆うほどとなると確実に一筋縄ではいかない。

「今さら祓っても焼け石に水だよな……泥が無くなるまで触り続けたら俺まで潰れかねないし……待てよ。アイドルなんだからファンがいるよな。もしファンが原因なら本当にどうしようも……」

「磯沢さん」

 とん、と肩をつつかれて、時見は舌を噛みかけた。

 いつの間にか浅葱が背後に立っていたのだ。ぶつぶつ呟いていたのを聞かれていたか心配で焦り、「なんでしょう」と応じた声がいくらか上擦った。

「すみません、青士に『一緒に食べないか』と誘われました」

「あ、ああ。席を移動されますか。私の話はひとまず終わりましたし、どうぞお構いなく」

「それが『良かったら磯沢さんも』と」

「……私も?」

「磯沢さんから俺たちの曲について感想を聞いていたと話したら、自分もぜひ教えてほしいと言い出して」

 浅葱の体越しに緋衣を窺えば、「早く早く」と待ちかねるように頭を左右にふらふら揺らしている。動きにあわせて振れる髪は馬の尾にそっくりだ。

 休憩時間はまだ余裕がある。断るための言い訳も思いつかず、時見は緋衣の誘いを受けた。

 他の客の対応をしていた谷萩に手振りとアイコンタクトで席を変える旨を伝え、緋衣たちがいるテーブル席に移る。緋衣が黒髪の男を窓際に追いやって通路沿いの椅子に腰を下ろし、浅葱が男の対面を選んだために時見は緋衣の正面に着座するしかなくなった。

「急に誘ってしもてすみません。僕、緋衣て言います」微笑みながらも緋衣は丁寧に頭を下げた。「リューカくんがそちらさんのこと『僕らの曲聴いてくれた人や』て言うてたから、ちょっとお話してみたいなー思て」

「リューカ?」

「俺の下の名前です」浅葱が自分を指さしてノートを広げ、ページのすみに慣れた手つきで記す。「琉球の〝琉〟に、佳境の〝佳〟で〝琉佳りゅうか〟」

 言われてみれば先日見た動画で作詞者と作曲者が表示された際、ぼんやり見たような気がする。名字のイメージしかなかったせいであまり覚えていなかった。

 時見が名乗ると、緋衣は名字にぴんときた様子だった。すぐに「輝恭先輩のご家族?」と訊ねてくる。

「兄です。あいつとは七歳離れていて」

「やっぱり? 目の形とか輝恭先輩によう似てはるから、そうかな思たんですよ」

「そうですか? むしろ『あまり似てない』と言われることの方が多いので。緋衣さんは関西のご出身なんですか」

「なんやお見合いみたいな質問やな」

 ふくく、と緋衣がおかしそうに笑う。気を悪くしたわけではなく、純粋に会話が楽しいようだ。

「父親が転勤族やったんですよ。僕が小さい頃は東海のあたりを行き来しとったもんで、そっちの方の方言が沁みついてもて。にしても、ほんま兄弟ですね。輝恭先輩にもだいぶ前に同じようなこと聞かれましたもん」

「あいつとの付き合いは長いんですか」

「高校ん時からようお世話になってます。部活おんなじやったもんで、その縁で事務所移る時にも声かけてくれたんです」

「……事務所移る……?」

「輝恭先輩、去年の秋くらいに六年くらいったとこ辞めて新しい事務所行ったんですよ。僕らはそれについていかせてもろた、て感じですね」

 輝恭関連の情報なら両親が話していたかもしれないが、耳にすると腹が立つため意図的に聞き流すことがほとんどで、両親もわざわざ話題を振ってくることは無かった。事務所を移ったことはもちろん知らず、しかも副所長の立場だというのも初めて把握した。

 時見の知らない――知ろうとしない――ところで、弟はまた、己の道を進みつつあるのか。

「お待たせしましたー、デザートセットお二つです」

 時見が俯きかけたところで、谷萩が緋衣と男の前に注文の品を届けに来た。緋衣は桜風味のロールケーキとアイスティー、男はガトーショコラとアイスコーヒーをそれぞれ頼んだようだ。

「この前リューカくんがお土産にここのケーキくれたんですよ」

 谷萩がテーブルの端に伝票を置いて去るのを待ってから、緋衣がケーキにフォークを入れる。よほど楽しみだったのか、ケーキを味わう表情は無邪気な少年のようだった。

「めっちゃ美味しかったから僕もいっぺん行きたい言うたんやけど、『お前が来るとうるさくなる』てお店の名前も場所も教えてくれへんくて」

「事実だろ。実際うるさい」

「そんな言い方せんでええやんかー、悲しいわあ」

「青士の言う通りだよ」緋衣の隣の男が、アイスコーヒーにガムシロップをたっぷり入れながらしきりにうなずく。「もっと優しい伝え方があるんじゃない? 青士が傷ついて泣いたらどうするの」

 男の目と唇は面相筆で描いたように細い。冷然とした雰囲気から放たれる批難めいた眼差しに、浅葱はいささか眉を寄せたまま口を噤む。緋衣は緋衣で、男に対して「別に傷ついてへんけど」と肩をすくめていた。

 微弱な電流さながらのぴりりとした緊張感が肌を刺す。時見はぞくりと震えた腕をさり気なく撫でた。改めて聞いた男の声は冬の日陰に似た冷たさを帯び、動画で何度も聴いたエネルギッシュな声帯の持ち主とは思えない。

 ――ランディエじゃないなら誰なんだ。マネージャーとか、浅葱と緋衣の共通の友人とか。

 考察している間にも浅葱たちの会話は進む。

「ここをどうやって突きとめた」

「『お土産もらいました』てケーキの写真撮ったやん? それにケーキ入っとった箱が映りこんどって、お店の名前書いてあったから住所検索しただけ。隠れ家的ていうんかな、見つけんの難儀したわ」

「そこまでして俺を捜した用事は?」

「今度出るテレビの打ち合わせ入ったでっていう連絡と、作詞の進捗状況確認。あとはちょっと迷惑なお手紙のこともあるけど、詳しいことはまた事務所でな。作詞の方は進んだ?」

「一週間前よりは。完成にはまだ遠いが」

「ずいぶんのんびり進行してるんだね、君」

「ガクは黙っとき。口挟まんでええねん」

 緋衣に脇腹を小突かれても、ガクと呼ばれた男はどこ吹く風でアイスコーヒーを飲む。フルーティーな香りと苦みが自慢のそれは、多量のガムシロップのせいで本来の風味を失っていそうだ。

 ――ガク? さっきは『僕もアランくんも心配する』って言ってたような。

 断片的な情報ばかりで、これ以上は答えが出そうにない。時見は誰が悟ることも無い降参の白旗を挙げ、浅葱に小声で彼が何者か問いかけた。

「あの人は房崎ふさざきさんです。青士の友人で」

「いいよ。自分のことは自分で紹介するから」耳聡く自分の名前を聞きつけて、彼は浅葱の台詞を制してどこからか名刺ケースを取り出す。「房崎雅玖がくです。以後お見知りおきを」

 差し出された名刺には名前とメールアドレス、電話番号のほか〝美容師〟と記載されていた。

 紹介すると言ったわりに、房崎は名刺に書かれていないことまで説明する気は無さそうだ。時見が名刺を受け取ると椅子にもたれて退屈そうに窓の外を眺めはじめた。

「ま、ちゃんと進んどるんやったらええわ。締め切りには間に合うんやろ?」

「間に合うというか、間に合わせる。それが仕事だから」

「ほな問題あらへん。急いで雑なもん作られるより、ゆっくりでも満足のいくもん出してくれた方が僕は嬉しいで。アランくんは文句言うかも知れへんけど」

「あいつが文句言うのはいつものことだろ」

「それもそうや」

 緋衣が鷹揚おうように笑えば、場に漂っていた緊張感がいくばくか和らいだ。アイスティーを一口飲んだところで時見を招いた本題を思い出したらしく、求められるまま、時見は浅葱にも伝えたのとほぼ変わらない曲の感想を伝える。

 逐一照れくさそうに反応するのは大袈裟に思えたがわざとらしさは無く、時見としても悪い気はしなかった。

「曲に限らへんけど、なんでも『すごいねー』言われるんは嬉しいもんですね」

 からからとストローでアイスティーをかき混ぜる緋衣に、浅葱が無言で首肯していた。

 時見も気持ちは分かる。コースター用の花の絵を描くと真っ先に草栄に見せるのだが、いつも手放しで讃えてくれる。初めの頃はむずがゆくて卑下に近い謙遜をしたこともあったが、「必要以上にへりくだるのは美徳ではありませんよ」と諭されてからはやめた。

 だから緋衣がアイスティーのグラスを持ったまま、「綺麗な絵ェやな」とコースターに目を留めてくれた際、時見は自然と「ありがとうございます」と礼をこぼしていた。

「これ磯沢さんが描いたん?」

「コースターのイラストは私が担当してるんです。お褒めの言葉、恐縮です」

「僕あんま花に詳しないんやけど、これなんて種類なんやろ。ピンクやし桜? リューカくん分かる?」

花海棠はなかいどう――ですよね」

 前半の即答は緋衣に、後半の確認は時見に向けられたものだ。

 浅葱の目利きは正しい。草栄すら一言目に桜かと聞いてきたのに、まさかヒントも無しに言い当てるとは。驚嘆して目を見開いていると、不安になったのか顔を覗きこまれた。

「違いましたか」

「いえ、合ってます。よく分かりましたね。ひと目で見抜いたの浅葱さんが初めてですよ」

「桜に似てますが、花弁が桜より広くてふわっと丸かったのでそうかな、と。というか青士。俺たちの曲に『ハナカイドウ』ってあるんだが。花の写真も見せたことあるはず」

「言うたやん、僕あんま花詳しないて。見たことあってもすぐ忘れてまう……あ、ちょっと電話」

 不貞腐れたような表情をまたたく間に潜めて、緋衣は振動していたスマホを耳に当てた。わざわざ店の外に出て行ったのは、浅葱にうるさいと注意されていたからか。後を追うように、房崎も「タバコ吸ってくる」と席を立った。

 初対面の相手が二人とも目の前からいなくなり、時見は細く長く息を吐いた。

「大丈夫ですか。すみません、青士がずっと喋っていて」

 浅葱は申し訳なさそうに己の腿に両手を重ねて首を垂れる。白状すれば、ゆとりのない空気感に加えて多量の泥を視た反動で、社交的な表情を貼り付け続けるのに限界を感じていた。電話がかかってこなければ休憩終わりを口実に離席していただろう。

 ――泥について思い当たることが無いか聞きたかったのに、これじゃ無理だ。

 冷めきった紅茶を飲んで気力を僅かばかり回復し、どうにか平気な振りをしてみせる。取り繕った笑顔でも怒っていないことは充分伝わったようで、浅葱は気を取り直したようにコースターをそっと撫でる。

「青士より先に伝えたかった」

「? なにをです」

「俺もずっと思っていたんです。書き手の心がそのまま表れたような、綺麗で美しい絵だなと。色鉛筆を使ってるんでしょうか、タッチの柔らかさと淡い色使いがとても好きです」

「あ、ありがとうございます」

 回りくどさのないはっきりした感想に、時見は面食らいながら自分の頬に手を添えた。

 ――こうでもしないと顔が緩んでるのがバレそうだ。

「サインの一つでも書いてあれば、磯沢さんが描いたものだとすぐに分かったのに」

「書いてありますよ。ほら、ここに」

 きょとんとする浅葱の手からコースターを抜き取って、時見は花の右下あたりを指先で叩いた。

「〝松〟?」

「名前をそのまま書くのは面白みが無いなと悩んでいたら、じいさ……店長が〝松〟を推したんです。私の名前が〝松〟の別名から取られているからでしょうね。一文字だけだからさっと書けて楽なんですよ」

「……曲によく使う都合上、植物には詳しいつもりでいたんですが。松の別名は存じませんでした。まだまだ不勉強です」

 浅葱がつんと唇を尖らせて腕を組む。その横顔は本気で悔しそうで、時見はくすくすと肩を揺らした。

「笑わないでください」

「失礼。なんだか可愛らしくて。次に花を描いたら真っ先に浅葱さんにお見せしますから、それでお許しを」

 普段は浅葱から伸ばされる小指を、今回は時見から差し出した。浅葱は数秒ほど仏頂面で動かなかったが、やがて眉間からやんわり力を抜いて手を伸ばしてくる。

 指が絡んで解ける頃合いを見計らったかのように、緋衣と房崎が戻ってきた。緋衣は座ることなく荷物と伝票を掴むと、浅葱に立つよう促す。

「アランくんから電話やった。えらいご立腹やったで。『ロン毛も琉佳先輩もどこほっつき歩いてんだ』てめちゃくちゃ怒られた」

「俺を捜しに行くと伝えてないのか」

「言うてたような、言うてなかったような」

 てへ、と舌を出して愛嬌を見せる緋衣に、浅葱はやれやれと首を振っていた。

「事務所の会議室で待っとるで、一時間以内にさっさと来いやってさ。僕会計してくるで、荷物まとめて外で待っとってくれる? 輝恭先輩のお兄さんも、またおはなししましょ」

 時見が返事をするのも待たず、緋衣は足早にレジへ向かう。さり気なく浅葱のぶんの伝票まで持って行ったあたり卒がない。

「慌ただしくてすみません」

 緋衣に言われた通り荷物をまとめながら、浅葱が時見にぺこりと頭を下げた。

「青士にお付き合いくださってありがとうございました。せっかくの休憩時間だったのに」

「お気になさらず。賑やかで良かったですよ」

「房崎さんも。俺を捜すのに、急に呼び出されたんじゃありませんか」

「ご明察。別にいいけどね。休みだったし、青士に頼られるのは嫌いじゃない。このままあいつとどこか遊びに行きたかったのが本音だけど、君らとの仕事の方が大切みたいだし?」

 語尾にはあからさまにうんざりした響きが含まれている。房崎が親しいのは緋衣だけで、浅葱やもう一人のメンバーとはそうでも無いのか。

「ああ、そうそう」なにを思い出したのか、房崎はぱちんと指を鳴らす。「手紙のこと、いい加減どうにかしなよ。青士から何回も困ってるって相談されてるんだよね」

「……分かってます」

「あっそ。ならいいよ」

「ちょっとー? なにしとんのー?」

 ドアを半分開けた状態で、緋衣が浅葱たちに呼びかける。房崎は「ごめんごめん」と顔の前で手を合わせながら彼に駆け寄った。

 浅葱もすぐに追いかけるのかと思いきや、一向に歩きだそうとしない。

 どうしたのだろう。訝しんで顔を上げると、彼は時見を真っすぐに見下ろしていた。

 その瞳は道に迷った子どものように揺れ、そこはかとない寂寥せきりょう感が漂っている。「磯沢さん」と時見を呼ぶ声も心細い。

「一瞬だけでいいので、手を出してくれませんか」

 また指切りでも交わすつもりか。特に疑問も持たず小指を立てた状態で右手を出すと、浅葱の両手が時見のそこを包みこんだ。

「ん、えっ?」

「また来ます」

 ぎゅう、と力を込めてすぐに放すと、浅葱は緋衣を追って店を出て行ってしまう。

 ――なんだったんだ、今の。

 手の甲には浅葱の温もりの一片が残されている。

 グラスの氷が溶け、透き通った音が耳に届くまでの束の間、時見は動けなかった。

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